#053 蔡琰
「信者に五斗の米を寄進させるので五斗米道と名乗り、今や漢中の地を実質的に治める様になっているとか」
毛利が華佗から聞き齧った話を語る。
呪術的な儀式で信者の病気の癒す、流民には集めた米を配り当座を凌がせ、罪を重ねる者以外を赦し、罪を重ねる者も安易に殺さず労役に就かせるなどして、多くの信仰を集めていると。
その教祖が張魯と言う者で、実は益州牧・劉焉の配下であるらしい、などなど。
「つまりじゃ」
蔡邕を相手に。
「毛利黄門は張魯ないしは益州牧の劉焉が毒香を用いて要人を害する、諸悪の根源だと申すのじゃな?」
場所は蔡邕の屋敷の庭に設けられた東屋。
緊急事態だと言って毛利が駆け込んだので、蔡邕は人払いをした上で通したのであった。
日没間際な所為か、
「は? 私の話、ちゃんと聞いてましたか?」
夕日の光を受けた毛利の顔は赤い。
裏返った声が壁の外に響くも、直ぐさま葉音に散らされた。
「これ以上無い程の危機感を持ってな」
「私が言いたいのは、漢中には米が潤沢に有る、と言う事ですよ!」
「……何故そこなのじゃ?」
「いや、米を貢いで配る程あるんですから、そう考えるのは必然です!」
「噛み合わんのう……」
毛利が調べた所、漢中は長安と同じく盆地であった。
夏は蒸し暑いが、冬は一転して寒く乾燥する点も同じ。
しかも、共に西から東に大きな川が流れているので、水も豊富なのだ。
「唯一の違いは、川を流れる水の色くらいでしょうか」
そんな訳ない。
「失礼します。代わりのお茶を持って参りました」
そこに、東屋の外から無機質な声が掛かる。
「入るのじゃ」
現れたのは十歳前後の、将来はさぞかし美人になると思われし幼女。
随分と愛されているのだろう、貴人の如き高価にして色鮮やかな衣装に身を包んでいる。
だがしかし? 服に反して、
(表情が皆無。まるで、某人型決戦兵器の零号機を駆る少女みたいだ)
色に乏しかった。
「蔡邕様のお孫さんですか?」
「……娘の蔡琰じゃ」
「え? (もしや、この少女が先日の?)」
孫に間違えられても、蔡琰は眉一つ動かさない。
普通なら、怒るなり、そこまで行かずとも不快に思うだろうに。
「初めまして、毛利です。お父上の蔡邕様には良くして頂いております」
「これはご丁寧に。改めましてご挨拶申し上げる。そこな蔡邕が娘、蔡琰に御座います。若輩の身なれど、どうぞ良しなに」
出来の悪いロボットの様に幼女が応じた。
(嘘だろ!? 本当にそうなのか? つまり……蔡邕は司令にして小児性愛者?)
そんな訳ない。
「さて、何の話じゃったか?」
「確か、黄河の水が何故黄色いかを……」
「然に非ず。漢中の米なる作物に関して語られておりました」
と感情が欠片も無い声を発したのは蔡琰だった。
(聞いてたの?)
「おお、そうじゃった、そうじゃった。して、漢中の米が如何したと言うのじゃ、毛利黄門?」
「(そこはスルーか)え、ええ、漢中で可能ならば、長安でも稲作が可能と思われます。益州牧の劉焉様にそのノウハウ……」
「のうはう?」
「失礼、技術です。加えて苗を分けて頂ければ、比較的早く成否が明らかになるかと」
「出仕しておる劉焉殿の子らを通じれば、手に入るか」蔡邕は腕を組んだ。「じゃが……毛利は、五斗米道の罪は問わぬと言うのか?」
「罪、ですか?」
「毒香を蔓延らせた罪、じゃ」
「あぁ」
毛利は漸く合点がいった。
「(道理で話が噛み合わないと思った)蔡邕様が毒香と申されるのは、彼らにしてみれば薬だと聞いております」
「その様じゃな」
「では蔡邕様。医者でも無い者が薬の量を間違えたからと言って咎めるのですか?」
「現に体を蝕んだ者も多い。その様な代物を配っておるならば、咎められよう」
「水も飲み過ぎれば毒となるのですよ? 水中毒となって」
「水中毒、ですか」
と口にしたのは、蔡邕ではなく蔡琰であった。
「(あ、まだ居たんだ)はい。短時間に大量の水を飲むと水中毒となり、下手をすると死にます」
夏になると時折ニュースで流れる。
無知とは如何に恐ろしいか、その好例であった。
「何故でしょう?」
蔡琰が重ねて問う。
平坦な声と、それにあった能面の様な顔を毛利に向けて。
彼は何故か、そんな幼女に気圧された。
「(ちょっと怖いんですけど!)た、確か、血の中の塩分が薄まり、その結果全身が正常に機能しなくなるとか」
「塩」
「はい、体内の塩です。汗って塩っぱいですよね? あれは汗をかいて体内の熱を下げると同時に、血の中の塩分も一緒に出てるからなのです」
「ふむ、血の中は兎も角、体の中の塩分とやらの証にはなるか」
「あ、有り難う御座います」毛利は何故か、礼を口にした。「それで、何の話でしたか?」
「五斗米道の罪を問わぬ理由じゃな」
「そうでした。要するに〝無知〟を罪として問うなど出来ません。何故ならば、多くの民は無知なのですから」
「じゃが、放置は出来ぬぞ? いずれ多くの民が、呪術的な治療の結果罹る病に倒れるでな」
「〝呪術的な治療〟を蔓延らせているのは、何も五斗米道だけでは有りませんよ」
「何じゃと?」
「医者もまた、その片棒を担いでいるのです。華佗様曰く……」
この当時の医者の多くが、占い師の如き治療を行っていたからだ。
霊木の枝を切ったから頭痛になっただの、顔に腫れ物が出来たのは門前が汚れているからだ、などなど。
「そんな輩、医者でも何でもない。ただの詐欺です」
「そうは言うが、儂からすればそれが当たり前じゃ」
「だからこそ、医者の地位が低いのでしょう。華佗様が忸怩たる思いをしていたのも頷けます」
毛利は華佗が悲嘆に暮れた際の一部始終を語った。
「ふむ、儂も華佗に救われた身じゃ。加えて、不遇をかこった境遇も似ておる。何か良い方策が有れば、上奏するのじゃが」
「それなら有りますよ」
と毛利はすかさず言った。
「なに!?」
「新たな官職を設け、試験を経た能有る者のみを〝医師〟とすれば良いのです」
一定の知識を有する者のみを医師として任ずる。
現代で言う、医者の国家試験とその国家任用、であった。
「医者を官吏にすると言うのか?」
「いけませんか? 兵も武官であるならば、医者も医官として雇用すれば宜しいだけかと考えたのですが」
この当時の軍には軍医がいた。
怪我をした兵を診る為にだ。
規模こそ違えど同じ様に、巷に確とした知識を有する医師が配されれば、民はそちらに診て貰うだろう。
結果、呪い師は廃れる。
当然ながら、医官は技量によって官位を登り、それらを束ねし者はそれなりの地位を得る。
三公と称される司徒、司空、太尉程は無理だとしても、その下の九卿に準ずる位ならば、誰もが羨む地位と言えた。
「儂もな、あの様に秀でた医者を野に埋もれたままにするのは勿体ないとは感じておったのじゃ」
実現したならば、華佗の願いも果たされ、万々歳である。
「毛利殿がお考えになられたのか?」
と蔡琰が気持ちの籠もらぬ声で問う。
毛利は、
「まさか!」
と脊髄反射的に否定した。
「やはりか。差し支えなければ学ばれた書を教えて頂きたい」
「何!?」
刹那、毛利は自身の迂闊を呪う。
(世に無い物は書からしか学び取れないこの三国時代。言えない、生まれる前からそういう環境だった、何て口が裂けても言えない……)
考えあぐねた毛利は……
「書……ではなく、し、我が師に……教わり……ました」
苦しい。
あまりにも苦しい言い訳だ。
「ほう? 毛利の師か。実に興味深いのじゃ」
「して、その御仁の名は?」
「はや、いや、林……」
「林……長江以南の家名ですか」
「(子供が何でそんな事まで知ってるの!?)しゅ……」
「しゅ?」
「醜?」
「何故はっきりせんのじゃ?」
毛利の知る三国志部将の姓では無く名で、〝シュウ〟と発する字を中々思い出せなかった所為だ。
「し、失礼。我が師の名は林醜」
「林醜」
「ええ。蔡琰様が仰られた通り、長江以南の生まれと聞かされております」
「して、今何処に?」
「さ、さぁ。世を流離いつつ、自身が得た知識、知見を旅先の童児に教えるのが生き甲斐らしく……」
そんな訳ない。
霞を喰って生きる仙人でも無ければ。
「然様でしたか……」
この日初めて、蔡琰の声に感情が篭った。
その後夕食を摂りながら、ついでとばかりに灌漑工事を打ち合わせる毛利と蔡邕。
傍らでは、蔡琰が何故か琴を奏でている。
抑揚の無い、静かな音色が会話を邪魔しないでいた。
「蔡邕様、盾持ちの将機が日の出から日没まで掘れる水路の距離はどの程度になりますか?」
「あの後試してみたのじゃが、掘り出した土の運び出しが上手く出来れば一里は固いな」
深さと幅共に大凡一メートルとするならば、約四百立方メートルである。
この瞬間、七星将機は現代の重機を上回る残土搬出能力を有する事が明らかとなった。
「思った以上に掘れるのですね」
「そうで無ければ、漕渠(長安と洛陽を結ぶ運河。約八十キロ)を僅か三年で完成など出来ぬのじゃ」
「成る程」
と頷く毛利。
だが彼は、直ぐ様問題に気付く。
「水路の河岸にはなるべく周辺の川に生えた草や木を植えて下さい」
「何故じゃ?」
「土砂の流出を防ぐ為です。折角の用水路が黄河の様に始終濁っては台無しですから」
刹那、
——ビンッ
と弦の切れる音が響いた。
「第四弦じゃな」
「いえ、二弦です」
「クッ……」
(え、何? 切れた弦当てクイズ? あと、蔡邕様が何でそんなに悔しがってるの?)
「毛利様は、黄河が何故黄色いが存じておられるのか?」
とまるで先程の遣り取りが無かったかの様に問うたのは、またしても蔡琰だった。
「え?(説明も無しか)……ええ。遥か古代に、上流の樹々が伐採され過ぎたからです。生きた木が無くなれば、それまで土を縛り、育む物が消えます。その結果、黄河の流域の岸が河による浸食を許し、土砂が流され、水が黄色くなるのです」
途中で気を取り直した毛利は、以前見たテレビのコメンテーターの如く語った。
「つまり、嘗ては黄色く無かった、そう言う事ですな?」
「はい」
「なれば、再び木を植えらば清らかな水が戻るのか……」
「それは何とも」
「何故だ?」
「戦乱の所為です。あれは木を際限なく必要としますから」
「では戦を無くせば良いのか?」
「戦が無くなれば、今度は人が増え、その分木を必要としましょう」
「解決策が無いと申されるか」
「いえいえ。木を倒した分、新たな苗木を植え、育て、無駄に使わぬ様守る。その上で、戦乱の無い世の中が気の遠くなる程続いた後にならば、いつかきっと」
「それは面白い」
蔡琰がこの日初めて、顔に色を浮かべる。
そんな彼女に、毛利の目が細まった。
「もしや、政に興味がおありですか?」