56.わたしを捨てるの?
「なぜ私ではいけない?
なぜ私をそんなに嫌うの?」
黄金竜の金色の瞳から、つぅと涙がこぼれた。
「私が選んだ姫は、みな私を愛してはくれない。
私が醜いから?
姫が愛した男より、私が劣っているからか?」
くすんだ金色のオーラはどんどんか細く弱くなって、今にも消えそうだ。
竜后を失えば黄金竜も力を失うとは、前世の知識で知ってはいたが、間近に見てそれが本当なのだとあらためて感じる。
(もう長くはないわ)
直感的にわかる。
彼の命の灯は、ほぼつきかけている。
愛されなかったのだ、この男は。
竜は情の深い生き物だと言う。きっと彼は竜后を愛したのだろう。おそらくとても深く深く。
けれど彼女はそれに応えなかった。最初から最期まで。
飼殺された前世を思えば、同情するのはお人よし過ぎる。
それでも彼の絶望は察せられて、気の毒にと思うのを止められない。
「次が、もしあなたにあるのでしたら……。
間違ったとわかった時に、ご自身でどうすべきかお決めになって。
誰でもみんな、最初から正しい選択ばかりしてきたわけじゃありませんもの」
ほぼ閉じかけていた金の瞳が、みひらかれた。
「ああ、君は本当に優しいね。
次……。そうだね、もし次があるのなら、最初に君に出会いたいよ」
ふわりとやわらかく微笑した黄金竜は、はかなく優しく美しかった。
「楽しみだ」
その言葉は空気に溶けて、黄金竜の身体もそれに続く。
滲むように少しづつ、彼の身体は辺りの空気に溶けて、なくなった。
すべてが済んだ。
思ったより後味の悪い結末だったが、とにかく終わった。
大きく息をひとつして冷めやらぬ興奮を鎮めようとしていたパウラの背に、どろどろとした赤黒いオーラが浴びせられている。
(あー、こんな状況でもそうなるの?)
オーラの正体にすぐに気づいたパウラは、盛大にため息をつく。
時と場合を考えよう。今、目の前で竜族の長であった男が悲しい最期を迎えたばかりではないか。
そんな場合でも、関係ないの?
なんて、なんて、めんどくさい。
どろどろどろん。
擬態音が聞こえてくるような重苦しい空気に、あえてパウラは振り向かないでいた。
「次はあいつと会うの?」
冷え冷えとした声が怖い。
「そんなこと言ってな……」
「相手は黄金竜だよ?
あいつが望めば、きっとそうなるよ」
かぶせられた言葉は、恨みがましく粘着質で。
「オリヴェル様、だからわたくしはそんなことを言ってません」
振り返って、ぱしりと言い切った。
身に覚えのないことで、言いがかりをつけられるのはごめんこうむりたい。
きりっと見上げて、どきりとした。
青に近い緑の瞳が、不安げに揺れていたから。
「わたしを捨てて、あいつのものになるのかい?」
そんなこと、だれがいつ言った。
なんだ、この予想外過ぎる反応は。
驚いて戸惑ったけれど、胸の芯に甘い杭が撃ち込まれる。
何と返そうかと迷っていると、オリヴェルがさらにその先を続けた。
「今も次もその次も、パウラはずっとわたしのものなんだ。
あいつのものじゃない」
最後まで聞き終わらぬうちに、パウラの身体はオリヴェルの胸に抱き寄せられていた。
ぎゅうぎゅうと締めつけられて、息もできない。
「い……たいです」
たわんだ背中が本当に痛くて抗議の声をあげるが、聞いてはもらえない。
腕の力を緩めることなく、パウラの髪にオリヴェルは顔をうずめた。
「わたしを捨てないで。
パウラがいなくなったら……。
ああ、だめだ。
口にするだけで、気が狂いそうになるよ」
こんな時、母は何と言っていたのだろうか。
どうやって父をなだめるのだろう。
前世も今も、恋愛経験値ゼロに近いパウラには、対処法がまるでわからない。
考えるのは無駄だ。
オリヴェルの背中にそうっと腕を回して、なだめるようにとんとんと叩く。
「いなくなりませんわ」
照れくささが先に立って、甘さに欠けると自分でもわかる。
気持ちをあらためて伝えるのは、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
さっき一度「大好き」と伝えたのだから、それで許してはもらえないものか。
どうやらダメらしい。
腕の力は緩まないし、あいかわらず背中は痛い。
「あなたが好きですわ。
だからどこにも行かない」
真っ赤になりながらもごもごとようやく口にすると、オリヴェルが首を振る。
「それじゃ足りないよ」
「ではどうすれば……」
「いなくなれないように、わたしを置いてどこにも行けないようになってくれないと。
じゃなきゃ、許さない」
両の頬を大きな手で挟まれて、緑の瞳にじいっとのぞき込まれる。
これまでに見たことのない、知らないオリヴェルの表情は、熱っぽく艶めいてどこか切羽詰まっているようで。
「良いって、そう言って?
そうして良いって。
ね、パウラ」
それが何を意味しているか、さすがにわかった。
そしてここが竜后の寝所で、おあつらえむきに大きな寝台まで用意されていることを思い出すと、途端に脈拍が速くなる。
「あ……、そ……の……」
意味不明の音だけを発して、赤くなり青くなり。
無理だ。
いきなりは無理。
心の準備ができていない。
「言えない?
やっぱりわたしを捨てるんだね」
哀し気な声ですがりながらもオリヴェルの緑の瞳には、肉食獣の獰猛な色がある。
獲物を捕捉して狙い定めて齧りつく寸前の。
背中に冷たい汗が伝う。
「ま……待って。
そ……んなに急じゃなくて、帰ってゆっくり心の準備をして……」
慈悲をこう思いで言ったのに、肉食獣は薄く笑って首を振る。
「待たない。
ごめん、パウラ。
わたしにはもう、まるで余裕がないんだよ。
あきらめて?」
唇が降ってくる。
重ねられた唇に、パウラは呼吸を奪われる。
与えられたのは、火のような熱と吐息。
彼女を抱きしめる腕と、その小さな震え。
高熱にうかされるように、その腕は小刻みに震えていた。




