嘘(ツミ)と罰
人間は嘘をつく生き物だと――読者はどうだろうか――わたしは思う。けれど、その嘘をつくという習性ないしは本能が、人間の生態の必然なのか、その個々の性格の必然なのかは釈然としない。後者であるとすれば、万人が嘘をつくわけではないことになる。しかしここにおいては、人間が呼吸をしなければならないように必ず嘘をつかなければならないかどうかの検証は試みずに置く。そもそもそのような検証はわたしの管見の及ぶところのものではないのだ。
わたしが提示したいのは、人間が嘘をついた時、それも、嘘をついて相手をあざむくことに成功した時に起こる、あの何とも爽やかでない、すっきりとしない感覚だ。
嘘といっても皆千差万別だろう。誰かがどこかに飾られた名作家の花瓶を指さして「美しい」と嘆賞した時に、本心では同意していないのに「そうですね」などと返せば、それは嘘である。
この類の嘘は、いわゆる『ホンネとタテマエ』の『タテマエ』に当たるものといえよう。つまり、誰かとの関わりにおいて、円滑さが重要である場合にされる嘘である。本音を言えばいさかいが起きるところを、そうしないように配慮して適当な言葉選びをするのである。これは、比較的ありふれた類の嘘であるように思える。
他方では、こういう嘘がある。つまり、相手の誤認を目的とした事実と一致しない言動である。これもありふれているといえばありふれていると思う。たとえば、意図せず衝動的に犯罪などの悪事を犯した者が、その追及をされた時にする偽証などがそうだ。美しい花瓶をうっかり割ってしまった。その場はとりあえず周りに誰もいなかったので逃げたが、後で疑惑を持たれて尋問された。
「この花瓶はあなたが割ったのではないのですか?」
「いいえ、違います」
この手の嘘に罪はないといえばそれは共感は得られないだろう。しっかりと非を認めて謝罪するのが社会通念上正しい振る舞いであることは論を俟たない。しかし悪事の犯人に悪意はなかった。悪気はなかった。従って謝る必要はない。これは事故なのだ。こういう風に犯人の意が推移して偽証に至ったとすれば、成るほどその過程は理解にそう難くはない。周囲にとっては悪事であれど、当人にとってはそうでないのだ。罪悪の自覚の程度の差はあれ、不意に過誤を犯してしまった者の心理的作用はおおむねこのようなものだろうと憶測する。もちろん、聖人君子といえるような、あるいはよく躾けられた人物がいて、悪意によらない事故でも進んで謝る者もいる。
まれに悪意を持って悪事を成す強者が現れ、世間の注目の的になるが、そういう者はそもそも嘘をつかないか、あるいはついたとしても、それほど大事としてではない。要は暴かれてもいい嘘なのだ。何となれば強い悪人の目的は、悪事の隠蔽ではなく、悪事の遂行なのであるから。
さてわたしがここで主要な問題として提示したいのは、この悪意というものと嘘の相関関係である。あるいは悪意と良心の呵責のせめぎ合いが及ぼす情動の乱れによる人間の行動様式の不健全化の問題と換言してもいい。
どうして悪意ないしは悪意を隠蔽する際の嘘は、閉塞感や虚無感などといったネガティブな心理的作用を及ぼすのだろうか。嘘の主を虚弱にするあの胸苦しさはいったい何なのだろうか。
キリスト教はイエス・キリストを教祖とする周知の宗教であるが、そのキリスト教では『原罪』という概念がある。これはつまり、人間は生まれながらにして罪を負っているという考え方である。この原罪は人間を不如意にして、その拘束より脱するには神の恩恵にあずかるしかないとされる。キリスト教のある一派のミサでは、許しを乞うこの罪の告白の儀が行われるそうだ。
思うにこの原罪の概念は、仏教における煩悩のそれに通ずるものがある気がする。両者の相違をここでは、またしてもわたしの無学により問題とすることは出来ないので置くが、一つ確実に言えることは、この二つの宗教が教える原罪の悪と、人間のある種の嘘、つまり、事実の歪曲・捏造のための方便がその痕跡あるいは証跡として残す負い目の感覚の根源にある悪意とが、共通しているだろうことである。
キリスト教には神の許しがある。仏教には涅槃への到達がある。どちらも信仰によるものだ。
ではこの悪意の隠蔽による嘘がもたらす罪悪は、どうすれば癒されるのだろう。――答えは簡単だ。打ち明ければいいのだ。自分がしでかした悪事を暴露してしまいさえすればいいのだ。
だが、これがどうしてそんなに難しいのだろう。プライドが制止するのか。または罪悪の相殺のための懲罰が怖いのか。――理由は分からない。
救われない罪を抱えて生きていくのはさして困難のないものなのだろうか。わたしは疑問だ。嘘をつかずに生きていければ、何もそんな重苦しいものを背負わずに済む。安気なものだ。だけれど人間は、特に臆病な人間は、怖いものを出来る限り遠ざけようとする。自分を守りまた誇示するお城であるプライドを崩されることや、苦痛をもたらす懲罰を恐れれば、それから逃れるために苦心惨憺するだろう。だが、逃れた先にはあるのはわびしい――あまりにもわびしく狭苦しい見放された孤独の仮住まいだ。
人間がもし本当に嘘をつく生き物だとするなら、またその嘘が、宗教上の手続きによって癒されるようなものでなく、罪悪の告白による社会との和解によってのみ解消されるものであるとするなら、人間は、謝罪が出来る生き物でもなければならないし、もし現状そうでないとするなら、そうなるように努力しなければならないだろう。そうなれば、それは確かに人間の進歩であるといえる。
追記 この話でいう嘘は、犯罪などの高次元のものではなく、もっと低いところ、すなわち日常生活における他愛のないものを示している。