#050 万金に値する知識
史実よりも早い時期に、漢王朝の滅亡が差し迫っていた。
それも、呂布の子を宿した貂蝉の体調が優れぬ、と言う理由で。
(遷都なんかするから! いや、過ぎた事よりも今は呂布様だ。兎にも角にも、天元突破しかけている気持ちを落ち着かせなくては!)
毛利は血の気の引いた顔を呂布に向ける。
その呂布は、普段なら穏やかな顔を今は阿修羅の如くに変化させていた。
(こ、恐い。今は呂布様が唯ひたすら怖ろしい)
体の奥底から湧く震え。
毛利はそれを無理やり抑え、
(ど、どうする? そ、そう言えば、気持ちを吐き出させると落ち着くって聞いたな。つまり、ガス抜きだ)
呂布の手を握った。
「呂布様。この毛利に何を望まれるのです?」
「貂蝉を診て貰いたいのです!」
「しかし、私は医者ではありませんよ?」
「子を成し易き機を教えてくれたではありませんか!」
(あれは火山が。……まぁ、排卵周期だの、タイミングだのを教えたのは確かだけど、あれで呂布様の信を得られたの!?)
「それに、医道に通じる者は既に診ております!」
(つまり、その医者の言う事が信用出来ない?)
「食も細く、日に日にやつれているのです!」
(それって、マタニティーブルーから来る食欲不振じゃ……)
「もう、この長安で頼れるのは毛利しかおりません!」
(呂布様の懇願。身内の居ない、転勤先での子育ては相談相手や頼る相手が少なくて大変って言うもんな。だから最近は転勤させない、って。……となると、やはり遷都に原因が。このまま取り返しのつかない事が起きてしまったら、呂布様の恨み辛みは全て遷都を強行した涼州軍に向かってしまう。それだけは避けないと……)
「分かりました。呂布様がそうまで仰るなら、診させて頂きましょう」
毛利は応じつつ、
(だが、俺では明らかに役不足。医療知識なんて皆無だからな。となると……)
必要な手を打つ。
「時に、お住まいはどちらになりますか?」
「王允様が館の離れを使わせて頂いてます」
(王允様の屋敷に何故? ま、それは置いといて)
「荀攸様にお願いがあります。もし可能であれば……」
毛利は荀攸に頼み事をすると、「こちらです」と足早に向かう呂布の後に続いた。
呂布一家が使う離れには、厳重な警護が敷かれていた。
(随分と物々しいな。何かあったのか?)
だが毛利は藪蛇を恐れて口を閉ざし、そのまま貂蝉の居る部屋へと向かう。
そんな彼を真っ先に迎えたのが、
「ウッ!?」
強烈な悪臭であった。
「な、何ですかこれは!?」
鼻を抑える毛利に、部屋の主人が答える。
「香だ。身の回りを世話する下女が用意してくれたのだ。長安で近頃流行っていると申してな」
貂蝉だ。
腹が西瓜程大きくても、匂い立つ様な美女は未だ美しいままである。
彼女は寝台から起き上がろうとするも、呂布が「いけない!」と慌てて押し留めた。
「久しいな、毛利。お主の活躍、この貂蝉の耳にも届いたぞ」
「とんでもない。話半分に聞いておいて下さい」
「噂とは元来そう言うものだ」
「時にお身体の具合が宜しくないとか?」
「ああ、怠くてな。それに、一日中頭が霞みがかっているのだ」
そこに、
「毛利黄門。やはり駄目でした」
遅れて荀攸が現れた。
「駄目、とは?」
と尋ねたのは呂布だ。
それに、毛利が答える。
「実は、華佗様と言う豫州一の名医がこの長安に居るらしく。荀攸様にお連れ頂く様、お願いしていたのです」
「ですが、申し訳有りません。華佗は今、手が離せぬそうです。都合がつき次第、参られるでしょう」
「しかし、医者であれば王允様が手配した者に診て頂いてます」
「ええ、承知しております。唯、医者には各々得意とする分野がありますので、他の医者にも診て貰い、第二の意見を得た方が良いのです」
現代で言うところの、セカンドオピニオンである。
「それは良い考えですね」
と荀攸が感心した。
「時に呂布様」
「何でしょう」
毛利の声に、呂布が応じる。
「久しぶりに奥方にお会いされた折、以前との違いに何かしら気が付きませんでしたか?」
毛利の質問に、呂布は束の間考えた後、
「そう言えば……春だと言うのに、貂蝉の手足が冷たく感じました」
と答えを口にした。
(それは女性特有の冷え性では?)
「うーん……他には? 身体の変調以外でも構いません」
「他、ですか? そうなりますと、先ず挙げられるのはこの臭いですね。洛陽に向かう前には、一度も嗅いだ覚えが有りません」
「なるほど」
毛利は小さく頷いた。
「何か分かったのですか、毛利黄門」
「ええ。貂蝉様、この臭いの元ですが、もしや〝タバコ〟では有りませんか?」
尋ねた相手は「知らぬ」と首を横に振った。
「たばこ? 未だ耳にした事も無い響きですね」
と口にしたのは荀攸である。
当然だ。
元はポルトガル語なのだから。
だが、毛利の考えはそこには至らず、他へと向かう。
やがて、彼は恐る恐る尋ねた。
「もしかして、大麻でしょうか?」
「違うな」
即座に否定する貂蝉。
毛利は胸を撫で下ろした。
(最悪な結果は免れたか。妊婦があれを吸うと、赤子に酷い後遺症が現れるって言うからな)
「毛利は、この香が問題だと考えるのだな?」
「その可能性もあるかと」
「何故でしょう?」
呂布の問いに毛利は答える。
「先に挙げたタバコや大麻は鎮静効果を簡単に得られる反面、大変有害なのです。特に、子を宿した妊婦には」
「何!?」呂布の手が勢いよく伸び、再び毛利の両肩を摑んだ。「そ、それはどういう事ですか!?」
毛利の顔が痛みで歪む。
それは、貂蝉が呂布を一喝するまで続いた。
「すいません。どうかお許し下さい」
「だ、大丈夫です。それよりも、先に挙げた物が有害な理由なのですが……」
毛利は知る限りを伝えた。
血管が萎縮し、胎児が育つ為に必要な栄養が十分に届かなくなる事。
タバコに含まれる毒素が臍の緒を通じて行く事。
その時、胎児の顔が苦しみに歪む事。
(視聴覚室で見せられた時は、ちびるかと思った)
結果、早産やお腹の中で成長し切る事なく産まれる事。
最後に何よりも問題なのが、異常を有して産まれる事を。
「つまり、先ずはこの香を止めてみてはどうでしょうか? それで暫くは様子を観ます。所謂、経過観察ですね。後、食事はちゃんと摂って下さい。特に、栄養が高い物を。理由は先に述べた通りです」
「栄養が高き物、か。お勧めは何だ?」
貂蝉が綺麗な顔を傾けた。
「妊婦ですから、チーズや蜂蜜が宜しいかと」
「蜂蜜は分かるが、ちーずとは?」
「牛や山羊、羊の乳から作る白くて硬い保存食……みたいな。存じませんか?」
「そう言えば、北方の遊牧民がその様な物を食していると耳にした気がするぞ、旦那様」
「本当ですか、貂蝉? では、伝手のある商人に取り寄せて貰いましょう」
「ついでに、作り方も教えて貰っておいて下さい」
「何故だ?」
「それらを用いた、美味しい料理を知っております。なので、ここ長安で作れるか試してみたいのです」
ここまでの会話を、誰よりも驚きを持って受け止めている者がいた。
「ん? ど、どうしましたか、荀攸様?」
「………………い、いえ。い、今更ながら、これに良く似た香を見た事を思い出していたのです」
「それは一体何方で?」
「……じゅ、荀爽様と慮植様の所です」
「ああ、本当に、この長安で流行っているのですね」
毛利の言葉に、荀攸は内心が悟られなかったと安堵していた。
やがて、王允の屋敷を離れる頃合い。
門を出て直ぐに、呂布が毛利に頭を下げる。
「毛利黄門、助かりました。貴方はこの呂布の恩人です」
「いえいえ、とんでも無い。それにまだ、快方に向かうと決まった訳では有りませんから」
「そう言う訳には参りません」
「時に呂布様」
「何でしょう?」
「私は経験が無いので詳しく知りませんが、呂布様ならご存じなのでしょう? 子を育てるのが如何に大事か」
「二人目ですから。ある程度は承知しています」
毛利は、〝私がした事など、それに比べれば取るに足らぬ事〟と言いたかったのである。
その意図を、
「ふむ、毛利黄門が何かしら金言を授けてくれるのですね?」
と斜め上に読んだのは荀攸だった。
「金言だなんて、未熟な私には言えませんよ」
「では、注意すべき点は有りませんか? もしかしたら、私達の知らぬ事柄が有るかも知れません」
「荀攸様がそこまで仰るなら。そうですね……」
毛利は考えた。
現代にあってこの時代に無い物は何か、と。
答えは直ぐに出た。
それは、とある習慣だ。
「では先ず一つ、帰宅したら何よりも最初に手洗いとうがい、洗顔をし、更には衣服を替えて下さい」
「何故です、毛利黄門?」
「屋外には目に見えぬ、体に悪い物が蔓延しているからです。生まれたばかりの赤子はまだ良いらしいのですが、ある程度経つとその影響を受け易くなるそうです」
「……聞いた事も無い話ですね」
荀攸は驚きを隠すので必死だった。
「後、大人と子供の食器は必ず別々の物を使用し、子供用のは使用前に沸騰したお湯に着けると良いでしょう」
「何故ですか?」
「前者は親から虫歯をうつさぬ為、後者はやはり目に見えない悪い物を口に入れぬ為です」
「!? そ、それで虫歯を防げるのですか?」
「かなりの確率で防げると聞きました。現に私の両親はそれを実践したからこそ、私には虫歯が一つも有りません」
「毛利黄門」
「はい?」
「その知識に、一体どれ程の価値があるかお分かりですか?」
「え?」
「万金に値しますぞ!」
毛利にとっては、ただの雑学である。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
お蔭様で
★★ <祝> 50話 & 20万文字達成 <祝> ★★
と相成りました!
今後ともよろしくお願いします!