2話
「あぁ……頭が痛い」
記憶が曖昧だ。ただひらすらに頭痛のみが俺を襲う。思考回路が異常をきたしているのだろうか。
何も考えたくないような、そんな気分だ。
気怠いと言ったほうが正しいだろう。
体を動かすことすら、呼吸をすることですら億劫だ。
睡眠をとる人間は起床時にこのような現象に陥るという。
睡眠を必要としない魔王である俺には、理解できないことだった。
機能が悪い脳で理解できたことがある。
それは、今何かに横たわっている状態であるということだ。ベッドに体を沈めているような、そんな感覚がある。魔王のみならず魔族は睡眠を必要としないが休息は必要だ。椅子に腰かけるような感覚でベッドに寝転がることもある。魔王クラスになれば高級ベッドの一つや二つ、自室に持っているのだが……。
いつも横になっているベッドとは違う触感だ。肌触りというか、鼻孔をつつくにおいが変わっている。
何かが、何もかもが違って感じられた。
倦怠感の薄れてきた脳がまぶたを開けろ、と指示を出す。
ゆっくりと、まぶたを開いた。
「……」
見覚えのない木目が視界いっぱいに広がっていた。天井だということは一目でわかる。ただ、どこの天井だ?
魔王城の天井は木製ではなかった。種類が全く違う、黒曜石で形成されていたはずだ。
無駄に軽い上半身をゆっくりと持ち上げた。毛布を膝まで下げて周りを見渡す。
小さな部屋だった。木製の机と椅子が置いてあって、申し訳程度にタンスが部屋の端に置かれている。
「どこだ? ここは」
自然に漏れたその声に、違和感を感じた。一瞬、俺以外の誰かが発した言葉なのかと勘違いしたほどだ。いつも聞いている声とは明らかに違ったのだ。
「あ……あ、あぁ、あー……?」
少し高い声に驚きながらも、状況を整理する。
魔王である俺は、どこか知らないこの場所で目覚めた。特に気になるのは身体的な変化だ。
それは二つ。
一つは体が異常に気怠いこと。二つ目は声が少し高いこと。前者に関しては時間が経過するにつれ薄れてきている。
「……さきほどから外が騒がしいな」
目覚めてから途絶えることなくドアの外から足音や話し声が聞こえてくる。それは不安を煽るようなせわしない音だった。
ここがどこだかわからない以上軽率に行動すべきではないが、ここで何もせずにいても事態は何も変わらない。やむを得ん少しばかり様子を見に行くか。
ベッドから降りるため、枕元に手をつく。
すると、ごつごつとした何かが手に触れた。
「これは──聖剣ッ!?」
全身が総毛立ち、穴という穴から汗が噴き出す。
枕元に置かれ、手に触れたのは魔王を殺すことができるという、聖なる剣だった。
柄や鞘が金色に彩られている。聖なるオーラを放っており、魔王の俺には忌々しい物にしか見えない。
鞘に納まっていて刀身はうかがえない。
あの中に納まっている刀身で斬られれば、魔王である俺でもただでは済まないだろう。
いや、それよりなぜ枕元に聖剣があるのだ? 聖剣は勇者が帯びているはずだ。こんなところにあるはずがない。
これがもし、勇者及び人軍によるものだったら……聖剣がなくとも俺を簡単に殺せるという合図か? それとも、この聖剣の持ち主が近くにいて、今すぐ殺せるという──。
「くそっ!」
大きく飛んで部屋の端に体を寄せる。
先ほどの襲撃で俺は気絶した。もしそれが人軍によるものだとすれば……理由はわからないがやつらがここに俺を運んできたと考えられる。
もしも予想が正しければ、圧倒的不利な状況下にいるはずだ。
戦場の地形に関しての情報量で勝敗が分かれることは大いにある。それになぜこんなところに連れてこられているのかもはっきりしない。殺せるならばなぜ殺さなかった?
とにかくここを脱出するのが一番だ。
脱出経路は扉と窓の二つ。魔法でこの建物ごと破壊しても構わないが、無駄に魔力を使うのは得策とは言えない。それにこの建物を崩落させて更地にしたら敵に囲まれていた、ということも大いにありうる。多対一の状況になるのは非常にまずい。
故に、選択は限られている。
消去法といこうか……といっても二者択一なのだが。
扉はどこに続くかは知らないが、もしもここが敵の拠点であったならば危険だ。自ら敵の拠点で暴れまわる馬鹿がどこにいる。近くに聖剣もあるのだ。あれを食らえば勝利はないと考えていい。
ならば、残る道は一つ。
決断とともにベッドの近くに存在する窓へと一直線に走り出した。
体が軽い。魔王である俺は身体能力も高かったが勇者には劣っていた。今の身体能力なら勇者同等に並べるような気がしてしまう。
ぐんぐんと、一瞬で窓が近づく。
魔族の好む満月の夜。窓に反射して部屋の内装が見て取れた。同時に、窓へ一直線に走る勇者の姿も。
「なっ!?」
グッと息をのむ。
白髪碧眼に整った顔立ち、まぎれもない勇者だ。鎧は身に着けておらず寝巻のような服装をしている。
どうする!? このまま窓に突っ込んで外に出るか? いや、それはまずい。ここで勇者との直接対決だけは避けたいのだ。
ならば、ならば、ならば──!
一秒にも満たないその時間が、数分にも感じられた。そして、そのわずかな時間で打開策を見出していた。
ベッドに飛び込んで聖剣をつかみ取り、ゴロゴロと転がって窓を背にする
正面に手をかざして詠唱を開始した。
「……どこだ」
視界の中に勇者の姿はなかった。詠唱を終え魔法を放つ準備は完了し、迎え撃つ準備は万端だ。聖剣を奪うことができたのはかなり大きい。
数秒経過して、数分経過して、十数分経過した。
だが、勇者どころか何の気配も感じられない。
ただの見間違いなのか? この俺がそんなミスを?
魔法を放とうと構えていた右腕を下ろして、安堵のため息を吐く。
「ブレイヴ、入りますよ」
ソプラノ声が聞こえたと同時に、木製の扉がゆっくりと開かれた。
目を見開いて大きく飛びのく、が背後は壁だったため後頭部を強く打つだけで終わった。
素早く手をかざして迎撃のために詠唱を始める。
入ってきたのは人間の女だった。
純金を溶かしたかのような色の長い髪をしていて、それを背中に流している。鼻筋が通っていて肌は雪のように白い。よく見れば容姿はあのルシファーと同等に美しい。
詠唱はとっくの前に完了しているというのに、魔法を放つことができない。
厳密にいえば、放たなかったというほうが正しい。
少しだけルシファーに似ていたからだろうか。
それとも、此奴の俺を見る目が他の人間と違ったからだろうか。
瞳がきれいだとかそんな話じゃない。たいていの人間は俺を見れば恐怖か敵意を抱く。
だが、こいつはどうだ?
まるで、仲間を見るような目をしている。
「ブレイヴ、変な姿勢をしてないで、行きますよ」
ブレイヴと言ったその女は、俺に話しかけていた。
その女は、魔王であるこの俺を見て勇者の名を口にした。
嫌な予感と最悪の予想がゾワゾワと背中に這い寄る。
──ゆっくりと振り向いた目の前に勇者がいた。
今度は先ほどと違う驚きに目を見開く。
窓には、勇者の姿をした俺がうつっていた。