60.地竜の試練、始まる
地竜の試練は、北のヴォーロフ公国で行われる。
そこは南のゲルラと並んで、竜以外の獣を始祖とする一族、蛮族の集落を多く残す土地である。
遠い昔に失った領土を奪還することは、蛮族と呼ばれる人々共通の悲願であり、だから彼らはいついかなる時も、絶えずその機会をうかがっていた。竜族との小競り合いなど珍しくもない。辺境では、断続的な争乱が起きては鎮まりまた起こりを繰り返している。
その1つに、一触即発の気配漂う銀狼族とのもめ事がある。それを争いなくしておさめること。
今回、パウラとエリーヌに与えられた実践課題であった。
北のヴォーロフの中でも、その最北端。吐く息さえ凍るという高い山の連なる地に、銀狼族の集落はある。
そこに赴くとなれば極寒に耐えられる仕様が必要で、魔術で耐性強化をした上で、さらに衣装や持ち物、とりわけ食糧と水への気遣いは必須であった。
「水はないと困るけど……。
凍るわよね」
課題試験遠征の準備をする手を止めて、パウラの唇からはついつい独り言がこぼれる。
野営地には耐寒結界を張るとしても、移動中に飲み水は必要で、最低1リットル程度は携行しなくてはならない。
たとえ聖使同行の課題試験中であっても、パウラが口にするものはけして他人の手を介さないこと。
師匠のナナミから厳しく言われているそのことを、パウラはしっかり守っている。
「溶かせばいいだけなのだけれど……」
ごく微量の魔力を使えば凍った水など一瞬で溶かせるが、魔力を使えば銀狼側にこちらの存在を気取られるので、移動中の使用はできるだけ控えた方が良い。
「少し重いけど、耐寒の保温ポットを持っていくしかないわね」
転移魔法はかなり膨大な魔力を使うので、その使用などもってのほか。凍結した路面の危険を考えて、飛竜による移動が予定されている。
馬と同様、1頭に多くとも2人乗りがせいぜいで、持ち込む荷もできるだけ少なくする必要がある。聖使の使用であっても、必要以上の贅沢は許されない。訓練された飛竜は、それほど貴重なものだから。
黄金竜の泉地付きの飛竜騎士2名が従うことになっていた。それにパウラの飛竜が加わり、3頭の飛竜が投入される。
「わたしアルヴィド様と一緒がいいです!」
エリーヌがそう言って、アルヴィドの腕をとったのを苦々しく思い出す。
前世と同様、エリーヌはアルヴィドに照準を定めているようだ。
前世、彼女はアルヴィドとセスランに狙いをつけて粉をかけた。最後にはセスランをモノにしたが。
「今回は思いどおりにさせるわけにはいかないのよ」
シュラフをぼすんと叩いて、パウラは声に出した。
聖紋を授かったヘルムダールの女子には、逃れようのない責任がある。
そう教わり言い聞かされて育ってきたのだ。それが良いとか悪いとか、選んでいられる立場にはない。
そのはずなのに……。
パウラと同じように聖紋を持つエリーヌは、息をするように自然に責任を放棄した。苦悩の翳などかけらもなく、しごくあっさりとけろりとさえしていたように見えた。
エリーヌにとっての聖紋は責任の証ではなく、黄金竜の泉地に上がるための許可証のようなものだ。彼女の本当の目的は、そこ黄金竜の泉地で出会う4人の青年、そのうちの誰か一人を得ること。だから試験など、最初から眼中にない。
聖紋は、どの公家でもただ一人にだけ現れる。
だからこそ尊ばれるし、価値もある。 けれどそれは、いったん召喚された際の重い責任とセットになった尊さと価値である。その重い、重すぎる責任をパウラは知っている。尊さも価値も要らないから、どうか消してほしいとさえ願う聖紋を、まるで評判の俳優を目当てに、公演のチケットを手に入れるような軽い感覚でエリーヌは扱う。
ヘルムダールに生まれた女子の運命だと、前世のパウラは自分に言い聞かせた。
まだはっきりと形になる前だった淡い思いには、気づかぬふりをして目をつぶり、エリーヌのあからさまな挑発も笑顔でやり過ごした。
けれど2度目の今生、あの飼殺しの長い月日を思う度、やられっぱなしでいいはずがないと思う。
責任の重さは十二分に理解している。それでも2度目のご奉公はない。
前世はパウラが務めたのだから、今生はエリーヌの番だろう。そうでなければ稀にしか出ない2人の聖紋持ちの片割れとして、不公平も甚だしいではないか。
もう一度シュラフをぼすんと叩いて、パウラは眉を寄せた。
心配なのは、エリーヌが得意とする道に不慣れなパウラ自身のこと。
「アルヴィドさま~」
甘ったるい声を思い出して、さらにパウラの眉は寄る。
「あの声、私には無理だわ」
ほう……とため息をつくと、本音が一緒にこぼれた。
ヘルムダール直系の女子の例にもれず、パウラもそれなりに美しいと言われる姿かたちをしているらしい。
らしいとはおかしな話だが、自覚がないので仕方ない。他人がそう言うのでそうなのかもしれないと思う程度の自覚しか、パウラにはない。
前世、エリーヌにしてやられたのはかなりこたえた。
美しいと言われる外見も、優れた頭脳もそれをさらに磨く努力も、およそパウラを支えてきたすべてのものが、あの甘ったるい声に負けたのだ。
けれど泣くこともできない。不器用なまでの誇り高さが、パウラに泣くことを許さなかった。
そして飼殺された長い長い時間、自身の至らなさ、女としての欠けたるものを惨めに思い思いして過ごした。
どれほどの時間を過ごしても、けして矯めえなかった性分を思えばため息も深くなる。
それでも。
名ばかりの妻として数千年も飼殺されるのは、もうたくさんだ。
負ければそうなる。
「アルヴィドは大丈夫よ……。
セスランじゃないもの」
慰めにもならない慰めを口にして、上向いて唇を引き結ぶ。
当面の目標はたったひとつだけ。
アルヴィドをもってゆかれないこと。
「負けるものですか」
口にして目を閉じた。
あの甘い声
あの声、どうして出せないのだろうと思いながら。




