#040 大戦乱の幕開け
日が昇った。
遥か東の地平から。
その景色を、誰よりも感慨深く迎える青年が一人居た。
(あの下に俺の故郷が、日本があるんだよなぁ……)
言わずもがな、毛利である。
そんな彼にとって激動の年が今まさに過ぎ去り、新たな年が明けたのだ。
(昨年は大変な目に合いました。今年はどうか穏やかに過ごせます様に)
二礼二拍手一礼する。
(あと、董卓様が呂布様に殺されたり、臍の上で蝋燭を燃やされたりしません様に)
そんな彼の周囲に人影は見当たらない。
一年の計は元旦にあり、とだけ言い残し屋敷を一人出てきていたのだ。
因みにだが毛利は、今は劉弁と共に彼女に仕える侍女の下僕として唐姫の生家に匿われている。
(呂布様のお子が無事生まれます様に)
場所は豫州潁川郡長社。
黄巾の乱にて大いに荒らされた街の一つである。
(後は……牛輔様か)
その時、彼を呼ぶ声がした。
「毛利!」
振り返るとそこには、毛利と共に洛陽から脱した少女が心配そうに立っている。
後ろには乗って来たであろう馬車と護衛の姿も。
正に貴人。
身形は洛陽に居た時と比べるべくも無いが、綺麗だ、と言えた。
それどころか、擦れ違えば万人が振り返る美しさを醸し出している。
「劉弁様。こんな場所まで一体……」
「急に居なくなるからでしょ!」
ただし、毛利に酷く付き纏う様になっていた。
親元を遠く離れた所為だ、と毛利は理解している。
「言伝を残しましたでしょうに」
「そう言う問題じゃ無いよ!」
「はいはい。それでは屋敷に戻りましょうか」
「う、うぅぅ……」
「如何しました、劉弁様? もしかして……」
毛利は劉弁の顔をまじまじと見詰めた。
「!? な、なに?」
劉弁は咄嗟に目を逸らした。
「お腹を冷やされましたか?」
「違うよ!」
「それは良かった。この辺りに厠は御座いませんから」つい先日まで先代皇上であった劉弁に対して、この様な口をきけるのは毛利だけである。「もしかして、荀彧様から何か言伝でも届きましたか?」
荀彧は「遠くない時期にこの辺り一帯が戦場になる」事を危惧し、一族を疎開させると言い、二人と離れ離れに。
その際、毛利と劉弁もまた、強く誘われたのであった。
(冀州だと、日本がより近く感じられただろうけど……)
劉弁は首を振って答えた。
毛利はそんな劉弁の、華奢な身体に視線を這わす。
「こ……今度は何……」
足元からその付根、腹部と胸部を経て、顔へと。
(何皇太后と約束したのだ。放り出す訳にはいかない。それに……)
劉弁の顔には困惑の色が見てとれた。
そうすると、不思議と年齢以上に幼く見えるのだ。
「……だよなぁ」
「答えないの!?」
「何をです?」
「僕の顔をに、に、睨んだでしょ!」
「滅相もない!」
「では何だったの?」
「それは勿論、貴人たる貴女様に見惚れ……」
劉弁が毛利の言葉を身を乗り出して聞き届けようとした正にその瞬間、
「バウーッ! バウ! バウ! バウーッ!」
巨大な獣が毛利に襲い掛かった。
「キャーーーーーッ!」
と叫んだのは、馬車からここまで劉弁に付き従った侍女である。
彼女はその場で崩れ落ちた。
「ばか! ばか、ばか、ばかーーーっ!」
と赤い毛玉をぽかぽかと叩きながら、悔しげに罵るのは劉弁であった。
「か、火山じゃないか!? 一体、どうしてここに?」
毛利の声に、彼にのし掛かるチベタン・マスティフの尻尾がブンブン回った。
「バウ」
そして、チンチンポーズ。
「あ、雌だったんだ」
「バウッ!」
「そうじゃない?」
「バッウー」
「あれ? よく見たら首に何か巻かれてあるぞ」
「バウッ! バウッ!」
それは……
「何?」
と劉弁が聞く。
「董卓様の義弟、牛輔様からの手紙ですね」
毛利達はこの時、近況報告だとばかり思っていた。
「御母様、劉協、それに皆は息災かな?」
「早速読んでみますね」
「良いの? 毛利宛ての私信でしょ」
「牛輔様の事ですから、大した事書いてある訳ありませんよ」
「ならお願い。僕も皆の様子が少しでも分かると嬉しいから」
俺は手早く手紙を開く。
そこには……
「毛利、お前がこれを読んでいる頃には、俺達はもう死んでいる事だろう」
「えぇぇ!?」
劉弁の素晴らしいリアクションに、毛利は満足を覚えた。
「ちょっとした冗談ですよ」
「幾ら何でも、今のは酷いよ……」
「確かに。申し訳ありませんでした、劉弁様」
「僕に謝られても……でしょう、火山?」
「バウ?」
火山は首回りがスッキリした所為か、後ろ足で頻りに首を掻いている。
「さて、気を取り直して読み上げます。えー、何々……」
直後、毛利の顔色が一変する。
それどころか、今にも貧血で倒れそうになったのだ。
「う、嘘だろ……」
「な、何があったの、毛利?」
「長安への遷都が決まった、だと!?」
それは、毛利が一番避けたかった事態である。
「どうしてそんな事に!?」
劉弁の問いに答えるかの様に、牛輔が「万が一を恐れ、訳は書けぬ。劉弁様にお尋ねしろ」と書き殴っていた。
「一体どういう事ですか!?」
今や毛利の顔は鬼気迫る表情をしている。
そして、その直後、彼は後漢最後の秘事を知った。
漢王朝の命運を託した筈の、最後の皇上までもが女性であった事実を。
「そ、そんな事って……あり……かよ……」毛利は頭を抱え、膝を着いた。「な、何で、話してくれなかった?」
既に漢室の正統が途切れていた事を。
「ごめん……なさい……」
(謝って済む問題かよ!)
毛利は中国史を、いや三国志を浅くだが知っていた。
何故ならば、彼は現代の日本からタイムトリップした高校生であり、ゲームをジャンルに偏る事無くこよなく愛する者であり、故に三国志系ゲームは無双系を含め大層嵌った世代であったからだ。
漫画の三国志などは貴重な情報源となっていた。
「人が……長安に遷都する過程で洛陽が炎上し、人が大勢死ぬんだぞ!」
それはそれは、夥しい人の数が。
この凍て付く寒さの中、着の身着のままで四百キロ近くを歩くのだから当然である。
「それに!」
「それに?」
「このままでは董卓様が呂布様に殺されてしまう!」
「え? それは一体どういう事?」
劉弁は毛利の話した内容の飛躍に首を傾げるも、毛利は答えなかった。
それどころか、
「ど、何処へ行くんだい、毛利!」
一人街へと走り出す。
と思いきや、直ぐそこで振り返った。
「劉弁樣、暫く一人にして下さい」
「ど、どうしてかな?」
「少し、落ち着いて考えたいのです」
毛利は街中の屋敷、その離れに戻るや否や、小さな卓の前に座し、幾時間も思索に耽った。
(董卓と呂布を切り離し、それぞれが帰郷すれば董卓が殺される事もなかった。なのに、失敗した。もしかして、これが歴史の修正力?)
(董卓の死は不可避なのか? いや、史実でも劉協が女だったから董卓は遷都を決意したとしたら? つまり、劉弁ではなく劉協が……)
(この後は……確か反董卓軍を恐れ、長安入りした董卓は堅牢な城を築く。で、呂布の騙し討ちに遭ったらしい)
(董卓と呂布……やはり同じ場所に居ては、いずれ殺しあう運命?)
やがて、一つの解を得る。
「毛利、本当にここを出て行っちゃうの?」
劉弁が瞳を潤ませながら訊ねた青年は、旅装に身を包んでいた。
「ええ、そうです」
「僕を守ってくれるんじゃ無かったの?」
「今でもそうです。ですが、前提としていた状況が大きく変わってしまいました。このままでは中国全土が戦火の渦に巻き込まれてしまう」
「中国?」
劉弁は小動物の様に首を傾げるも、毛利はそれを無視した。
「そうなっては、劉弁様をお護りし続ける事は出来ないでしょう」
「だったら……」
「まずは牛輔様の所へ行き、正しい情報を得ようと思います」
「なら、僕も行く!」
「駄目です」
「どうして!」
「劉弁様が参った所で何の役にも立ちません」
「毛利だって! あ……」
「はい、私は将機を顕現出来ます。貴重な戦力である以上、決して追い払われたりしない。それに……」
「それに?」
「こう言っては申し訳ありませんが、劉弁様は諸悪の根源。事情を知る者にバレたら何をされるか分かりませんよ?」
だが、劉弁は折れなかった。
「僕もあれから良く良く考えたんだ。僕達は皆、身勝手過ぎた。僕達の所為で皆が窮地に陥った。だから……僕達は責任を取らないといけないんだって」
「ここに残れば、何不自由なく過ごせるでしょうに」
「うん、実際その通りだった。毛利と一緒に過ごした潁川での日々は、例えようのないほど自由で、幸せだった。けど、日に日に申し訳ない気持ちも大きく感じていて……」
逃げ出した負い目を感じていた。
それが劉弁の偽らざる気持ちである。
「戦さに負けたら……いや、負けなくとも気の荒い兵の慰み者になるかも知れません」
「また、男装するよ! こう見えても、簡単にはバレない自信はあるから」
毛利の言葉に胸を張って答えた劉弁。
「それは重畳で……」刹那、毛利の目が一気に険しい物に変わった。「それ……本当に一人で出来るのですか?」
毛利の余りに鋭い視線を前にして、劉弁の気持ちは激しく揺らいだ。
それでも、彼女は退かない。
「出来……る」
「なら、構わないでしょう」
この判断の結果、毛利と劉弁は三国史上最も豪華な顔触れが集う戦場に立つ事に。
それは同時に、大戦乱の幕開けを高らかに鳴り響かせる号砲であった。
◇
時は少し遡る。
ここは南陽郡のとある平原。
南から一種独特な音を響かせ合いながら、無数の将機が進軍していた。
先頭を駆けるのは白に虹色を差した、実に美しい将機である。
銘はそのままに〝白虹〟。
江東の虎と呼ばれし孫堅の七星将機であった。
やがて、進行方向からも将機の一軍が現れた。
孫堅に対抗したかの様に、一様に黒い。
威風堂々。
北上する孫堅らに対し、道を譲る気配はまるで無かった。
それは当然。
何故ならば、先の皇上により南陽郡に封じられし太守・張咨が遣わした兵であったからだ。
孫堅は反董卓を錦の御旗として掲げ、その南陽に攻め入る側である。
二つの軍は大地を揺がす音と共に、一斉にかち合った。
その景色はまるで、黒き大波に呑み込まれし朱鷺。
鳥が助かる筈も無い。
だが、結果は正に反対。
黒き波が朱鷺に跳ね返されたのだ。
ある将機は空高く舞い上がったかと思うと、そのまま大地に轟音と共に落ちた。
また、ある将機は上下に分たれ、その場に崩れる。
力ある者が駆る将機なれば数合打ち合うも、結果は先と同じであった。
黒波が朱鷺を中心に左右に分たれた。
だが、それが再び交わる事は無い。
白虹の後に続く将機が、それを許さないからだ。
それもまた、白く輝く将機。
白虹との違いと言えば、将機の頭部を彩る輝きの差異だけに見える。
『はっはっはっ! 遅いぞ、祖茂! それにしても戦さは血が滾る! お主もそうでは無いか!』
『孫堅様! 大将は後ろに控えて下されと、何度申せば!』
『はっはっはっ!』
『笑って誤魔化すのは、もう止めて下され!』
『荊州刺史の王叡と言い、此度の南陽郡太守・張咨といい。張咨など大人しく、この孫堅に兵糧を差し出せば良いものを。のう、祖……突貫!!!』
白虹が黒き波間に飛び込んだ。
まるで川鵜の様に。
『せめて我が名を最後まで口にしてから、行って下され! っと黄蓋!』
『如何した、祖茂!』
『後は貴様に任せた! 突貫!!』
『おい、待てコラ……って、もう行ってるし。チッ、仕方がねぇなあ。おい、韓当!』
『へ、へい』応じた将機乗りの声に力は無かった。『あっしで良ければ……』
『突貫!』
孫堅の率し軍は瞬く間に相手方の陣を貫き、この後城を攻め落とした。