#035 会えただけでも僕は嬉しい
十一月の下旬。
太陽が地平線の先からを現れるも、直ぐに落ちてしまう時節。
そんな頃合いの、貴重な昼下がり。
劉弁が物憂げに佇む部屋に唐姫が人を伴い現れた。
「毛利かい?」
「遅くなって申し訳ありません、劉弁様」
連れ人は毛利黄門。
ほぼ一月ぶりの訪問であった。
「良いんだ。もう来てくれないと思ってたから、こうして会えただけでも僕は嬉しい」
「過分なお言葉を頂戴し、感謝に堪えません」
「また、官吏みたいな事を言って」
劉弁は楽しげに笑った。
いや、毛利が部屋に足を踏み入れた時から、何処か楽しそうにしている。
「漢朝を支える役人には違いありません」
「そうだけど……」と口にした直後、劉弁はハッと気づいた「目の下に酷い隈。良く眠れてないのかい?」
「はい。少々厄介な問題が御座いましたので」
「それって、僕の秘密の事……だよね?」
二人の間に、微妙な空気が覆う。
それを振り払い、破ったのは、
「んん!」
唐姫が喉を鳴らした音であった。
「何、唐姫?」
「……何でもありません。ただ、久しぶりに毛利黄門が参られたのですよ?」
「そ、そうだったね」と言った後、劉弁は毛利に面と向かい「……………………それにしても、本当に久しぶりだね」
唐姫のついた、大きな溜息が響いた。
「ええ。このところ例の件に対処する為、董卓様や牛輔様、それに司馬防様、司馬朗様、荀彧様、荀攸様と忙しくしていましたから」
「そ、そうだよね。僕の事で、本当にごめん」
「大した事ではありませんよ、とは流石に申せませんが、皆で力を合わせ何とか致します。ご安心下さい」
「あ、ありがとう……」
再び沈黙の帳が降りる。
しかも今回に限って、唐姫のフォローは無かった。
ただ黙り、見つめ合い続ける劉弁と毛利。
とはいえ、永遠にそれを続ける訳にもいかない。
誰かが破るしかない。
それを為したのは、
「毛利、僕は君を誰よりも想っている」
劉弁の突拍子もない告白であった。
それに対する毛利の答えは、
「フッ……」
いや、明確な答えですらなかった。
顔に浮かぶ表情を敢えて言葉にするなら、「この皇族は空気も読まず、また面倒な事を言う」だろうか。
正に不敬。
しかしある意味、この現状を生んだ中心人物に対して抱く思いとしては、順当とも言える。
その代わりに、今一人の者が騒ぎ始めた。
「な、なんだその態度は! 劉弁様が秘した思いを告げたのだぞ! 有り難そうに押し戴くなりせぬか! 受け止めぬか!」
「いや、そう仰られても……」
毛利は毛利で、先日の何前皇太后が明らかにした劉弁の性別以降、様々な事を考えていた。
何故、劉弁は毛利を大事にするのか。
(命の恩人だから、それは分かる。だが、黄門はやり過ぎだろう。皆も言ってるし)
皆とは、牛輔、それに司馬朗、荀彧、荀攸の面々だ。
普通は金なり宝玉なりを渡してお終いらしい。
だが、劉弁が女であるならば話は別。
(それは恋。ああ、そうだろうとも。だが、二十一世紀に生きていた俺には分かる。劉弁様が俺に抱く気持ちの真の正体は……)
毛利は居住まいを正した。
「劉弁様。その気持ちは偽りにございます」
「え、偽物?」
キョトンとする劉弁。
彼女の代わりに、妻の唐姫が代弁する。
「ば、馬鹿な事を申すな、毛利! 人を慕う思いに嘘も誠もない!」
「いえ、あるのです。特に劉弁様の場合は明白に」
「まだ申すか!」
「その名も〝吊り橋効果〟!」
不安や恐怖を感じた場所で出会った相手に対して、強烈な恋愛感情を抱く効果の事である。
それを知った世の男性が、こぞってホラー映画やジェットコースターに女性を誘いだしたとか。
逆にこの逸話を利用して、女性が遊興費を浮かせたとか。
毛利は嘗て教えられた知識に照らし合わせ、冷静に分析したのだ。
(そもそも、俺がこんな美少女に好かれる筈がないのだから。中学の担任で且つ現役の魔法使い、敬愛すべき恩師から学べてなければ、嬉しさのあまり舞い上がっていたところだ)
雑学とは言え、現代知識とはかくも恐ろしい代物なのである。
劉弁が胸に手を添えながら「そんな筈は……」と考えに耽る。
毛利の声がそれを止めた。
「そこで劉弁様、お願いしたき儀がございます」
「え? 今のこのくだりで? 毛利の言った事をよくよく考えてみたいのだけど」
「それはお一人の時にでもお出来になりますでしょう? 劉弁様と私で行う、漢室存続に関する事なのです」
「僕と毛利で漢室存続……」劉弁はドキッとした後、核心を問い質す「……それは、僕が女である事に関係するのかな?」
「勿論です」
「僕と君の……二人で?」
「及ばずながらお助けしたい次第」
女が一人、黄色い悲鳴を上げた。
「き、きましたね、劉弁様!」
唐姫だ
一人突然盛り上がっている。
彼女は心ここに在らずな劉弁の耳元で何事かを囁いた。
既に赤い劉弁の顔が、より朱色に染まった。
「か、構わないよ。は、初めてだけど……。僕にはもともと、その気があった訳だし」
「勿論、私も初めてです」
「本当に? でも、嘘でも、毛利が最初で最後の相手なら、僕はとても嬉しい……」
後半のか細く聞き取れがたい言葉を無視し、毛利は一気に口にした。
「ですから劉弁様、共に死んで貰えませんか?」
「………………………………え?」
束の間、時が止まったと思えるほど、誰も動かなかった。
やがて、毛利がゆるりと語り始める。
「劉弁様」
「な、何かな?」
「私は劉弁様が秘密を打ち明けられた以降、よくよく考えてみたのです。それも、これまでの人生でこれ以上は無い程に」
毛利はここで言葉を切った。
これから発する言葉が、如何に大切かを知らしめる為にだ。
「私達二人は共にこの宮城における異物、居てはならない存在なのではないか、と」
劉弁と唐姫は一言も発せなかった。
「私は、劉弁様のある意味寵愛を一心に受け、異例の抜擢を受けた官吏です。誰もが羨む程の。それ故に、誰もが私を妬みました」
毛利は腕を捲る。
短い期間で鍛え抜かれた腕。
ただそこには、夥しい数の打撲痕が残っていた。
「お見せしませんが、衣服で隠せる場所はおおよそこの通りなのです」
劉弁の顔から彩が徐々に失われていく。
残るは青と白のみ、であった。
「ああ、別に恨んではおりません」
「……ほ、本当に?」
劉弁は絞り出すように声を発した。
「今もこうして生きていられるのは、間違いなく劉弁様のお陰です」
それは自信を持ってお答え致しましょう、と毛利は微笑んだ。
「……そう」
「ですが、そろそろ限界なのです。私が生きてここにいる、それこそが罪のようで」
「そ、そんな……」
「ですがそれは、劉弁様も同じ」
「!?」
劉弁は目を見開いた。
「毛利、貴様!」
今一人の、唐姫は怒色に彩られていた。
毛利は彼女に向け、スッ手を伸ばす。
それと時同じくして、劉弁が唐姫の袖を引いていた。
唐姫はその場でたたらを踏んだ。
「はっきり申しましょう。劉弁様、貴女様は生きている、それ自体が罪だ」
「毛利! おのれは! おのれはぁああああ!」
唐姫が足を踏み出そうとするも、劉弁が彼女の腕を抑えていたので叶わなかった。
その代わりに、あらん限りの声を発した。
「女子が! 男と偽り続ける事がどれほどの苦労を伴い、どれほど心を痛め続けたと思っている!」
「私には勿論、分かりかねます」
「毛利ィィィイイイイイイ!」
「でも、死に逃げたいと思い詰める程度には、お辛かったのでしょう」
劉弁はコクリと頷き返す。
そんな彼女に対し、毛利は静かに近づいた。
「失礼しても?」
「う、うん……」
その手を取った。
「あっ……」
小さな声を漏らす劉弁。
その瞳を見つめながら、毛利は囁いた。
「もう、お終いにしましょう」
そして……
「私と共に、死んで下さい」
と。
彼女の返事は、
「……はい」
貴方が一緒なら、と。
悲しくも、嬉しげな笑顔で。
儚いと言うには、あまりに美しすぎた。