#005 洛陽
洛陽。
九メートル近い高さの城壁によって、東西南北三キロメートルもの距離に亘って覆われた、世界でも稀に見る巨大な城塞都市だ。
若干、南北に長い。
城壁内は半分以上の面積を宮殿が占めている。
だが、それ以外の場所に百万もの民が住んでいた。
実に、驚くべき事実。
しかし、それを可能にしたのが、付近の川から引かれた豊かな水であった。
城壁の足元には堀が深く掘られ、水がなみなみと湛えられている。
その水は城壁内を西から東へと幾筋にも分かたれた水路を通り抜け、やがては東に設けられた鴻池に集められた。
衛生面を考慮に入れ、汚水を流す為に。
だからこそ、長きに亘り帝国の首都たり得たのだ。
◇
劉弁らの乗った馬車を含む一団、大凡三千もの軍馬が街道に沿って洛陽へと向かう。
毛利はその馬車の後を遅れぬよう、黙々と歩いていた。
遮る物がまるでない、夏の日差しの下を。
黄色く乾いた土が、顔に向けて光を照り返す。
彼の顔と目が焼かれていった。
ある種の苦行。
それが延々と続く景色の中を、
(劉弁が皇上、現代で言うところの皇帝だったなんて……)
つい先程知り得た、驚愕の事実を思い返しながら。
(知らなかったとはいえ、無礼千万、だったよな。後で只管許しを請えば、命だけは助けてもらえるかなぁ……)
恐怖が毛利の心を苛み、顔色に浮かぶ。
その様子を密かに見つめる人影。
馬上から、面白い、と言わんばかりに笑っていた。
やがて、毛利の目が街道の先に異変を捉えた。
遠目に見てもとてつもなく大きな何か、が道を遮り始めたのだ。
「……ん?」
手をかざし、目を細める毛利。
馬に乗り傍を付かず離れずにいた者が、それが何かを彼に教える。
「あれか? あれは洛陽の城壁だ」
それは途方もない〝壁〟であった。
より近い筈の先行く兵馬が豆粒大にしか見えないと言うのに。
「す、凄すぎる」
それが洛陽を初めて目にした、毛利の言葉である。
「それに、何て高さだ……」
彼の目には明らかに無駄に高い城壁。
(しかも、土で出来てるっぽい。本当に古代中国かも……)
それが延々と、文字通り視界の端から端まで続いているのだから。
「低いと将機で簡単に越えられちまうだろうが」
「それはそうなんでしょうけど……」
その将機が良く分からん……と首を傾げつつ、声のする方へと顔を向けた毛利。
彼の目に映ったのは、董卓より体の大きな部将だった。
上唇に髭を生やしてはいない。
が、その他は董卓に良く似ていた。
「貴様、その様子だと洛陽は初めてだな?」
とその部将が問うた。
「え、ええ、そうなんです。えっと、失礼ですがお名前は……」
「俺の名は牛輔。董卓様が率いる涼州軍の将をしている」
「そうでしたか、牛輔さん」
「牛輔様、だ!」
と強く口にしたかと思うと、牛輔は傍を歩く毛利の頭を馬上から殴りつけた。
刹那、
「痛っ!?」
二つの声が重なった。
「なんて石頭をしてやがる!」
牛輔の言葉である。
今度は平手が毛利の頭を捉えた。
「またっ!?」
稀に見る理不尽。
痛む頭部に手を添える毛利、その目が険しい。
「な、なんでいきなり叩くんですか! しかも、二度も!」
「黙れ! お前が悪い! 特にその石頭がな!」
「酷い! 酷すぎます!」
「黙れ! 儂は董卓様の妹を娶り、更には一軍を預けられる程の者なのだぞ? 口の利き方も知らぬ小童を躾けて、何が悪い! 寧ろ、それだけで済んで有り難いと思え!」
「ぐぬぬ……」
「何と生意気な目! が、中々元気があるではないか! 男はそうでないとな!」
牛輔は豪快に笑った。
だがその目は、笑ってなどいない。
毛利の一挙手一投足に注がれていたのだ。
「ときに貴様」
「(痛ってぇなぁ……)え、あ、はい?」
「宦官ではないのだな?」
「宦官?」
聞き慣れぬ言葉に毛利は惚けた。
「なんだ貴様、宦官を知らぬのか?」
宦官とは役人の一種である。
元は古代中国の後宮にて下働きを務める、身分の低い雑役夫の事だ。
「へぇー、なるほど。しかしまた、どうして私が?」
「貴様の顔に髭が見当たらぬからよ。周りを見てみよ」
確かにその通りであった。
毛利が言葉を交わしている牛輔然り、董卓然り。
加えて、一団を構成する多くの兵隊は皆、髭を蓄えていたのだから。
だが、毛利にはとんと話が見えない。
首を傾げたのも致し方なかった。
「本当に知らぬようだな。宦官の顔には髭が生えぬ。その理由はな、去勢されているからよ!」
牛輔は腰に佩た剣をさっと引き抜き、毛利の下半身に対し突く構えを見せる。
対象となった若者は思わず、
「ひぃっ!」
己が両手で狙われた股間を隠した。
「ぐはは! その驚きようとその仕草! 真に宦官ではない様だな!」
「当たり前です! 誰が好き好んでそんな事を!」
「そう言ってのける貴様は一体何処の馬の骨だ? 宦官を知らぬ。貧しき生まれの者は自ら一物を落としてまで宮仕えを望む者が多いと言うのに。加えて、洛陽の近くで皇上と共にいる所を見出された割には、洛陽を見た事がない。〝私は怪しい者です〟と旗を立てている様ではないか!」
「そ、それは……」
答えに窮する毛利。
牛輔の剣がキラリと空を舞った。
「痛っ!」
毛利の頬から鮮血が流れ落ちる。
浅い切り傷が生まれていた。
「その痛みを忘れるな! 皇家に仇なす者は董卓様が、董卓様に仇なす者はこの牛輔が誅する故に!」
「まだ何もしてないのに!」
「皇上と共に居り、その皇上に目を掛けられた。それが貴様の、罪、だ!」
「そんな!」
「そう考えるのはこの牛輔様だけではない! あれを見ろ!」
何時の間にか洛陽の城壁が随分と近づいていた。
だが、毛利の目に映ったのはそれだけではなかった。
幾つもの将機が街道を挟み、並び立っていたのだ。
それも整然と。
色も形状も様々な将機が。
中には部位ごとに色の違う物もあった。
頭部などは一つとして同じ形はない。
黄河河畔で目にした琥珀色の将機も、その中にあった。
「先帝が発足されし西園八校尉と、それに主だった部将らだ。皇上に気に入られた貴様はあれらに間違いなく疎まれるだろう。先帝に寵愛されし宦官にして黄門・蹇碩の二の舞を恐れてな」
「西園八校尉? 黄門? 蹇碩?」
ちなみにだが、黄門とは禁中(皇上とその家族の住まい。私的空間)にて皇上の近侍を務める官職の一つである。
官品は五品(最高一品官、最低九品官)。
禁中の門が黄色く塗られていた事が官職名の由来となった。
その指揮下には小黄門(宦官に限る)らが配される。
非常に権威のある役目なのだ。
一方の西園八校尉、言うなれば皇帝の私軍とも言えた。
先代皇上が自らを無上将軍と称し、私費を投じて発足したのが始まりだ。
兵の総数は一万。
各隊の統率者に名だたる部将を配して。
だが、問題が一つ起きた。
それは軍を差配する総大将・上軍校尉に、宦官にして黄門である蹇碩を指名した事だ。
蹇碩が私設近衛軍の総大将になる。
それはつまり、皇家を守る誉れ高き務めが宦官の指図を受ける身に成り果てる、という意味であった。
それ程、蹇碩は皇上からの信が厚かった、とも言える。
皇上の手前、表向きは平然とするも、部将らの怒りは天を割り、その嘆きは新たな湖を乾いた大地に生み出す程であったとか。
先帝亡き後、件の蹇碩は下らぬ罪を被せられ、無残な死を迎えた。
それも一族郎等を巻き込んで。
それ程まで、恨み、妬まれていたのだ。
「下手をすれば貴様もそうなるだろう。ああ、そうだとも。洛陽にて寄る辺なき貴様は罪人同様に扱われ、最後は獣同然の死を迎えるのだ!」
牛輔はそう口にするや否や、馬を進める。
(えっ! ちょっ! ここで一人にしないで!)
堪らなくなった毛利はその背に向け、手を伸ばしかけた。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり、とは良く言ったもので。
洛陽に入る前に隊列を整える、その僅かな隙を突く形で、毛利は馬車に乗る劉弁らに呼ばれた。
「皇上……様?」
事前に教わった通り、毛利は馬車の扉越しに声を発する。
僅かな間の後、扉に設けられた窓が小さく開いた。
「ああ、毛利! 君の声が聞けて良かった! 心配してたんだよ!」
劉弁の声は妙に甲高く、弾んでいた。
「兄様!」
「ああ、ごめんね、劉協。それでね、毛利! 時間が本当にないんだ! だから手短かに言うけど許して欲しい! 僕らが馬車を降りるまで、決してこの馬車から離れない事! 降りた後も決して見失わずについてくる事! もし誰かが君の行く手を塞いだら、〝皇上の思し召し〟と答えれば良いから! それとね、董卓とは……」
「兄様、もう時間です! お止め下さい!」
「ごめん、毛利! この続きは謁見の後でね! 君には近侍を……」
「兄様、まだ決まりではありませぬ!」
「そんな! ああ、もう! 兎に角、また後で!」
「え!? ちょっ、謁見? それに、近侍!?」
刹那、毛利の脳裏に先程牛輔から伝えられた話が過ぎった。
それは皇上に信頼されたが故に妬まれ、一族郎等纏めて惨殺された宦官の話であった。
「う、嘘だと言ってよ……」
だが、窓は既に閉じられ、返事はない。
それどころか、隊列の整った一団は進み始めた。
紅蓮の将機〝赤兎〟に率いられながら。
帝国の首都洛陽、そこにあるであろう玉座に皇上を戻す為にだ。
全高五メートルにも及ぶ色取り取りの将機、まるでレーザー光により色を重ねられた古代神殿の列柱の如く輝いている。
その足元には兵が整然と並び、更にその奥には雑多な人による人波が出来ていた。
その端に馬車が差し掛かる。
「皇上万歳、万歳、万々歳!!!」
途端に斉唱が轟いた。
空気が大きく震え、毛利も肌でそれを感じた。
加えて、馬車に向けられる思いは信仰の如く。
いや、熱狂、と言う言葉が生易しい程であった。
この時、毛利は思いもしなかった。
その一部が、彼自身に対して負の感情を伴って向けられる事に。
権勢欲に塗れた者からの妬みが、如何に重いものであるかを。
彼はこの後、その身を以て知るのだ。