44. 茶番はもうたくさんだよ
ヴェストリー公国には、2つの都がある。
1つは首都ヴェストリア。
もう1つは、港町シェンタ。
首都から馬車で1時間ほど、南東へ下る。
ヴェストリーの巨大な富を支える商業都市である。
格式のヴェストリア、財のシェンタと言われるこの街では、貴族ではなく商人たちが、その冠となる言葉を支えている。
東のヴァースキー、南のゲルラ、北のヴォーロフ、それに世界の中心に浮かぶ大陸ヘルムダール。
敷居の高いそれら大公家、それに神聖なる黄金竜の泉地とも、当たり前の顔をして取引できる商人が、ここシェンタにはごろごろしている。
多くの商人が専用の輸送船を所有しているか、船団に投資していた。
大公家の後ろ盾があることを意味するオレンジの大公旗を掲げて、ヴェストリーの商船団は世界中を行き来する。
生のコーヒー豆にカカオ豆、それに香り高いあまたの香辛料、珍しい茶葉。
滑らかな生糸の束に、美しい染色の絹織物、ふかふかの毛織物に、繊細なレース。
この世にあって、シェンタで手に入らぬものはない。
6歳で屋敷を飛び出したオリヴェルは、シェンタにある大公家の別荘で暮らしていた。
ここは良い。
誰もオリヴェルを知らないから。
緑の瞳さえ見られなければ、そのへんの豪商の息子くらいで十分とおる。
瞳の色を変えることは、魔法をもってしても難しい。
緑以外の色を変えるなら造作もないことだが、竜の血の証である緑を変えることは限りなく不可能に近い。
けれどシェンタでは、それができるのだ。
魔法ではなく、物理的に。
瞳の上に一枚のごく薄い膜を置くと、色を変えられる。
「こんたくとれんず」
そういう名のものらしい。
百年に一度くらいの割合で、この世界ではないどこかから、訪問者と呼ばれる人が渡ってくるらしい。
彼らは元の世界の文明をこちらにもたらすこともあって、この「こんたくとれんず」もその1つ。
もともとは眼鏡のかわりに使うものらしいのだが、瞳の色を変えることもできる。
色のついた膜をのせれば、魔法でさえ変えられなかった風竜の瞳が、灰色に変わる。
これのおかげで、オリヴェルは自由を手に入れた。
誰の目も気にせず、気ままに街を歩ける。
なんと晴れ晴れと、せいせいとした気分であることか。
「法学概論と経済概論は、これでひとまず終わりにいたしましょう。
次は政治史と法制史に入ります」
ヴェストリー大公家から派遣された教師は、全部で7人いる。
そのうちの1人、法学と経済を担当する教師が、モノクルを指で押し上げながらオリヴェルに告げた。
「公子様は大変優秀でいらっしゃる。
あなた様をお教えできますこと、教師冥利につきると思っております」
嘘だと、オリヴェルは即座に思う。
優秀さで言うなら、大公家にある兄ベルトランに自分がかなうわけもない。
オリヴェルが嫡子で、次のヴェストリー大公だから、みえみえのおべんちゃらを言うに違いない。
「大公様、妃殿下も、公子様にはとても期待しておいでですよ」
どの教師も同じことを言う。
けれどそれを聞くたび、オリヴェルはしらじらとうそ寒い気分になる。
もしそれが本当なら、どうして両親はオリヴェルに会いに来ない。
シェンタへ移ってすでに10年。
その間、両親の方からここへ来たことは一度もない。
オリヴェルが両親に会うのは、年に一度、新年のあいさつにヴェストリーの城へ戻った時だけだ。
定型の挨拶文句を口にするオリヴェルに、両親は気まずげな笑みを浮かべて言う。
「離れていても、いつもおまえのことは気にかけているよ。
どんどん立派になってゆくおまえを、私もアイラも誇りに思う」
「そうですよ、オリヴェル。
わたくしのかわいい息子。
離れていても、教師たちからあなたが優秀であることは、聞いていますよ。
そろそろこちらへ戻ってきてはどうかしら。
わたくしも寂しいわ」
寂しいのなら、なぜ会いに来ない。
誇りに思うのなら、なぜ会いたいと思わない。
言いたいことはたくさんあったが、どうせ本音で答えてくれるはずもない。
両親は兄がかわいいのだ。
本当なら嫡子になるはずだった、優秀な兄ベルトランがいじらしく愛おしい。
オリヴェルは……。
弟としてベルトランを支える要員である限り、愛しい。
けれど兄を凌駕する存在としては、受け容れがたい。
オリヴェルには両親の本音が見えている。
それに気づかぬふりをして、年に一度だけ孝行息子のふりをする。
それがわかっていて、両親も愛情深い親のふりをする。
三文芝居にも劣るくだらない茶番を、よく10年も続けてきたものだ。
「ありがとうございます、先生。
大公殿下、妃殿下にも、よしなにお伝えください。
先生のご指導のおかげと、感謝しています」
だからここでもオリヴェルは芝居を続ける。
教師の望む言葉を口にして、無難にこの幕を演じ切る。
彼が大公になるまで繰り返されるだろう茶番の毎日に、オリヴェルがうんざりしていたある日。
転機は突然やってきた。
西の聖使、風竜の聖使として黄金竜の泉地へ召喚される。
ああ、やっと逃げられる。
茶番から、両親から、兄から、自由になれる。
別れもそこそこに上がった黄金竜の泉地。
聖使の任期は数百年から数千年とされているから、もう家族と会うことはない。
晴れ晴れと嬉しいはずなのに。
心に穴が開いたようだった。
ひゅるひゅると風が通り抜けるような、空っぽの胸の内。
寄る辺ない我が身が、ひどく頼りなくうす寒かった。




