#033 漢王朝滅亡は不可避か?
小黄門李黒に劉弁の秘密が漏れた。
とは露知らず、毛利らの会話はまだまだ進む。
「お、驚きました……。まさか、こんな事が本当に有り得るとは……」
毛利は驚きの余り思考が停止するも、思いだけは声にして絞り出した。
そんな彼を知ってか知らでか、
「毛利には、僕の秘密を知って貰いたかったんだ」
と劉弁は上目遣いで口にする。
青少年の十人中九人が虜になるであろう、その仕草。
だが、毛利はそれどころではなかった。
(儒教・儒学が幅を効かせる古代中国において、女性の地位は余りにも低い。時には貴人の娘ですら物同然の扱いをされるとか。なのに皇帝の娘が皇上を演じ、いや、この場合は詐称していた事になるのか? ……なお、悪いわ! 皇上劉弁の名で発せられた詔とかどうなってしまうのか!? 董卓様の司空は? 太尉は? 相国は? 俺の黄門は? その他の多くの官職も、勅令も。偽りの皇上であった以上、無効とされる可能性がなくない? 即ち、世が益々乱れる事に。 それに……それにそれにそれに! 丁原様の死が全くの無駄に!)
毛利は手で顔を覆った。
「驚かせてすまぬ。じゃが、この様な場を設けたのは御主にしか出来ぬ頼みが……」
何前皇太后の言葉が、毛利の耳には半分も届いてはいない。
(……こんな事、一体誰に相談出来るんだ? ……もしかして、丁原様が言っていた「あの御方もまた、儂と同じよ。身に不相応な役目を背負わされた、な」とはこの事か? だとしても、そもそも……)
「……なんで男のフリを?」
皇族に対し直接問い掛けるにしては余りな内容、そして言葉遣い。
本来ならば決して許されぬ、蛮行、であった。
ただし、この場では黙認される。
それだけ、何前皇太后側にも余裕が無かったのだ。
「……全ては妾が愚か故に。中常侍共に何一族の栄達の為にも男の子として育てましょう、と囁かれてな。一族の為とは言うが、とどのつまり我が身の可愛さの為と言えよう。男の子を産めば妾は皇太后。皇上からのお情けもより一層頂けるでな」
「つまり……保身?」
毛利のストレートな物言いに、流石の何前皇太后も言葉に詰まる。
「……左様、妾は保身の余り、白い物を黒と偽ったのじゃ。その偽りを、愚かな秘密を握られた我らは哀れにも宦官の傀儡と成り果てた」
中常侍は、その弱みを巧みに利用した。
表向きは雑役夫の如く頭を垂れながら、俯き隠れた顔に嘲笑を浮かべながら。
そう、有り体に言えば何前皇太后を通して好き放題したのだ。
ただ、それだけならまだしも良かった。
問題は秘密を知り得ていない宦官までもが増長に増長を重ねた点だ。
その結果、宮中は隅々まで腐敗し、それはやがて洛陽の隅々に蔓延し、更には中国全土にまで広がった。
ガン細胞が血の流れに乗り、体の隅々にまで転移するかの如く。
その有様に心ある官吏は憂い、その中でも力ある者は自らの命を賭してでも病の元を断とうと決意した。
そうして起きたのが何進大将軍を神輿として担いだ袁紹らによる中常侍暗殺計画であり、そのカウンターとして起きた中常侍による何進大将軍謀殺事件であり、担ぐ神輿(何進大将軍)を壊され怒り狂った袁紹らによる宦官大虐殺なのであった。
何前皇太后は袁紹ら逆賊にまで秘密を知られる事を恐れ、最も昵懇の間柄であった宦官に劉弁を託した。
もしもの時は、決して秘密が露見しない様にとまで厳命して。
「証拠隠滅を命じたのですか? 実の娘を殺せ、と?」
「心構えを説いたのみ。されど、漢室の正統性を守る為には止むを得なんだ」
「正統性って……」
毛利は劉弁に視線をチラリと移す。
「劉弁様が余りに不憫ではないですか!」
「え、そうでも無いよ?」
当の本人は即座に否定した。
「ど、どうして!?」
「ほとほと疲れてたから。だって、実の父親にすら僕は……」
劉弁は全てを語る事は出来なかった。
突如込み上げた感情の所為で。
それ程、彼女は物心が付いてからずっと苦しんでいたのだ。
(何だよこれは!)
そして、話は佳境に差し掛かる。
いよいよ慮植に捕まり劉弁の秘密が暴かれんとする、正にその瞬間毛利と出会った。
彼の手によって死地を逃れた劉弁はこうして秘密を暴かれる事なく、生き永らえたのであった。
「尤も、董卓には秘密を知られたがの」
「え!? 董卓様が知ってる?」
「左様。されど、それはそれで良かった」
「(良かった!?)な、何がですか?」
「慮植は儒教の大家。女子が皇上を詐称していたなど、とてもでは無いが受け入れぬ。一方の董卓は儒教などよりも漢室の存続に重きを置いておるからのう」
「……(なんだよそれ)」
「それにじゃ、毛利黄門、御主の利にかなったであろう?」
「はい?」
「彼の者は頗る面倒見が良い。他方袁紹共のいずれかに捕まってみよ。庶人如きの命脈は容易く絶たれていたのう」
「そう……かも知れませんね」
史実における董卓の最期と、曹操の栄達を知る者として毛利は容易く頷けなかった。
「しかし、この平穏も後わずか。袁紹が中心となって兵を集め、いずれは洛陽に迫る。董卓は迎え撃つだろうが、些か厳しいのではないか? となれば、袁紹が実権を握る。さすれば、秘密は遠くないうちに暴かれ、我らは恥辱に塗れた死を迎えるに相違あるまい」
(それどころか、史実では漢室の権威は地に堕ち、新たな王朝を興さんとする群雄らによる戦乱の幕が開けるのだ。……とは言え)
何前皇太后の語る経過説明に、毛利の未だ大人になりきらない幼き心に疑問が湧き上がる。
「何故、劉弁様の秘密を私如きに?」
「この劉弁を憐めとは言わぬ。残されし束の間、これまで以上に会う様に努めて呉ぬか?」
「残されし束の間?」
「劉弁の秘密を公に出来ぬ理由、語った筈じゃが?」
つまり、劉弁の余命は後僅か故にそれ迄の間遺漏なく持て成せ、という事である。
漢室に連なる者が臣下に対する要望としては正しい。
それどころか、「皇室直々に信を得られた」と普通ならば感極まり咽び泣いたかもしれない。
だが、この毛利は違った。
今からおよそ二千年後の世界、しかも日本で生まれ育た少年なのだから。
「……一つお尋ねしたい」
「何じゃ?」
「もし袁紹らを退けたなら、董卓様にどう報いるつもりなのでしょうか?」
毛利の問いには、
「一族を高位の官職に就かす事を約束しよう。朕直々に声を掛け、官位を与えらば皆泣いて喜ぶ」
と、劉協がさも当然とばかりに答えた。
それに何前皇太后が続く。
「産みの親ないしは娘を公主(皇上の娘。化粧領に加え、家令と丞が1人ずつ付く)同然に遇してやろうぞ」
「(ああ、そう言う事なのか……)ですがそれでは、董卓様とその一族がご政道を壟断した、と民は口にしますよ?」
「何故下々が関係する? そも、民草が何と言おうが関係あるまいて」
漢室のこの浅慮が洛陽失陥後に辿る董卓の命運を、後世に伝わる悪評を決めたのだ。
そう察した毛利は思わず強い義憤を覚えた。
ともすれば、董卓もまた彼の命の恩人故に。
更には、今や強固な後ろ盾ですらある。
だからだろう、口にする言葉が意外な程勢いづいていた。
「黄巾賊による乱を遥かに上回る、未曾有の戦禍が何十年にも亘って起きると知ってもでしょうか?」
「何を馬鹿な事を。その様な戦が……」
何前皇太后が呆れ声を発するも、毛利は途中でそれを遮る。
「馬鹿な事? 洛陽が炎上し、焼け野原となっても同じ事が言えますでしょうか?」
「毛利黄門、戯言を申すでない」
と今度は劉協が毛利を嗜めた。
「戯言だと思いますか? 今や漢室の力と権威は衰え、このままでは新たな王朝が興るのは間違いないのですよ?」
「よ、世迷言を!」
劉弁以外の二人が声を揃えた。
「世迷言ではありません! 全部貴方達が保身を優先した結果だ!」
「ええい、暗い夢物語はもう良い! 毛利、妾の先の問いに答えよ! 劉弁に会うよう努めて貰えぬのか、否か!?」
「努めましょう! ですが、今はその時に非ず! 失礼致します!」
毛利、部屋を後にする。
「あっ!」
その後ろ姿に手を伸ばす者がいた。
(どうして? どうしてなの毛利? 君も僕が女だから不要だと言うの? もう、僕には時間が残されていないと言うのに……)
劉弁の瞳からは涙が溢れていた。
毛利は南宮の片隅で、一人思い悩んでいた。
(劉弁が女の子だったとか、誰に相談すりゃ良いんだよ……)
そもそも、毛利の思い付いた「漢王朝延命計画」は次の二通りであった。
その一、史実通りに虎牢関の戦いで逆賊に打ち負かされ、洛陽を失った場合。
長安へ遷都。
相国董卓の元一致団結し、彼の暗殺を防ぐ。
(確か、仲違いした呂布が董卓を暗殺した筈だしな)
そうすれば、少なくとも董卓が生きている間は漢王朝の滅亡は避けられると思われる。
その二、史実に反し、虎牢関の戦いで逆賊を打ち負かし、洛陽を失わなかった場合。
当然、長安への遷都もなし。
相国董卓の元一致団結し、逆賊を各個撃破。
漢朝は永遠なり!
つまり、どちらも呂布を含めた董卓一派の強固な団結が肝なのだ。
だからこそ、毛利はそうなる様にと陰日向に励んでいた。
(胡軫や李傕の目が呂布に向かぬ様、積極的に扱きを受けたりして。お陰で華雄とは随分と親しくなった)
現代にて生まれ育った十七歳の少年にしては立派、素晴らしい行動力だと言えよう。
計略としてはまぁ……その、なんだ……頑張ったな。
ところがだ、劉弁が女である事で全てが覆った。
偽皇帝の勅令など、なかった事にされる可能性が高いからだ。
(つまり、董卓の司空就任以前に巻き戻される事に……)
反董卓を掲げる袁紹らは俄然勢いづくだろう。
故に、劉弁が女であった事など、絶対に公表出来ないのだ。
(なら如何すれば良い? 一番良いのは秘密が明るみになる前に劉弁が死……)
刹那、毛利は自らの考えに愕然とした。
その死を望んだ劉弁もまた、命の恩人なのだから。
「これは、如何転んでも大戦勃発からの漢王朝滅亡は不可避か?」
毛利は人目を憚る事無く、頭を抱えた。
「いや、まだ手は残されている筈。ただ、俺には致命的な問題、(この時代や宮城における)一般常識が皆無な点が……」
刹那、毛利に声が掛けられる。
「おや、毛利黄門ではありませんか」
声の主は、
「これはこれは我が子房」
荀彧であった。
彼はあからさまに顔を顰めた。
「毛利黄門、忠告しましょう」
「はい?」
「我が子房なる枕詞、口にするのを辞めた方が宜しい」
「え?」
「そもそも、如何なるつもりで口にしているのですか? 聞く人が聞けば、反乱を示唆していると捉えかねない言葉なのですよ」
「そ、そうなのですか!? 私はただ、荀彧様を〝この世に二人といない天才軍師、最高の知者、官吏の中の官吏〟と評して呼んでいただけなのですが」
「そこまでこの荀彧を……」荀彧は照れ隠しなのか顔を背けつつ「で、どうしたのです、毛利黄門?」
「いえ、ちょっと人にはおいそれと言えぬ大問題が発覚しまして……」
「言ってみなさい。この荀彧、一度受けた恩義を忘れる忘恩の徒ではありません。」
荀彧は嘗て折った左腕を掲げた。
毛利の応急処置により、折れる以前より全く変わらぬ腕を。
この時代の医療技術を鑑みれば、ありえない事であった。
ともすれば折れた部位が曲がったままとなるのだから。
「しかし……」
「しかも! あなたは南宮で賊に襲われた。その際、賊は左腕に酷い傷を負った筈です。違いますか?」
「ち、違いません……」
その事実に、毛利はこれまで敢えて触れなかった。
彼はそれどころでは無かったし、そんな事を信じたくは無かったからだ。
(あの〝荀彧〟が暗殺者の如き真似をしたなんてな)
一方の荀彧はと言うと、大変な恩義を感じていた。
腕が元に戻った事も含めて。
董卓に突き出そうと思えば、いつでも出来たのだから。
だからこそ、荀彧はその恩義を返そうと、悩む毛利に声を掛けたのである。
「あなたの言う、この世に二人といない天才軍師、にその問題は荷が重いとでも言うのですか?」
「でも、事は秘中の秘でして……」
「無論、その秘密も守りましょう。ささ、話してみなさい」
この時、荀彧はこう思っていた。
毛利は黄門侍郎とはいえ、所詮は庶人。
秘中の秘と称する問題とはいえ、大した事はない、と高を括っていたのだ。
ただ、近い将来を見据え、毛利との間にある貸し借りを無くしておきたかったのである。
しかしそれは、この時ばかりは悪手であった。
他方、毛利はと言うと、事が事だけに問題を誰かと共有したかった。
当然、第一候補は秘密を知り得ている董卓である。
だが、彼は上司だ。
それも、遥か高みにいる。
対等な関係で相談など有り得ない。
気安く「劉弁、女だってよ。おっぱいでかそうだし、まいっちゃうよなー」なんて愚痴れないのだ。
できれば、立場の近しい者と秘密を分かちあいたい。
それが自分に恩義を感じる相手ならば尚更であった。
「宜しいのですか? 聞いたら最後、後戻り出来ませんよ?」
「この荀彧、婦人好女の如し、と陰で言われているのは承知しています。女は子を為すが故に他所の男に目移りする痴れ者。時には胸に秘し事を晒してまでも。されど、この荀彧、その様な事は致さぬと我が名にかけて誓いましょうぞ」
「念のために、幾つか確認の問いをしても?」
「構いません」
「漢室と私の命、いずれかを選べといったら何方を取りますか?」
「無論、漢室です」
「漢室と董卓様では?」
「漢室。これらの質問に意味があるのですか?」
「必要なのですよ。……では、最後です。漢室と荀彧様ご自身と一族郎党の命では?」
家とは命よりも大事。
この時代に未だ慣れぬ毛利ですら知る、常識、であった。
荀彧は一瞬答えに詰まる。
「……漢室」
「なぜ? 家族や一族はとても大切な物なのでしょう?」
「漢室なくしては私も、私の家族も立ち行きません。そして名家として名高い我が一族も」
史実では滅びゆく漢室を見捨て、官職を捨て、故郷に帰った荀彧。
当然、この時の彼の頭の中にも、それに至る考えが芽吹いていた。
だが、毛利は一瞬とは言え答えに窮した荀彧を信じた。
(ああ、この人も董卓と同じなのだ)
と感じて。
「そうですか。では人の居ない場所でお話しさせて頂きます」
全てを話し終えた毛利の前には、五体倒置の荀彧が居た。
その顔には「聞くんじゃなかった」と表れている。
だからだろう、毛利が言う「如何したら良いと思います?」に荀彧は直ぐに答えられなかった。
するとそこに、
「守宮令殿、如何した!? 気分が優れぬのか? 私に出来る事があるなら言え。御主とその一族に、この司馬朗と我が一族は並々ならぬ恩義があるからな」
「司馬朗殿。いえ、大丈夫です。ただ……」
「ただ?」
「先ほど頂戴した言葉に救われたと申しますか……」
荀彧には珍しく、ニコリと感情を露わにした。
毛利は毛利で、
(荀彧の名に誓ったの何処いった……)
と呆れるも、
(いや、これこそ天恵と言う奴では?)
内心ホクソ笑んだ。