31. シモン、動き出した時間
直截的なグロシーンは避けるように、かなり優しく表現したつもりですが、31話には身体的、精神的な虐待表現があります。
ご気分が悪くなるだろうと思われる方、そういう表現が苦手だと思われる方は、どうぞご注意ください。
「今日からおまえは、シモン・ヴァースキーだ。
ここを出て、私の息子になってもらう」
5才で聖紋が出ると、しばらくして立派な馬車がシモンを迎えに来た。
青地に細い金糸で縫い取りのある上着を着たその人は、シモンとよく似た薄い青銀の髪に淡い緑の瞳をしていた。
「わかりました。
支度してきます」
今の両親の家、ノモ子爵家にこれぽっちの未練もなかった。
身体の弱い母は、部屋にとじこもっていてほとんど姿を見せることはなかったし、父は父でまるでシモンを顧みることはない。
それどころか、酒が入るたびに彼の髪を掴んで引き倒し、殴りつけた。
「おまえは俺の子ではない」
呪いのように繰り返し繰り返し、耳元でささやきながら。
つい昨晩も、執拗な甚振りを受けたばかりだった。
幼いシモンには理解不能の呪いの言葉は、夜中を過ぎても延々と続き、父が酔いつぶれて眠るまで止むことはなかった。
出て行けるというのなら、それに従おうとシモンは思った。
迎えに来た男が誰だろうと、そんなことはどうでも良い。
殴る蹴るがなければ良いなと、その程度の期待はあったけれど。
10才になる前には、自分がヴァースキー大公の実子であると知っていた。
母はノモ子爵夫人なのだと聞かされて、子爵家での扱いの理由をようやく理解した。
不義の子か。
大公と子爵夫人は双方の結婚前からの関係で、結婚後も切れることなく続いているらしい。
一目でヴァースキーの血とわかるシモンの容貌に、父と呼んでいた男の憎悪が向けられても不思議ではない。
彼は美しく可憐な妻を心から愛していた。
たとえ自分を裏切って恋人との間に子をなそうとも、それでも彼女と別れることはできないくらいに。
妻に怒りを向けることはなかった。
その恨みはすべてシモンに向かう。
その肌も、髪も、目も、本当なら縊り殺してやりたいあの男にそっくりの子供。
シモンを甚振ることで、彼はようやく自分の精神の均衡を保ったのだろう。
「下賤な女の腹から生まれた子。
汚らわしい。
わたくしの目に触れぬところに置きなさい」
ヴァースキー大公家でも、歓迎されるはずもない。
大公妃はシモンを嫌った。
緑の瞳と聖紋が現れた以上、しぶしぶ引き取ることを承知しなければならなかったが。
本当なら嫡子であったはずの長男の憎悪は、さらに酷かった。
「下賤の血が大公家を継ぐだと?
父上はなんということをしてくれたのか」
シモンを亡きものにすれば、聖紋が自分に出るやもしれぬと、毒を盛られたこともある。
食事や寝台は与えられたが、だれ一人声をかけてくれる者はいなかった。
実の父だというヴァースキー大公でさえ、シモンの置かれた環境を知りながら放置した。
それでもシモンは、何も感じなかった。
日常的に殴ったり蹴ったりされることはないのだから、ノモ子爵家にいた頃よりは随分マシだ。
毒は日々少しづつ耐性をつけることで解決したし、気休め程度にしかならないが銀の食器も用意させた。
歓迎されるとか愛されるとか、そんなものは最初から知らないのだから期待しようがない。
憎悪はよく知った感情だったから、慣れている。
知っているものなら、かわし方もわかる。
シモンの日々は、穏やかに過ぎた。
屋敷内の誰か、夫人であったり長男であったり、時に使用人までもが、憎々し気な顔と声で何か言ってきたりしたが、手や足は出てこない。
そよ風のようなものだと思いながら、何事もない生活を送った。
15才になると、黄金竜の泉地より召喚状が来た。
東の、水竜の聖使として、上がるようにと。
「わかりました」
この時も、シモンはただそう応えた。
住む場所がまた変わるだけのこと。
どうということはない。
ヴァースキーの長男がとても喜んでいたので、それだけは良かったと少しだけ思ったが。
シモンという異分子がいなくなって、この家族に平和が戻るのだろう。
「おまえは俺の子ではない」
ノモ子爵の怨嗟の声も、
「下賤の女の腹から生まれた子」
ヴァースキー大公妃の憎しみに歪んだ声も、シモンにはどうでも良いことだったが、その感情を持つ側はさぞ苦しいのだろう。
対象であるシモンが目の前から消えれば、負の感情もきっとなくなる。
聖使として最初にできる善行だ。
なんの熱も情もなくただ淡々とそう考える自分は、何か大切なものが欠落しているのだと他人事のように思った。
召喚状を受けたその日、シモンは黄金竜の泉地へ向かった。
荷造りをしようと古びたトランクを出したが、詰めるものは何もないことに気づいてやめた。
何も持たずに神殿の転移門へ立つ。
「ヴァースキーをどうぞお守りくださいますように」
たった一人ついてくれた神官が深々と頭を下げるのに頷くと、辺りがぼんやりと歪んでかすむ。
目を開ければ、黄金竜の泉地神殿だった。
聖使となった後、どれほどの時間が過ぎたか。
興味もないので特に数えはしていなかったが、多分数百年は過ぎただろうという頃。
聖女オーディアナの代替わりがあった。
「お茶を淹れましたわ。
どうぞ」
薄い白の磁器に、琥珀色が揺れる。
ふわりと上がる湯気はうっすらと白く、さわやかな果物のような香りがした。
「お好きでしょう?
ヴェストリーで手に入れましたの」
銀色の長い髪を無造作に垂らした当代の聖女オーディアナが、シモンに笑いかけていた。
邪気のない、静かに落ち着いた表情で。
「僕、好きって言ったっけ?」
好きとか嫌いとか、そんな感情を自分が持つとはその時までシモンは自覚していなかった。
彼女が聖女オーディアナになって以降、こうしてお茶に誘われることは珍しくない。
幾度か、同じ茶を淹れてくれたかもしれない。
なるほど。
言われてみれば、この香りは悪くないと思う。
「そんなの。
見ていればわかりますわ」
なんでもないことのように、彼女はさらりと言った。
そして優雅にカップの取手を摘むと、口元に運ぶ。
「君、僕を見てるの?」
シモンは心底不思議だった。
「なんのために?」
「なんのため?
喜んでいただくためですわ。
せっかくお誘いするのですもの。
楽しく過ごしていただきたいでしょう?」
エメラルドのような綺麗な瞳が、少し困ったように見つめている。
「喜ばせたいの?
僕を?」
「他に誰を喜ばせるんですの?」
シモンを喜ばせたい?
いてもいなくても同じように、いやむしろいなければ良いと扱われてきたシモンには、初めて向けられた気持ち。
戸惑った。
どう答えて良いか、初めて言葉に詰まる。
「悪くはない……ね」
目を伏せて表情を隠す。
急いでカップのお茶を、飲み干した。
かぁっと熱くなる頬も、どきどきうるさい心臓も、どうしてそうなるのか、その理由がまるでわからない。
それが当代の聖女オーディアナ、パウラ・ヘルムダールを意識した最初の瞬間だった。




