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69.きいた風な口をきくな

 高い山の連なる峰が続く。

 眼下にたなびく雲の切れ端、それを運ぶ案外強い風。

 ここは確かに人の世ではないと思わせてくれる、生き物の気配のほとんど感じられない空間だった。


 頬を打つ冷たい風は、いつぶりだろう。

 前にここに来たのは、思い出せないほど昔のこと。用件もその時の様子もすっかり忘れてしまったが、風が冷たかったことだけは憶えている。

 背の低い草の原の向こうから、傲然とこちらを見下ろす白い神殿に、前世パウラの名のみの夫だった男がいる。

 そして彼の正室、竜后オーディアナもそこに。


「行くぞ」


 散歩にでも出るようだ。

 気軽で気負いのないアルヴィドの声が降る。

 ふり仰ぐと、深緑の瞳が柔らかく笑っていた。


「パウラは俺の唯一だ。

 傷1つ、つけさせると思うか?」


 俗世の、人の世の気配のないピンとはりつめた空気の中で、よくもまあ。

 こんな甘いことが言える。

 アルヴィド、こんな性格だったろうか。

 けれどおかげで、肩の力が抜けた。

 ほっと息をつくと、パウラは意識して笑顔を作った。


「頼りにしていますわ」


「良い返事だ」


 黒い手袋をした指が、パウラの指をからめるようにして握った。


「俺から離れるな」


 指先にぎゅっと力をこめると、パウラの手を引いてアルヴィドは詠唱を始める。

 銀色の輝きが二人を包む。

 次の瞬間、薄暗い部屋の中にいた。




 

 かび臭い。

 鼻先にしわを寄せて、パウラは口元を覆った。

 部屋の空気がよどんでいる。

 いつから換気をしていないのか。


 ここは何処だろう。

 ぐるりと辺りを見回すと、あちこちに施された細工や調度など、極上のしつらえだとわかる。

 壁際には重いカーテンがかかっているが、どう見ても長い間開閉された様子はない。

 薄汚れた緑の生地全体に、おびただしい埃が積もっている。

 部屋の奥から、ぼんやりと弱い灯りが漏れていた。

 どうやらランタンのようだ。

 人がいるらしい気配に、パウラの背に緊張が走る。


「ようやく来やったか」


 歌うような抑揚の、女の声がする。


「ほんに思い切りの悪いことじゃ。

 どれほど待たされたと思ってか」


 暗がりに慣れてきた目を凝らす。

 オレンジ色のランタンの灯の側に、大きな寝台があった。

 そこに女が腰かけている。

 直感した。

 彼女が竜后オーディアナだと。


「いつ来るか、いつ来てくれるかと、それだけを(たの)みにわたくしは耐えたのじゃ。

 なのにおまえは、意気地がない。

 3度目でようやくじゃ」


 ゆらりと立ち上がり、竜后はこちらへ近づいた。

 その膝まで届く長い髪は、ヘルムダール特有の銀の色。豊かにその背を覆い、暗がりを優しく照らす。

 身体のラインは白いトーガに隠されているが、そこからのぞくほっそりと長い首や白い手が、母アデラとは違う繊細なシルエットを想像させた。

 そのエメラルドの瞳が、ひたとアルヴィドにあてられる。


「どうした?

 唯一、最愛の顔を、まさか忘れたとでも?」


 そんなことは絶対にないと、信じて疑わぬ顔だった。

 愛し気に伸ばされた指が、アルヴィドの頬にかかる。

 

 そっと引きはがされた指。

 

 はじめて彼女の顔色が変わった。



「あなたは竜后オーディアナだ。

 昔、自分でそう選んだはず」


 僅かな痛みをのせた深緑の瞳が、まっすぐに彼女を見る。

 

「遠い昔の思い出を、あなたと俺は共有している。

 現在と未来をではなく」


 アルヴィドの静かな声が、よどんだ部屋の空気に響いて溶けた。

 竜后の白い指を引きはがした同じ手で、アルヴィドはパウラの身体を抱き寄せる。


「遠い記憶はほとんど残っていない。

 あなたとのことはいくらか残っているが、かなりおぼろげだ」

 

 淡々と告げられるからこそ、それが事実なのだとパウラにもわかる。

 竜后には許せなかったのだろう。

 アルヴィドの腕に抱かれたパウラに、掴みかかった。

 

「そこをどきゃ!

 ヘルムダールの末裔(すえ)、小娘が!

 アルヴィドを(たぶら)かしおったか」


 嫉妬に歪んだ竜后の白い顔を間近に、パウラは彼女の銀の髪や長い爪が、長い間手入れらしい手入れをされていないことに気づいた。

 竜族の長の正室である。

 この世で一番の贅沢をきわめると噂される彼女が、長い髪を結うことも長い爪を整えることも部屋を清潔に保つこともしていない。


(プラチナムの家具が欲しいと、この人が言ったのよね)


 狂ったようにパウラを攻め立てる竜后に肩を揺さぶられながら、パウラはその不自然さに首を傾げる。


「プラチナムの家具をご所望と、耳にいたしました。

 この部屋でお使いでしょうか」


 半狂乱の竜后に、冷めた声でパウラは問いかける。

 彼女のヒステリーより、そちらの方にこそ興味があったから。


「そなたに質問を許してはおらぬ。

 控えよ」


 さらに高くなる声に、パウラは厳しい声でかぶせた。


「大切なことです。

 お答えください。

 あなたがプラチナムの家具を、黄金竜に強請(ねだ)ったのですか?」


 竜后への敬意など、これっぽっちもなかった。

 前世から今この瞬間まで、黄金竜(オーディ)やその妻に虐げられこそすれ世話になったり恩を受けたことなどない。

 他人の迷惑など考えず好き放題している彼らに、はらうべき敬意など最初から持ち合わせていない。


「プラチナム……だと?

 ああ、あれか。

 身の回りをかまいつけよと、黄金竜(オーディ)があまりに煩く言うのでな。

 プラチナムの家具でもあれば、気も晴れようかと、そう答えたか。

 希少な鉱石じゃからの、とても無理であろう?」


 しぶしぶそう答えた竜后に、パウラはかっとなる。


「無理など、あなたの夫に無理などないことは、よくご存知でしょうに。

 なぜそんなことをおっしゃったのですか?

 煩く言われるのが嫌なら、はっきりそう言えば良かったでしょう。

 そのために、罪もない民がどんな苦しい思いをしているか」


「そなたに、そなたに何がわかる!

 きいた風な口をきくな」


 射殺さんばかりの強い眼光で、竜后はパウラを睨みつける。

 昔の恋に囚われていまだ自由になれない女の執着が、おどろおどろしくパウラに粟肌をたてさせた。


「わたくしがアルヴィドをどれほど愛したか。

 どれほど待ち続けたか。

 アルヴィド以外要らぬ。

 そう思って、どれほどの時間を耐えてきたか。

 他の者のことなど、どうしてわたくしが考えてやらねばならぬ」


 パウラの襟首を締め上げるようにしてぶつけられた竜后の言葉は、悲鳴のように聞こえた。

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