1. 聖女、遡りを求める
17の歳に、わたくしは名前を失くした。
黄金竜の花嫁、聖女オーディアナ。
新しく賜ったその名はそれまでの名を駆逐して、パウラ・ヘルムダールであったそれまでのわたくしをこの世から消した。
そしてつい先ほどのこと、わたくしは2番目の名も失くして、今や正真正銘の名無しになった。
この世を統べる黄金竜の花嫁、聖女オーディアナの代替わりを済ませた今のわたくしは、じきに寿命の尽きる人の形をしたもので、名前などない。
聖女オーディアナの寿命は、全能の黄金竜オーディの心ひとつだけれど、人の寿命とは比べようもないくらいに長いのは確かだった。
生きてきた時間を数えることは、虚しい。
だからあえてそれをしないできたけれども、わたくしの在位期間は歴代聖女の中でもそこそこに長い、数千年というところではないかと思う。
人の世に姿を現さない黄金竜オーディに代わって、この世に秩序と安定、それに愛をもたらすことが聖女オーディアナの務め。
4竜の血を継ぐ4人の青年、聖使と呼ばれる彼らを束ね、長い長い時間をただただ務めのためだけに生きてきた。
ああ、これで解放される。
責任や義務や使命や、そんな重苦しいご大層なものから、ようやく自由になれる。
後はオーディの迎えの声を聴けば、すべてが終わる。
使い慣れた寝台に身を横たえて、わたくしはほうっと大きな息をついた。
遠い遠い昔、この世界には虎や狐やクマや狼、様々な生き物を始祖とする人々が、仲良く共生していた。
ある時、虎族と狼族の間で縄張り争いが起こる。
初めは2種族間だけの小規模のもので、そのうち収まるだろうと皆楽観的だったところ、虎族に狐族や獅子族が、狼族に犬族やクマ族が加勢したあたりから、戦線は拡大してゆく。
この世界のほとんど、全土を巻き込む大きな争いになった頃、それまで冷ややかに静観をきめこんでいた竜族が、高い高い山の頂にある国、黄金竜の郷より降りて争いに加わった。
竜族は、虎族にも狼族にもつかない。
圧倒的な力で、そのどちらをも攻め、彼らの国を滅ぼした。
その後、竜の長たる黄金竜オーディは言った。
「無知蒙昧なる蛮族のものどもよ。
乱を鎮める力を持たぬ身で、大地を血で汚すとは愚かしいことだ。
これより先、我がこの世を支配する。
竜にあらぬもの、とくこの地より消え失せよ」
全能の黄金竜オーディ、輝く黄金の双翼を持つ美しい竜。
常には黄金の髪に緑の瞳の、青年の姿をしている。
その傍らには竜后オーディアナがあり、生涯ただ一人の最愛の妻として彼の寵愛を独占した。
この世の4つの大陸には、オーディの弟竜を向かわせる。
東に水竜ヴァースキー、西に風竜ヴェストリー、南に火竜ゲルラ、北には地竜ヴォーロス。
世界の中心にある小さな大陸には、竜后オーディアナとの間にもうけた愛娘ヘルムダールを。
それぞれが、戦乱で荒れた国土を豊かに栄えさせよと命じられて。
長い時が過ぎてこの世が再び豊かになると、遣わされた4竜とヘルムダールは、竜の住まう高い山黄金竜の郷から少し下った中腹に、聖地たる黄金竜の泉地を作った。
強すぎる魔力を持つ彼らは、直接人の世に関わり続けることを避け、己の代理人を定期的に黄金竜の泉地に召して、世界の安定のために働かせることにしたのである。
水竜は生命の繁栄、風竜は刷新と改革、吉凶の知らせ、火竜は強さと情熱、地竜は豊穣と賢さ、ヘルムダールは秩序と安定、それに愛を、それぞれ世界にもたらすことを黄金竜に約束した。
そしてヘルムダールを除く4竜は黄金竜の郷へ戻り、人の世に残した彼らの直系男子より代理人を定期的に選定する。
選定された代理人たる聖使は、その能力に応じて数百年から数千年の間その地位について、4竜の恩恵を世界にもたらすことになる。
ヘルムダールだけは、黄金竜の郷へ戻らなかった。
彼女には別の役割を、黄金竜オーディとその妻たる竜后オーディアナから求められたから。
次の黄金竜の正室たる竜后を産めと。
黄金竜の寿命は長いが、不死ではない。
おおよそ数万年に一度、代替わりがある。
その時、同時に竜后も替わる。
竜后は必ず、濃い竜の血を継いだものでなくてはならない。
だから黄金竜に最も近い娘、その直系女子に、いつかその役がまわってくるようにと。
世界の中心にある小さな大陸ヘルムダール公国の女子には、他の4竜の血を継ぐ男子との交配を必ず成し遂げよ。
それはオーディとヘルムダールとの黄金の約定である。
けれど子を産む他にも、彼女には大事な務めがあった。
黄金竜の泉地にあって4竜を束ね、秩序と安定、愛を世界にもたらす務めが。
竜后ではないヘルムダールには、数万年を生きる寿命はない。
ならば次の娘を替わりに黄金竜の泉地へ召し上げて、この世の秩序と安定、愛を守らせねばなるまい。
どういう名目で……となった時、オーディはしぶしぶ第2位の妻の身分を創設する。
位の名称は、竜妃。
そしてその竜妃には、聖女オーディアナの名前を使うことを許した。
実質は4竜の力を束ねる黄金竜とその妻竜后の代理人、黄金竜の泉地の最高神官、つまるところ神官長である。
その仕事をさせるためだけの、お飾りの2番目の妻竜妃、聖女オーディアナがこの時生まれた。
以来何人ものヘルムダール直系の女子が、聖女オーディアナの地位につき、数百年から数千年後に寿命を迎えて果てることになる。
「都合の良いことだわ」
寝室の高い天井をにらみつけて、心中で悪態をつく。
もう息をするのも苦しい。
外見だけは乙女のままだけれど、既に数千年を生きた身体の力は、ほとんど尽き果てている。
顔も見たことのない世界の人々のためにだけ生きた、数千年だった。
気難しい4竜の聖使を束ね、世界の秩序と安定を守るために祈り、力を送り、ほぼそれだけで過ごした日々は、無彩色の淡々としたもので。
眠る暇もないほど忙しいわけではなかったが、休暇をとって気分を変える余裕はない。
くる日もくる日もただただ他人のために生きる日々、それを四桁の年数過ごせば、生っ粋の聖職者であっても飽きずにはいられないだろうと思う。
そうだ。
そんな仕事をさせるためだけに、ほぼ強制的にここへ呼ばれた。
黄金竜の花嫁、竜妃が、聞いてあきれる。
何が花嫁なものか。
夫である黄金竜の姿を見たこともなく、優しい言葉の一つかけられたこともない。
名のみの妃。
数千年の時を過ごして、いよいよ寿命を迎える今でも、彼女は処女である。
「長い間、苦労をかけたね」
辺りの空気が金色に染まって、光の微粒子が降り注ぐ。
霧雨のような微粒子にのって、夫である黄金竜オーディの声が響いた。
「この先は、ゆっくり眠ると良い」
待ち望んだ声のはずなのに。
恩寵を賜わって嬉しいだろうと、疑いもしないその声に腹が立つ。
「嫌ですわ!」
思わず口に出していた。
どこにそんな力が残っていたのかと思うくらいの、強い調子の声だった。
けれど一度口にした言葉は、胸にくすぶる怒りをさらにあおる。
「竜妃オーディアナ?」
既に彼女のものではない名で呼んで、訝しげに問い返す金色の微粒子に、胸の奥の火薬箱が次々に開く。
「嫌だと言いました。
これまで十分に、清らかで模範的な生き方を強いてまいりましたわ。
これで終わり、用済みとはあんまりではありませんの?」
義務は果たしたのだ。
相手が全能の黄金竜オーディであろうと、かまうものではない。
言いたいことは言ってやると、開き直っていた。
黄金竜の泉地へ召されたほとんどのオーディアナは、竜妃の位こそ与えられるが夫に顧みられることはなく、処女のまま生涯を終える。
花の盛りの10代に召し上げられて、恋も知らず数千年も。
名のみの夫に貞節を誓わされ、義務に縛られて寿命のつきるまで。
下世話に言う「飼い殺し」も良いところではないか。
長い間苦労をかけたから、ゆっくり休め?
本気で言っているらしい夫の言葉に、これまで胸に沈めてきた怒りが噴き出した。
「……」
黄金の微粒子がわずかに揺れて、オーディの動揺が伝わってくる。
「こうでない人生もあったのだと、今は悔やまれてなりませんの。
もう一度、やり直せたら。
もしそれができるなら、今度こそ正しい選択をしてみせますわ」
気力を振り絞るようにして強い調子でそう言うと、やや間があって黄金の粒子が頷くように瞬く。
「わかった。
たしかにあなたは、願いに見合う働きをしてくれた。
ききとどけてあげよう。
それでいいね?」
上出来だと頷く。
全能の黄金竜の約束ならば、間違いはない。
時間を巻き戻すなど、造作もないはず。
「ええ、よろしくお願いいたします」
目を閉じた。
次はけしてしくじらない。
飼い殺しの竜妃聖女オーディアナになど、二度となるものか。
「穏やかな、普通の人生を送ってみせますわ」
そう強く念じて、深い眠りに身をまかせる。
オーディの黄金の粒子をまとった靄が、ゆっくりと辺りを包んでいった。
「姫様、お目覚めですか」
控えめなノックと共にかけられた声で、目を覚ました。
がばりと身を起こして急いで辺りを見回すと、クルミ材の調度に柔らかなクリーム色のカーテンやソファが目に入る。
ふかふかと毛足の長い絨毯も、見覚えのあるもので。
そこは確かに、懐かしいパウラ・ヘルムダールの私室であった。
「起きてるわ」
応えた声は、幼げに高い。
ああ、これはかなり幼い。じわりと喜びが湧き上がる。
ぜひとも、見た目も確認しなくては。
確かこの部屋には、父から贈られた大きな姿見があったはず。
寝台の端から足を下したところ、つま先から床までの距離は思ったより長くて、飛び降りるにも少しばかり勇気が必要だった。
けれどためらう時間も惜しかった。
えい!
目を瞑って思い切り飛び下りると、小さな身体は床にころんと、子猫のように転がった。
「まあ、姫様。
何をしておいでですか」
朝の身支度を手伝いに来たメイドのメイジーが、慌てて駆け寄って抱き起してくれた。
おさまりの悪い栗色のくせ毛を白い制帽に押し込んだ彼女は、たしかパウラ5歳の時に専属の側仕えになったはず。
彼女がいるということは、5歳以上であるのは間違いない。
「メイジー、わたくしは今いくつ?」
調べるより、聞いた方が速い。
おかしな質問であることはわかってはいたけれど、知りたい気持ちの方がより強い。
メイジーはほんの少しだけ目を見開いた後、答えてくれた。
「今日、6歳におなりです」
全能の黄金竜、名のみの夫は、約束を守ってくれたようだ。
飼い殺しにしたことはけして許せるものではないが、そこはほめてやっても良い。
6歳。
ということは、聖紋が現れて1年か。
黄金竜の花嫁候補に刻まれるオディラとは、ヘルムダール大公家の直系女子にのみ現れる赤いあざ。
パウラにとって呪いの紋章でしかないこのあざは、おおむね5歳になると身体のどこかに浮かび上がるのだそうだ。
パウラの場合は、右肩だった。
白いリネンの寝巻の肩を引っ張り確認すると、確かにあった。
5枚の花弁のように見える、くっきりと浮かび上がる赤い紋章が。
忌々しい思いを噛み殺して、思う。
黄金竜の泉地に召されるのは、たしか17歳であったはず。
今が6歳なら、準備期間は11年。
それだけあれば、対策は打てる。
二度と、あの飼い殺し人生を送らないように。
そのために、やるべきことは山積みだ。
「着替えるわ」
手始めに、自分の姿を確認したかった。
6歳のパウラはどのようであったのか、あまりに遠い昔過ぎて、自分でも思い出せない。
心得たように、メイジーが姿見を引き出した。
成人男性1人を余裕で映せる姿見は、父の婿入り道具として持ち込まれたものである。
パウラを愛してやまない父が、昨年の誕生祝に贈ってくれたはず。
曇り一つなく磨き上げられた鏡面に映るのは、流れるようなプラチナの髪に輝くエメラルドの瞳の少女。
まさしく6歳の、パウラの姿だった。