71.あなたを愛しているのは
アルヴィドがかつて確かに愛した女。
この人にあの艶やかな声で甘く囁いた。
あの深緑の瞳は、どれほど優しく見つめたのか。
パウラの胸の中にある思いが、はっきりと形になる。
痛くて苦しくて、胸がきりきりと絞めつけられる。
「3度目の生でようやく得た唯一の人だ。
相手が誰であろうと、けして渡さない」
アルヴィドの声が蘇り、甘く胸がうずいて同時にじりじりと焼けついた。
あの声、あの蕩けるような微笑を知るのは、パウラだけで良い。
「誰であろうと渡さない」とは、こういう感情であったのか。
初めて知った。
独占欲、嫉妬とは、こんなに苦しいものだったなんて。
初めての感情に戸惑うパウラを、アルヴィドがじっと見つめていた。
深緑の瞳にはまず訝しみ、ついで驚きの色が浮かび、最後に歓喜の色が支配する。
「パウラ」
呼びかけられた声に、パウラは赤くなった。
多分、きっと気づかれたと悟る。
気恥ずかしい。
こういう時、世の女たちはどのような表情をするのだろう。知ったからと言って、それと同じ表情ができるとは、とても思えないけれど。
とにかく恥ずかしくて恥ずかしくて、とてもアルヴィドの顔をまともに見ることはできなかった。
「おのれ……、小娘が。
わたくしの前で、よくも」
ひきつれた声で竜后が叫ぶ。
いけない。
防禦しなければと思った瞬間、パウラのものではない金色の輝きが辺りを染めた。
濃い黄金の微粒子が、きらきらと輝いて部屋の隅々までを覆う。
清浄なる輝きは眩しく、迷いなく、潔く。
心の奥からいっさいの穢れを取り除いてくれるようだ。
黄金竜オーディの輝きだと、すぐにわかった。
「もうそのあたりで、どうか赦してやってほしい」
前世に、聞いたこともない悲し気な黄金竜の声だった。
こんな情のこもった、表情のある声も出せるのだと驚く。
パウラの知る黄金竜の声は、いつも事務的な冷たさと共にあった。
竜后がからむと、こうも違うのか。
(一応わたくしも側室だったのだけれど……。
この扱いの差は、なに?)
呆れながらも、どこかで黄金竜の素直さ、単純さに笑いがこみあげる。
けして前世、パウラに飼殺し人生を強いたことを許すわけではない。
けれどもこのあからさまにエコひいきする単純さは、黄金竜は確かに竜なのだと感じさせてくれる。
唯一のためなら、どんなに愚かにも身勝手にもなれる。
唯一以外の女など、目に入らない。
なんとも竜らしい竜ではないか。
「ヘルムダールの外れ、湖の側に崩れかけた城がある。
知っているだろう?」
崩れかけたとは失礼なとは思ったけれど、確かにそんな城があることをパウラは思い出した。
背中に低い山、正面には透き通った湖を抱えるそこは、ヘルムダール初代当主の愛した居城であったらしい。
懐具合のあまり良くないヘルムダールが維持するには、少々物入り過ぎる城ゆえに、手入れが行き届かず荒れ放題になっていた。
「昔そこで、まだ少女の頃の竜后に会った。
一目でわかった。
わたしの唯一だと。
それからずっと、彼女だけがわたしのすべてなんだよ」
名のみとは言え前世の夫だった男が、切なげに悲し気に切々と告白しているのに、パウラは平静だった。
つい先ほど感じた、焼けつくような痛みはまるでない。
これほどまでに違うものかと、我がことながら驚いている。
「パウラ。
君にもう一度やり直しを許したのは、君が願ったからでもあるけれど、わたしの都合でもあったんだよ。
竜后を放してあげることは、わたしにはできない。
けれど彼女をこのままでいさせて良いわけがないことも、わかっていたからね」
黄金竜は金色に輝く頭を軽く振った。
緑の瞳は暗く沈んで、諸々のあきらめがその底にたゆたう。
「情けないけれど、わたしには唯一を追い詰めることはできない。
君にならできるだろう。
だから君に賭けた。
勝手なと、どれだけ罵ってもらってもかまわないよ」
以前のパウラなら、罵ったことだろう。
誰かを思って温かくなる心、そして裏腹に嫉妬や独占欲に醜くひきつれる心を知る前なら、盛大に優等生の理屈でもって黄金竜の身勝手さを罵った。
今のパウラには、できない。
俗に言う「惚れた弱み」。竜のそれは、特にひどいとわかるから。
「これだけ愛されていて、それにほだされない女ですのよ?
まったく厄介な唯一をお選びになったものですわ」
苦笑まじりに応えると、黄金竜はその美しい白い頬を真っ赤に染めた。
「けれども、そうですわね。
おっしゃるとおり、このままでは困りますわ。
あの方のご機嫌を取り結ぶためになら、あなたはなんでもなさる。
あなたが黄金竜では、世が立ちゆきません」
竜族の長を下りてほしいと、できるだけ穏やかにパウラは願った。
パウラが自分の思いを自覚した上は、地竜の血を継ぐアルヴィドの方が黄金竜より強い。
相愛の竜と片恋の竜。
哀しいかな、現黄金竜は相愛ではない。
「力づくなど、そんな無粋なことをしたくはありませんの」
できれば自ら、唯一を連れてどこかへ去ってほしい。
行き場がないと言うのなら、適当な場所を用意しよう。生涯彼とその妻が困らぬ生活を、保証しても良い。
「いやじゃ!
なぜわたくしが、そやつと共に去らねばならぬ。
わたくしはアルヴィドと……」
竜后の乾いた声は、弱々しく途切れがちで、その力が減衰していることを皆に知らせる。
それでも往生際悪く、過去の愛に執着している姿は憐れで、同時に腹立たしい。
自分が誰を愛してるかにこだわるあまり、自分が誰に愛されているか、愛してくれている誰かにまるで頓着しない無神経さが、とてもとても腹立たしい。
その思いを口にしかけた瞬間に、艶のある穏やかな声が響いた。
「あなたを愛しているのは俺ではない。
もうあなたも、わかっているのだろう?」
アルヴィドの声は、かつての恋人を思いやるように優しい。
けれどその優しさは、愛ゆえではないのだとはっきりと伝える。
「どうかあなたも、あなたを愛する竜の男に応えてほしい。
幸せになってほしいと、そう願っている」
今はもう、おまえは唯一ではない。
突きつけられて、竜后はほろほろと涙をこぼす。
黄金竜がその肩をそっと抱き寄せる。
声もなく泣き続ける唯一を、しっかり胸に抱いていた。




