#039 帰る道が無かった
南宮と北宮を繋ぐ複道、そこに三名の男と、一匹の巨大な赤犬が並び立っていた。
董卓、牛輔、呂布、それにチベタン・マスティフの火山がだ。
洛陽に残る皇上劉協に対して、別れの挨拶を告げに行く為に。
因みにだが、董卓の実弟である董旻は既に長安入りしている。
涼州までの旅路の手配を先にしていた。
複道を行きながら、董卓が口を開いた。
「毛利は旅の途中、宦官李黒らに襲われたらしい」
前のみに向けられた顔の、その口元は何処か楽しげである。
「なんですと!? と、董卓様! で、では、毛利や劉弁様は……」
逆に、牛輔は悲痛な声を発した。
呂布に至っては「あの少年の一行が襲われて無事である筈が無い」と、顔を青くしている。
「安心せい。無事だ。逆に追い払い、穎川入りを果たしたらしい」
安堵する牛輔らに対し、董卓は更に言葉を続ける。
「毛利は宦官李黒と今一人が操る将機の、都合二機に襲われるも、逆に自ら将機を出し、打ち倒した」
「なんと! 俄かには信じられませぬ!」
「儂もそう考えたが、劉弁様と荀彧の署名が添えてあった故にな」
毛利の、何と言う信用の低さよ。
「しかし、初陣で二機の将機を撃破となると……董卓様」
「武官であらば、最低でも部曲将として迎えられよう」
部曲将、正式な官名は軍候である。
官品は七、そこそこの高級士官と言えた。
ちなみにだが、現代の軍階級で置き換えるなら、中佐だろうか。
「毛利が千もの兵を指揮する姿が思い浮かびませんが……」
「うむ。伍長が精一杯であろうな」
伍長、文字通り五名のみを指揮する。
「して、宦官の李黒は?」
牛輔が肝心な事を問うた。
「少なくとも洛陽には戻っておらぬ。死んだか、賊に拾われたか。いずれにしろ、今後は彼の者の名で頭を悩ませる事はあるまい」
「ですが、李儒が裏で糸を引いてたとか」
「毛利が李黒の口から聞いただけでは罰せられぬ。その毛利も、表向きは既に死んだ身故にな。それに……」
「それに?」
「官吏共による、離間の計やも知れぬ。李儒めは儂の身を気遣い、清流派の者らには中々手厳しい」
加えて、涼州軍の人材難、と言う問題もあった。
が、一番の理由は、董卓が自身を頼る者に対してはすこぶる甘いからである。
「その話はしまいだ。毛利が無事、穎川入りしたのだ」
「はい。次は我らの番ですな、董卓様!」
「うむ。準備は滞りないであろうな?」
「準備万端! 整いましてございます!」
「しかし、涼州に五体満足で帰れる日が来ようとはな」
「はい。兵ども咽び泣き、喜んでおります」
牛輔の言葉に、董卓は満足げに頷いた。
その顔に、今や疲労の色はない。
逆に、晴れ晴れとしていた。
洛陽を去ると決した途端、名家に連なる官吏らが悉く協力的になったからだ。
「呂布、御主ら并州勢は如何か?」
「ええ、こちらも問題ありません。後は火山殿にお告げを頂いたお陰か、腹の大きくなった妻と娘と兵を率いてゆるりと参るだけです」
そう答えた呂布の顔は随分と朗らかである。
新たな子と共に帰郷する、その事実が彼の心の平穏に寄与しているらしい。
複道を出ると直ぐに、
「董卓!」
少年らしい高い声が響いた。
「おお、皇上様!」
劉協だ。
「何も、この様な場所に!」
一月の寒さの中、健気にも外で董卓らを待っていたらしい。
お供に慮植と荀攸だけを引き連れている。
「先日お身体を崩したばかりですのに。お寒くはありませぬか?」
二週間程前から、劉協は体を崩していた。
何前皇太后と唐姫が中心となり看病をしたからなのか、やがては快癒するも、これは今までにない事であったので、董卓は随分と気を揉んでいたのだ。
「何、今日は幾分温かく感じておる。腹も痛まぬ。故に外にまで足を運んだのだ」
「左様でございましたか」
董卓は皇上の顔が上気し、実に壮健な様子に目を細めた。
「いよいよ明日か」
劉協が言った。
「はい。明日、先ずは長安を目指し、洛陽を離れます」
董卓が答えた。
まるで今が平和な時代であるかの様に、穏やかな空気が広がる。
ところがだ、何故か火山が突然「わふぅ?」と首を傾げながら、劉協の周りをぐるぐる回り始めた。
何やら危険を察知したかの様に。
「こ、これ火山!」
「ああ、構わぬ、構わぬ。近頃良く炊いた香の所為であろう。それに、朕はこれでも犬が大好きでな! 御主の火山であれば尚更よ!」劉協は董卓に言うと、火山と向かい合った「そう警戒するでない、火山や。毛利から御主の話は良く良く聞いている。それに、もう会えぬかも知れぬのだ。この劉協が名残惜しくはないのか?」
劉協はカラカラと笑い声を上げた。
実に楽しげである。
この直後、地獄の釜が開くともつゆ知らずに。
「お、おい、火山の奴。流石にあれは不敬じゃねぇか?」
牛輔が心配する程、火山は劉協にじゃれつき始めた。
いや、匂いを頻りに確かめ始めたのだ。
やがて、その時は来た。
「え、ええ!? 火山! やっ、流石にそこは……」
全てが遅かった。
火山は劉協の尻に鼻先を何度も突っ込み、深く嗅ぎ始めていたからだ。
——嫌な予感
三人の、歴史に名を残すであろう将らが、此の世の終わりの如き顔をしている。
董卓は酷く慌てた様子で、「それだけは止めてくれ!」と自身の愛犬に手を伸ばしていた。
しかし、時既に遅し。
火山は「へっ、へっ、へっ」と一仕事やり遂げた顔を男達に向けていたからだ。
牛輔は本能的に耳を塞いだ。
その直後、
「ウォ、ウォ、ウォオオオオオオオオウォオオオオオウォオオーーーーン!」
火山は大きく、大きく遠吠えた。
董卓の体がピタリと止まる。
牛輔は耳を塞いだ意味が無かった事を知った。
そして、呂布。
彼に至っては、
「劉協様の尻を嗅いだ後に遠吠え? 確か、貂蝉の時も同じ事を……いや、しかしあれは………………ま、まさか、劉協様も女子……でしょうか?」
決して言ってはならぬ言葉を口にするのであった。
しかも、人に尋ねる声の大きさでだ。
幸いにして、董卓は答えなかった。
ただし、劉協はガクガク震えている。
見ようによっては、手を伸ばした董卓を前にして、恐れ慄いているかの様に。
荀攸だけが、一人置いてきぼりを食っていた。
劉協の窮状を見かねたのが、
「皇上……いやー、ここは随分と冷えまするな。そろそろ中へ……」
滝の如き汗を掻いた慮植である。
彼は劉協に救いの手を差し出そうとした。
だが、「いやっ」と女の様に振り払われる。
吹き出た汗のせいではないだろう。
しかしそれが、董卓の意を決しさせた。
「劉協様、真にございまするか?」
敢えて言葉にはしない。
この数ヶ月、同様の問題で日々頭を悩ませていたからだ。
劉協の答えは——
「ごめん……なさ……い」
「何故……でしょう?」
劉協は、今にも死にそうな顔した、つい先日までと同じ顔色を浮かべている董卓の問いをはぐらかす事は出来なかった。
「言え……なかったの。先ずは、お姉様から、と。それに……」
「それに?」
董卓が地獄の底から唸る様に問う。
顔に青筋が幾つも浮かび上がっていた。
「まだ時間があると……朕はまだ十にも満た……ない……から。その……間に……お……姉様が……お、男の子を……」
声が尻すぼみになる。
その逆に、董卓の声が指数関数的に大きくなるのであった。
「言え……なかった。そう、言えなかったのですか。我らが、あれ程! 日夜命を削り!! それも全て、漢室の為をと思えばこそ、だと言うのに!!! ウォオオオオオオー!!!!」
董卓が叫んだ途端、青筋の一本破れる。
そこから、赤い物が勢い良く飛び出た。
劉協は思わず、
「ヒィィッ……」
首を竦めた。
青筋の破れた箇所から赤く細い糸が弧を描き、地面に小さな血だまりを作り始めている。
次第に勢いが弱まり、顔に垂れ始めた鮮血。
顔を赤く染めた山の如き男は、突如路肩の石ころの如く身を小さく丸め、
「儂は約束したのだぞ! 帰ると! 皆に国許に帰ると! それが、帰る筈が! ああ、何と言うことだ! とうの昔に、それこそ洛陽入りしたその時から、帰る道は無かった、と言うのか!?」
伏した先の地を叩き始めた。
何度も、何度も。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も……
叩きつける拳からも、血が溢れ出ていた。
「と、董卓様! お気を確かに!」
牛輔が悲痛な声を上げる。
何も知らぬ、偶々通り掛かった女官が眉を顰めた。
それを目にして「拙い!」と思ったのか、火山が隠すように覆いかぶさった。
ハッとなっていた呂布が、火山の行動を目にして正気に戻るや否や、北宮の門兵を呼んだ。
「盾だ! 盾をあるだけ持って来なさい!」
董卓の、露わにするには危険な姿を盾で隠させる様にと。
だが、それは遅かった。
一部始終を陰から見守っていた者がいたからだ。
その者は、
「劉弁様の身辺を探る内にもしやと思いましたが。やはり、身共の思った通りか。なれば……さぁ、董卓様。劉協様の秘密を守り通す為にも洛陽を燃やし尽くし、長安に遷都致しましょう。そこで、今度こそ董卓様の王国を築くのです」
と、実に楽しげに笑っていた。
◇
車が道を東から西へと、列を成して向かっている。
いや、車だけではなかった。
列の後ろを、夥しい数の人が続いていた。
彼らの瞳は、輝きを失っている。
一部の者の衣服は、煤けてすらいた。
まるで流民である。
それら車と人からなる行列の四方を、涼州と并州の兵が囲う様にいた。
決して、守る為ではないのは、彼らが手にする矛の向ける先により明らかである。
その車列の中には、一際豪奢な車があった。
皇帝を称する者だけが乗れる、車駕、である。
当然ながら、尊い人が乗車しているらしく、その警護は不必要な程に厚い。
密かに中を覗いてみれば、確かにその通り。
皇上劉協が居た。
さめざめと泣きながら。
同乗する何前皇太后の胸に顔を押し当て、たまに出る泣き声を殺すかの様に。
そして更に一人。
立派な体躯をした男も居たのだ。
ただし、男の顔に生気は見られない。
瞬き一つする事なく、ただ前をじっと、虚空を凝視し続けている。
やがて、何処からともなく詠われ始めた詩が、行列を覆った。
兵が詠い始め、民もそれに続いたのだ。
幾重にも重なる声は、黄色い大地が震える程に大きくなる。
当然、それは車駕に届く。
随分と物悲しげな詩が、いや、慟哭がだ。
死と共に去る者は日に日に疎くなり
生まれ来る者は日に日に親しくなる
城門を出て辺りを見れば
ただただ丘と墳墓が見えるのみ
墳墓はやがて鋤かれて田畑となり
故人を偲んで植えた松や柏はいつかは倒されて薪となるだろう
柳に悲しげな風が幾度も吹いた
余りに寂しげな音に、私は嘆き悲しむしかない
故郷の地にて土に還りたいとの思いが募るも
いまや帰る道が無かった
何前皇太后は同乗する男に対し、
「妾らの浅慮の所為で……許しは望まぬ。董卓よ、ただただ早う戻り、あの者らを救ってたもれ……」
深い懺悔の念を口で示す。
その瞳からは、涙が垂れ落ちていた。
というわけで、第一章を無事に書き終える事が出来ました。
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それでは、第二章でまたお会いしましょう!