#041 酸棗の反董卓軍
兗州酸棗。
洛陽から東に百五十キロ余りの場所に位置する。
今そこに、反董卓軍の諸将が集結していた。
「兗州勅史・劉岱、陳留太守・張貌、広陵太守・張超、済北相・鮑信、東郡太守・橋瑁、袁紹の従兄でもある山陽太守・袁遺。錚々たる顔触れで御座いますなぁ」
広大な平原に陣幕が無数に並んでいる。
毛利がこれを俯瞰したならば、無数の肉まんが落ちている、とでも評しただろう。
「他にも、江東の虎と称される孫堅が軍勢一万を率い、洛陽に向かっているとか」
「いや、孫堅は糧食に難儀していると聞いたぞ?」
「南陽郡太守・張咨を襲ったのはその為だろう」
「次は、何処に矛先を向けるやら」
腹心達の言葉。
それを、曹操は眦を少しも動かす事無く、聞き流していた。
唯一動く物と言えば、彼の人差し指。
先年、顔に出来たばかりの傷痕を撫でている。
男は考えていたのだ。
自身の集めた兵は精々五千。
対して、先に名の挙がった諸将は各々数万を引き連れていた。
(このままでは面白くない)
やがて、男の指が止まった。
直後、口が大きく開かれ、一人の名を叫んだ。
「夏侯惇!」
それは、一見して穏やかな風貌。
だが、体躯は隆々。
自らの師を嘲笑った慮外者を殺すなど、良く言えば仁侠心に満ちた男の名であった。
曹操の従兄弟でもある。
彼は曹操が兗州己吾で挙兵以来、副将として付き従っていた。
「はっ!」
「例の宦官をここに!」
「ははっ!」
夏侯惇が兵士に下命する。
直ぐに一人の、男か女か分からぬ身体つきをした者が現れ、跪いた。
「そこな宦官」
「はっ! 何なりとお尋ね下さいまし、奮武将軍様」
曹操が奮武将軍を自称し始めたのは、つい最近の事である。
「董卓が動きを言え」
「ははっ! 私めが洛陽を離れし時、董卓めは軍を大きく二つに分けて御座いました。一つは……」
董卓自身が率いる涼州軍。
今一つは、呂布が受け継いだ并州軍。
「洛陽を離れ、各々の故郷に帰還する準備を命じていた次第」
「貴様をここに遣わした者は何と?」
「新たに洛陽に入りし者は虎穴に入りて虎児を得るが同然。熟れた柿が自然と落つるまで待つべき、と」
実はこの話、手の者からも密かに伝え聞いている。
諸将が未だ掴んでいない、大変貴重な情報だ。
伝える相手次第だが、十分な褒賞が望めるだろう。
だからこそ、彼は密かに頭を悩ましていた。
目の前にいる宦官が、選りに選って己に伝えに参った理由が分からぬからだ。
「何故、その様な話をこの曹操に教える? より洛陽に近い、河陽津に布陣した河内太守・王匡ならば、袁紹殿に取り次いで貰えよう」
「恐れながら、大した事では御座いませぬが、お願いしたき事が。但し、ご承知の通り、私めは宦官で御座います故。曹操様こそ、我ら宦官のお味方と信じたからで御座います」
曹操が宦官の孫である事は、良く知られた話であった。
袁紹が宦官嫌いな事もだ。
「貴様の言葉が真にならねば何とする?」
「それこそ、更なる変事が起きた証に御座います。曹操様におかれましては呉々もご用心されたし」
曹操に対し、臆する事無く堂々と言ってのける。
故に、彼はこの宦官に初めて感心を覚えた。
「貴様、名をなんと言った」
宦官が顔を上げた。
「李黒、に御座います」
彼の顔にも傷があった。
「それは?」
李黒の顔が、この日初めて歪んだ。
「洛陽を離れた折、賊……と争いました」
「賊は返り討ちにしたか?」
「……いえ、及ばずながら」
曹操の視線が、李黒の左腕を捉える。
そこには七星の輝きが見て取れた。
「この曹操に仕えてみぬか?」
曹操の手勢は郷里で掻き集めた五千。
それも、逃亡中の小役人ですら入れて漸くだ。
そう、彼は出自を問うこと無く、兵力を欲していた。
「私めの願いを叶える、その機会を頂けるなら」
「聞かせて貰おうか、その願いとやらを」
曹操がニヤリと笑った。
◇
平原を一頭の麒麟が駆けている。
それも馬車を曳いた。
やがて、その麒麟は足を止めた。
『劉弁様、関が見えて参りました!』
その口から、毛利の声が轟く。
「なら、これ以上近付くのは拙いよ、毛利!」
馬車の扉を開け、毛利に向けて声を張った劉弁。
彼女は今や、旅するやんごとなき身分の跡取り息子、と言った出で立ちである。
『では如何しますか?』
そこに、
「バウッ! バウッ!」
もう楽しくて堪らん、と言った感じで赤い巨犬が現れた。
董卓の愛犬、火山だ。
ここまで、馬車の後を付いて来ていたのだ。
現代人がこの事実を知ったならば、(そんなに体力が保つか?)と首を傾げる事請け合いである。
劉弁はそんな犬を暫し眺めた後、手を叩いた。
「そうだ! 文を認め、火山にもう一走り願おう!」
この赤犬には、洛陽から毛利が匿われていた豫州長社まで手紙を届けた実績がある。
ならばその逆が出来ないとは、彼女には到底思えなかったのだ。
それは毛利も同じ。
『火山、董卓様か牛輔様に届けてくれるか?』
案の定、
「はっはっはっ……」
火山は少しも理解しているそぶりを見せる事無く、
「バウッ!」
同意してみせた。
「いや、火山が劉弁様からの書状を携えて戻って来た時は、流石の俺も腰を抜かさんばかりに驚いたぜ。そもそも、何処に匿われたかも分からぬお前宛てに出したのだって、一か八かの賭けだったからな」
と毛利に語るのは牛輔だった。
場所は洛陽。
南宮のとある一室である。
「驚いたのはこちらです。まさか、長安へ遷都されるとは思いも致しませんでした」
「李儒の奴めが囃し立ててな」
「だとしても、董卓様が許す筈が……」
「実はな」
と牛輔が口にした内容は、聞くも涙語るも涙の一部始終であった。
「つまり、董卓様は気が触れたのよ」
その想像もつかなかった事実に、毛利は絶句する。
両の手で顔を抑え、「嘘だろ……」と呟く声すら音にならない。
「分かるぞ、董卓様の窮状を知った、今のお前の気持ちが。だが、今語ったのは全て本当の事よ」
(それもだが、俺の知る歴史と全く違うから……)
そんな毛利の両肩を牛輔は掴んだ。
「そんな中、毛利、お前は洛陽に戻って来てくれた。しかも、あろう事か、折角洛陽を脱した劉弁様をわざわざ、危険を犯してまで連れてな」
「……すいません。考えが足りてませんでした」
「馬鹿野郎。別に俺は、お前を責めてる訳じゃねぇ」
「え?」
「ただ一言、こう言いてえんだ。よく戻って来てくれた、毛利。涼州軍はお前を歓迎する、とな」
「牛輔様……」
毛利の目に、涙が浮かんだ。
「馬鹿野郎、男が泣くな」
「ち、違います! 洛陽が煤まみれだからです!」
事実、毛利が久しぶりに目にした洛陽の街は、大火の跡が色濃く残っていたのだから。
毛利が焦土作戦かと思う程に。
「ああ、あれなぁ……」
「劉弁様の悲しそうな顔が忘れられません」
「だろうなぁ……」
「一体何が?」
牛輔は、
「うむ、その、何だ……」
奥歯に物が詰まったらしい。
「まさか、涼州軍が?」
「な訳有るか!」
「では、誰が!」
答えは意外でも何でも無かった。
「遷都により、洛陽の民の多くが長安へと向かった。それは知ってるな?」
史実では強制的に。
此度も、それに近かった。
「ええ……」
「家財がそれなりに残された、空き家が大量に出た訳だ」
「まぁ、そうなりますよね」
「そこに盗人が先を争って忍び込んだらしくてな」
ようするに、盗人による失火が原因だとか。
兵の多くは長安遷都に従事していた為、火を消し止めるにも手がまるで足らず、宮殿に燃え広がるのを防ぐ為に将機で家を壊すのが精一杯であった。
「……それはそれは、ご愁傷様でした」
「ま、済んだことだ」牛輔はそう口にした後、柏手を打った。「そんな事よりもだ」
「そんな事って……」
「なに?」
「いや、良いです。続きをどうぞ」
「長安には既に伝令を出した。劉弁様とお前が洛陽入りした、とな」
「え!?」
「安心しろ。相手は董旻様だ」
董卓の実弟である。
現在涼州軍を、ひいては政を差配しているのは彼なのだ。
「恐らくだが、明日にも返事が有る筈。それまでは勝手な行動は厳に慎め」
早くはない。
移動速度や連続稼働時間に重きを置いた将機を乗り継げば、二日と掛からず往復出来るのだから。
「え、ええ、勿論です」
「劉弁様もだからな」
洛陽の状態が状態だけに、劉弁は北宮でも特に安全な場所に移されていた。
「分かっています」
「それと、劉弁様と一緒に馬車に居た、あの老婆は信用出来るんだろうな?」
「はい、身元も確かな女性です」
「なら、良い」
牛輔は毛利の言葉を信じた。
だが、彼は知らない。
老婆と称した女性が、実は唐姫の産みの親で有る事を。
そして未だ、四十にすら達していない事を。
女は化粧一つで、老けるも若返るも容易いのだから。
それどころか、
(実は俺以上に劉弁様の守役に適任とは言えない)
彼女の袖の下には、とんでもない物が隠されているのだから。