#037 さようなら、劉弁 さようなら、毛利
十二月下旬、毛利の下をとある者が訪れた。
「誰? ああ、李黒小黄門か……」
劉弁の秘密を李儒に漏らした宦官がだ。
以来、毛利は彼と距離を置いていた。
いや、他の宦官もまた、李黒との付き合いを避けているとか。
内容は定かでは無いが、主の秘密を売った裏切り者だと噂して。
その李黒が、何やら嬉々として現れたのだ。
毛利が身構えるのも当然である。
特に今は「立つ鳥跡を濁さず」と言わんばかりに引き継ぎやら何やら様々な予定が重なり、忙しい身であるのだから。
そんな彼を李黒は嘲笑いつつ、言葉を並べた。
「貴様の大切な女、紛い物の皇上であった劉弁が今にも死のうとしているぞ?」
毛利は一瞬、目の前の宦官が何を言っているのか分からなかった。
余りに唐突な内容故に。
だが、次第に頭が理解をし始め……
「……なにっ!? 一体どういう意味だ!」
一息に近寄ったかと思うと李黒の首を絞め上げ、問い質す。
李黒の背が壁に打ち付けられ、その衝撃に息を吐いた。
「クッ! だが、いい気味だ!」
「戯言はいい! 要点だけを話せ!」
「意味の無い問いだ! 貴様は時を無駄に浪費しているぞ? 李儒は今頃、永安宮故にな!」
壁に押し付け、吊り上げられながらも、鼻でせせら笑う李黒。
そんな彼を、知りたい事を知れた以上用は無い、とばかりに毛利は床に打ち捨てる。
「グヘッ……」
そして、毛利は急ぎ永安宮に向かった。
李黒はその背を忌々しげに見送りながら、
「毛利、貴様さえ居なければ!」
と悪態をつくも、悠長にはしていられない、とばかりに立ち上がるのであった。
途中、毛利は
「ここは宮城ぞ、毛利!」
偶然にも董卓と牛輔に出くわした。
毛利は手早く事情を説明する。
その結果、
「何! 件の宦官が、劉弁様を害す為に李儒が向かった、と仄めかしたか! こうしては居れぬ! 儂も向かうぞ!」
董卓と共に劉弁が匿われている永安宮の塔へと急ぐ事に。
牛輔は董卓に素早く何やら命じられ、南宮の奥へと消えた。
毛利と董卓が目指す塔の下に着くと、そこは既に人払されていた。
二人は顔を見合わせ、
「拙いぞこれは……」
「ええ、急ぎましょう、董卓様!」
塔を駆け登った。
やがて、劉弁が匿われている階に至る。
そこで、二人を待ち受けていたのは……
「あぁ、劉弁様! それに、何前皇太后まで!?」
二人の皇族が、部屋の奥にて倒れ伏している姿であった。
いや、よく見ると倒れているのは何前皇太后のみ。
劉弁は倒れた母に覆い被さり、耳元で何やら話し掛けつつ頻りに摩っている。
その胸元ははだけ、透き通る様な白い肌が露わとなっていた。
毛利の声が聞こえたのか、劉弁の手が胸元を隠し、濡れた瞳が声の方へと向けられる。
「毛利! 御母様が!」
劉弁の悲痛な叫び声を受け、
「貴様、何者ぞ!」
と怒声を発したのは董卓であった。
「これは董卓様! ご覧下さい! あの方が申した通り、この者は真の女子でございました!」
李儒ではない、名も知らぬ官吏はそう叫び、手にした短剣で劉弁を指し示す。
その仕草は、
「キサマァアアアアア!」
毛利を怒りで度を失わせた。
「悪漢! 劉弁様と何前皇太后に何した! そして、何をする積りだ!」
「黙れ、小人! 私は董卓様と話している! 口を慎むが良い!」
「なら、俺と喋る様にしてやる!」
そう叫んで、董卓と悪漢の間に割って入った毛利。
両の腕を八の字に開き、手のひらを晒しながら。
「小人、何のつもりか!」
その問いに、毛利は答えなかった。
「毛利、よして!」
劉弁の悲鳴を聞いても、ただジリジリと近付くだけ。
「な、何を考えている!」
毛利の考えがまるで読めない悪漢、焦り、いや恐怖の色を見せ始めた。
だからだろう、手にした短刀の切っ先を劉弁から毛利へと向ける。
「貴様から死にたいのか!」
その刹那、
「俺だって、まだ死にたくない!」
毛利は瞬時に距離を詰めた。
半年近く鎧兜を纏って鍛えられた、足腰のバネを一気に解き放って。
手の甲で悪漢の手を強かに打ち据え、握る短剣を落とす。
その際、悪漢は女々しい悲鳴を上げた。
そんな男の肩に手を置き、強く掴む毛利。
「は、離せ!」
悪漢が圧迫された痛みに身を捩る。
だが、剣や盾を振り回す事で鍛えぬかれた握力が、文官の細い肩を捉えて離さない。
体格差の所為か、苦しむ男の顔は毛利のやや下にあった。
「お前だって、何かを為す前に死にたくはないだろうに!」
直後、勢いよく振り下ろされた毛利の頭。
互いの頭が交錯した。
と同時に、塔を揺らすほどの音が響く。
悪漢は悲鳴を上げる間もなく、白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
緊張が解けた所為か、毛利が盛大に息を吐いた。
かと思えば、毛利の肩が大きく上下している。
その背に、
「ああ、毛利! もう、駄目かと思ったよ!」
劉弁の声が投げ掛けられた。
振り向き、
「ご心配させて申し訳ありません」
と毛利は答え、彼女の傍に近付く。
「良くやった、毛利」董卓の厚い手が、毛利の肩に優しく置かれた「しかし、この官吏だけで成したとは思えぬ。御主はどう見た?」
「はい、衛兵がおりませでした。何者かに人払されたのでしょう」
「確か、ここは并州兵の管轄な筈」
「并州と言えば呂布様。ですが、考えられません」
「儂も同じだ」
するとそこに、
「妾が思うに、并州人である王允であろう」
何前皇太后の声が響く。
「お、御母様!?」
「ああ、生きておられたのですね!」
「確めもせずに死なすでないわ、毛利!」
空気を読める董卓だけが黙っていた。
「時に何前皇太后様、何故に王允が劉弁様を?」
と毛利は問い、
「理由など知らぬ。ただの勘よ」
何前皇太后がしれっと答える。
そのやり取りとは別に、董卓が一人憤慨していた。
「この官吏めは、儂への忠節が厚き者と清流派から推挙受けし者! それ故、目を掛けていたと言うのに!」
「故に利用されたのじゃろう。王允はあれでなかなか強かな官吏故にな」
「しかし、なればこそ、第二第三の刺客を放ってくるやも知れませぬ」
「うむ、その通りぞ、董卓。一刻も早く、ここを離れるが良策じゃ」
不思議と、誰一人として「ここを離れる?」と疑問に思っていない様子。
その理由は直ぐに知れた。
「董卓様! 命じられた通り、急ぎ準備して参りましたが、件の御者を探すに手間取り遅れてしまいました!」
牛輔が荷を積んだ馬車を伴い、塔の下に現れたからだ。
御者席には毛利の見慣れた人物が腰掛けている。
「毛利」
董卓が毛利の名を、名残惜しそうに口にした。
「董卓様……」
毛利もまた、その思いに答えた。
董卓の目が微かに潤んでいる。
「加えて、劉弁様」
「うん!」
「準備万端とは参りませなんだが、後は手筈通りに」
「はい!」
毛利と劉弁、二人の若人が声を揃え、答えた。
そんな彼らの下に、何前皇太后泣きながら近寄り、
「さようなら劉弁、さようなら毛利。二人とも、達者でな」
細い腕を伸ばし、二人を抱き締めた。
「御母様、僕達は今日この日限りで死ぬんだよ?」
「死を茶化すでない、この馬鹿娘が」
母親に窘められる娘。
だが娘は、
「うふふ、御母様が初めて娘って呼んでくれた!」
喜んでいる。
何前皇太后がますます涙を零す。
「娘よ」
「なあに、御母様」
「長きに亘り、不憫な思いをさせてすまぬ」
「こちらこそ、御母様を一人残して先立つ不孝をお許しください」
「旅立つ、であろう」
「意味は一緒じゃないかな?」
「いずれにせよ、劉協と唐姫はこちらに残るのじゃ。妾は一人では無いわい」
「そうだったね。劉協と唐姫の事よろしくね」
「うむ」何前皇太后は一つ頷いた後、毛利に顔を向けた「毛利、御主にこれを授ける」
そう言って、彼女が取り出したのは巾着袋であった。
「これは?」
毛利は首を傾げた。
「手向けの宝玉だ。今は亡き兄が掻き集めてた輝石よな。御主は将機を扱えぬそうじゃが、売れば一財産を築けよう。大切に使うが良い」
「あ、ありがとうございます!」
毛利はと心から喜んだ、
(これで食いっぱぐれないで済む!)
と。
そう、もうお判りだとは思うが、毛利と劉弁は死出の旅に出るのではなく、公には死んだ事にして洛陽を離れるのであった。
二人にとって、洛陽は死地。
ならば、何処かに移り住めば良い。
死を偽装し公表すれば、劉弁の秘密が暴かれる恐れもなくなる。
毛利が示した、三方皆得な策であった。
そんな一部始終を陰から覗く姿が一つ。
「董卓様は劉弁の逃亡を黙認すると言う事か? だが、それは予測されていた事。この李黒、見逃したりはしない!」
李黒は塔を静かに駆け下り、牛輔に見つからぬよう宮城へと足を向けた。
毛利らを乗せて洛陽を発った馬車。
程々の速度で東に向けて進んでいた。
運ぶ荷は僅か。
それに加えて人が四人乗るばかりである。
一人は馬車を扱う御者。
二人は無論、毛利と劉弁である。
では、残り一人は誰かと言うと……
「荀彧様、急な出立となり申し訳ありません」
であった。
荀彧はとんでも無いと、首を横に振る。
「そうなる事も見越して、準備を整えていましたから」
「さすが、毛利の子房だね」
「劉弁様……」
荀彧がなんとも言えない、悔しそうな顔を浮かべた。
「でも、荀彧が一緒に行く事もないのに」
「せめてもの罪滅ぼし、と思いまして」
「そうなんだね」
劉弁は意味もわからぬまま、同意した。
「時に毛利光禄大夫、向かう先は豫州は穎川郡で良いのだな?」
光禄大夫とは毛利に与えられた新たな官位である。
官品は五。
定員も、確たる仕事も定められておらず、古来より朝廷により各地に派遣される役目を負う者が任じられていた。
洛陽を離れて余生を過ごす毛利には丁度良い官職であった為、与えられたのだ。
(名は同じの、全くの別人として戸籍や官籍が簡単に作られるとか、流石は三国時代。現代の日本じゃ考えられないよな)
ちなみにだが、馬車を共にする荀彧は彼本人として、亢父の県令に任じられている。
「ええ、そこでお願いします」
と答えながら、毛利は劉弁に視線を移す。
意味を察した劉弁が後を継いだ。
「唐姫のお父上が、暫くの間僕達を匿ってくれるんだ」
そこが二人にとって安住の地に成れば良い、荀彧は心からそう願った。
だがそれは、叶わない。
「荀彧様! 洛陽からと思われる将機が参ります!」
荀家の御者が、異変を察知したのだ。
新たな生活に胸を弾ませる、そんな旅が始まったばかりだと言うのにだ。
将機は瞬く間に馬車に追い付いた。
(薄灰色掛かった、特徴を敢えて消したかの様な矛持ちの将機……)
馬車の窓から、迫る将機を窺う毛利。
背後では、
「毛利……」
劉弁が心細げな声を漏らしている。
「劉弁様、こちらへ!」
毛利が怯える女性を引き寄せ、腕に抱いた。
荀彧が、
「凡将機……身元を隠す意味があると言う訳ですね!」
と警戒の意を込めて叫んだ。
その通りだ、と言わんばかりに、
『これが荀家の車に相違無いのだな?』
いまや馬車に並走する将機が、毛利らからは見えぬ誰かに尋ねたかと思うと、
『分かった。主命に従い、皆殺しにする』
襲い掛かったのである。