#042 袁紹と袁術
再び、時を遡る。
一八九年、十二月上旬。
場所は冀州だ。
洛陽の北東に位置し、黄河北岸に沿う形で海まで続く。
その為か、広大な穀倉地帯を有している。
だからだろう、この当時も非常に豊かな地として知られていた。
百万の兵を十年も養えるだろう、と評される程に。
その冀州に、この当時随一の名門に生まれ育ち、洛陽においては官民問わず多くの者に慕われた男、袁紹が居た。
冀州牧・韓馥に匿われる形で。
だがその実、反董卓の兵を挙げる機会を見計らっていたのだ。
その彼の下に、
「橋瑁からの檄文だと?」
「日和見の韓馥が手の者を遣わし、わざわざ届けに参ったそうで」
「ほう、他に何か言っておったか?」
「兵を挙げられるなら、面倒をみるとか」
偉丈夫がギロリと睨んだ。
まるで閻魔様の如く。
その眼差しを向けられたのは逢紀。
袁紹が信を置く参謀の一人である。
彼は動じる事なく、言葉を続けた。
「韓馥ごときが、とお思いでしょう。しかし、我等はあの小人に命脈を握られている身。ここは一つ、話をお受けすべきかと愚考致します」
「ふむ、韓馥めは自ら動かぬのか?」
この袁紹、韓馥から支援を受ける身だが、その実疎ましく思っていた。
何処へ行くにも後を付けられ、酷く監視されていたからで有る。
しかし、それにも理由があった。
もともと韓馥は袁氏に仕える家柄であったからだ。
つまり、袁紹を畏怖していたのである。
同じくらい、董卓も恐れていた。
韓馥の内に宿りし相克。
無論、聡明な袁紹はその事に関しても勘付いていた。
「田豊によると、沮授・張郃・麴義に準備を命じたとか」
袁紹はおや、と首を捻る。
「アレが動くのか。となると、この誘いに乗らねば袁紹はとんだ臆病者、と嗤われるな」
「袁紹様が居られる限り、冀州が落ち着かぬと考えているのやも知れません」
「ならばこの袁紹、その目論見に乗ろう」
車騎将軍を自称し、袁紹の名の下に集った万の兵を従え洛陽へと向かった。
◇
袁紹とは逆に、董卓の政に手を貸す袁家の者達がいた。
その者達は不運にも、何者かによる襲撃事件を受け粗方死んだ。
ただし、とある者を除いて。
それは誰あろう、後将軍・袁術。
だが、流石の彼も洛陽を後にした。
向かう先は当然、袁氏所縁の地。
今、彼は南陽に居る。
袁氏の本拠地である豫州汝南郡に戻ろうとする道中であったのだ。
ところがである、その地で予想外の事が彼を待ち受けていた。
「荊州刺史・王叡と南陽郡太守・張咨が孫堅に討たれただと……」
次は己ではないか。
袁術はそう考えたに違いない。
彼は、南陽勅史を討った孫堅を憂国の士と持ち上げ、配下一同で持て成す事にした。
一方の孫堅はと言えば……
「はっ、はっ、はっ! ……は!?」
興が醒めた途端、現実を直視していた。
「むぅ、このままでは反董卓どころか、反孫堅の兵が挙げられてしまうではないか」
そんな彼に秋波を送る者が。
先の、
「袁術だと?」
「はっ! 豫州汝南にて一大勢力を誇り、四世三公と呼ばれた名門袁氏の次期当主に御座います」
「つまり……祖茂、何が言いたい?」
「王叡と張咨が謀反を企んでいたと伝え、袁術に取り入れば万事解決致しまする」
こうして、自由になる兵を持たない袁術と、兵力以外何も持たない孫堅の共生関係が生まれた。
そんな彼らのいる南陽郡は魯陽城に、とある報せが齎された。
「豫州刺史・孔伷が亡くなった?」
孔伷の本拠地である潁川は魯陽にほど近い。
大事な報せなど瞬く間に伝わる。
「はっ!」
「確か、配下を兵共々酸棗に遣わしておったな?」
「そう聞き及んでおります」
「孫堅には?」
「彼の者には耳も手も御座いませぬ故」
「これは好機。あの猪武者を、謀反者を討った功績として豫州刺史に上表せよ。ああ、彼奴には後から伝えれば良い」
その後、袁術は豫州に配下を送り、これを我が物とした。
既に南陽郡は抑えてある。
「これで、万事目処が立った」
袁術もまた反董卓の狼煙を挙げた。
◇
そして、一九〇年一月の洛陽、毛利が牛輔と再会した場面に戻る。
今、二人の間には一枚の紙があった。
そこには、洛陽周辺の簡易な地図が描かれている。
山の大体の高さが分かる様、等高線紛いを引いて。
その上に、六博なるボードゲームの駒が幾つも並んでいた。
駒一つ当たり五千の兵力として。
「いやしかし、こうして地図に落とすと反董卓軍……」
「馬鹿野郎、賊軍と言え」
「ああ、そうでした。賊軍の兵力は凄いですね」
地図の上が駒で一杯。
特に酸棗。
当初十数万だったのが、今や二十万に届こうとしている。
「劉弁様が御隠れになった原因が、逆賊に担ぎ上げられる事を恐れた董卓様による毒殺、との流言が飛び交ってるらしいからな」
「再び現れて頂いたらどうでしょう?」
「別人を劉弁様に仕立て上げたと言われるだけだ」
その為、今や敵軍の目標が劉協と洛陽の奪還に代わっていた。
そして、その劉協はと言うと、既に長安入りしている。
「そもそも、逆賊は劉協様が長安に移られた事を知っているのでしょうか?」
「まだ知らんだろうな。その為に、関を閉じたのだ」
「では、洛陽が既に廃墟同然なのも……」
「当然知らん」
毛利は一瞬、逆賊に同情を抱いた。
「つまらん事を考えるな」
「あれ、顔に出ていましたか?」
「貴様の心の内など、百戦錬磨の牛輔様にはお見通しだ!」
「あ、それ、何だか凄く懐かしいです」
「何がだよ!」
そこに人が一人、訪れた。
細身だが、確かに涼州人らしい風体をした四十絡みの男だ。
「牛輔様、こちらでしたか」
「おう、賈詡。何かあったのか?」
賈詡文和。
史実では、何度も仕える主を変えた軍師として有名である。
だが、大戦乱を最後まで生き残り、七十七歳まで生き永らえた。
つまり、この激動の時代の中心にいながら、天寿を全うしたのだ。
それどころか、最後に臣下の礼をとった相手からは三公の一つである太尉(官吏の最高位)に任じられている。
非常に稀有な存在であった。
「董旻様から先触れが参りましてな。明朝までには入洛されるとの事」
「随分と早いな。だが、それだけを伝えにお前が態々来たのか?」
「いえ、件の高貴なる御方の事です」
毛利の片眉がピクリと上がる。
それを、牛輔の目が確と捉えた。
「賈詡は俺の副師だ。つまり、何でも知り得る立場にいると思え」
「は、はい……」
「安心なさい。あの御方の事を知るのは、ここ洛陽においては私と牛輔様だけです」
毛利は安堵した。
「で、何だ?」
牛輔の問いに、賈詡はさも何でも無い事の様に、
「はい。あの方を長安に移し、董卓様の縁者董白として渭陽君に御成り頂くとか」
と答えたのであった。
「ん?」
「……つまり、どう言う事でしょう?」
「おや、この地図。随分と面白い描き方をされてますね?」
三者三様、首を傾げた。