#032 劉弁の秘密
「劉弁様が私を?」
「大至急と仰せだ。全く、貴様如き能無しに、一体何の用がお有りだと言うのか」
呼び出しに遣わされた小黄門李黒が、意味の無い悪態をつく。
毛利は、
(この宦官は余程俺が気に入らないらしい。知らなかったとは言え、小便臭いと態度で示してしまったのを未だに根に持っているのか……)
と苦笑いするだけに止めた。
毛利と李黒を唐姫ではない、初めて目にする侍女が案内する。
とある部屋の前まで。
彼は李黒と部屋の入り口で別れ、中に足を踏み入れた。
すると、そこに居たのは劉弁……ではなく、妖艶な姿が目の毒になりそうな何前皇太后。
彼女が一人で物憂げに佇んでいたのだ。
(あれ? 部屋を間違えた?)
戸惑う毛利。
何前皇太后はそんな彼に視線を送る事なく、
「間違えてなどおらぬ。はよう妾の前にて座するが良い」
と言った。
「え?(女性である何前皇太后と二人っきりは流石に問題が……)」
「安心せい。この辺りは既に人払いしておる。誰にも見られぬわ」
内心を言い当てられた毛利、彼は恐る恐る勧められた席に座る。
何前皇太后は頃合いを見計らい口を開いた。
「近頃の関東情勢、何処まで耳にしておる?」
予想もしなかった問いに毛利は虚を突かれるも、
「袁紹らが董卓様の評判を可能な限り貶め、偽の勅書まで用いて庶人からの支持を得ようとしています」
何とか答えた。
「何故かは無論、存じておろうな?」
「はい。人を集め、董卓様に対する軍を立ち上げ様としていると思われます。いずれは、数十万の兵馬の群れを率い、この洛陽の前に現れるかと」
毛利の知る史実ではその通りに進んだ。
そして、
(確か孫堅が董卓の軍を破り、燃え尽きた洛陽に入った筈。その洛陽で孫堅は皇帝の玉璽を拾い……)
毛利が思索にふける。
刹那、何前皇太后の声が彼を黙考から引き戻した。
「反董卓軍、いや、逆賊共は洛陽に迫り、何を求めると考えられようか?」
答えに詰まる毛利。
彼はそこまで深く三国志を知り得てなかったのだ。
だが、辛うじて、
「……思うに、董卓様の首でしょうか?」
答えを出した。
何前皇太后は「然に非ず」とばかりに、首を横に振り、
「恐らくは廃立されたばかりの劉弁を、再び皇上に立てるのであろう。董卓の失政に対する象徴としてな」
と話す。
毛利は、成る程、と首肯した。
有り勝ちだと思えたからだ。
しかも、何前皇太后が自ら腹を痛めて産んだ子が再び皇上となる。
仮初めの、いや、神輿として担がれた虚像になるとは言え、彼女にとっては復権を意味する。
大変目出度い事に違いなかった。
だと言うのに——
「何が問題なのでしょう?」
何前皇太后は顔を曇らせている。
毛利には甚だ理解出来なかった。
「妾が答える前に、董卓が何故劉弁を廃立したか存じておるか?」
「確か、現皇上劉協様の方がその位に相応しい、と申されたとか」
「毛利はおかしいとも思わなんだか?」
今度は毛利が首を横に振った。
歴史上、良くある事だからだ。
現王を廃し、自身の意のままに操れる王弟ないしは王子を新たな王に就けると言うのは。
「劉弁が皇上のままであっても、いや、皇上のままである方が当時の董卓は官吏の協力を得易く、望む政を推し進められた筈なのだ。なれど、董卓めは劉協を皇上とする事にこだわった。その訳は……」
「その訳は?」
「その前に、毛利に問う。皇上たる身で最も大切な責務は何であろうか?」
年若き毛利にもその程度は分かる。
その答えは、
「男子を、お世継ぎを儲ける事ではございませぬか?」
であった。
「その通り。有り体に申せば、女子の腹に子種を植え、新たな命を宿す事よな」
「つまり……」
「左様。劉弁にはその能が無い」
毛利は思った、いつから夫婦なのかは知らないが劉弁は正室である唐姫との間に子を為せなかったのだな、と。
と同時に、何故他の娘、言うなれば側室を設け試さなかったのだろうか、と疑問を覚える。
その思考は何前皇太后にはお見通しであった。
「側室を設けても詮なき訳が劉弁にはあるのだ。毛利、御主は薄々勘付いておるのでは無いか?」
毛利は思わず、手で自身の口を覆う。
幾度も時間を共に過ごした故の気付きが、思い当たる節が多々有ったからだ。
が、果たして、思ったままを口にして良いものか、と。
何と言っても、時は古代の中国。
面子が、誇りが、名誉が何よりも重視される、儒教全盛の時代なのだから。
そんな彼に対し、何前皇太后が重ねて尋ねた。
「不敬を恐れて言葉に出来ぬか?」
これもまた、お見通しであったらしい。
毛利は素直に、
「……はい」
と答えた。
「何を申しても罪に問わぬと約そう。それならば答えられようて?」
何前皇太后がここまで配慮する謂れは一体何なのか。
尚更、毛利は言葉に詰まるも、こうまでされたならば答えるしかない。
彼はオブラートに包みに包んで、自身の出した答えを申し上げる事にした。
「恐れながら……」
「うむ?」
「劉弁様は、女子に興味が向かぬ性質では有りませぬか?」
左様、と言わんばかりに小さく頷き返す何前皇太后。
(ああ、やはり……)
と毛利は一人得心した。
しかし彼女は、
「何故、婦女子に興味を示さぬか分かるか?」
更に問いを重ねる。
毛利は再び口ごもった。
(アレが機能しない、もしくは男の方が好き。いや劉弁の場合は何方かと言うと、男でなければならない、なのだろう。いずれにしても皇上としては致命的な欠陥、無能者だ)
罪に問わぬとお墨付きを貰ったとはいえ、やはり考えをそのまま口にするのが憚られたからだ。
何前皇太后は毛利のその考えを察したのだろう、「ふむ、口に出来ぬは当然か……」と悲しげに笑う。
かと思いきや、自身の手を打ち鳴らした。
「え? 一体何を……」
「案ずるな。劉弁らを呼んだまで」
(い、今の会話の流れで!?)
つまり、劉弁は男にしか興味を抱かない、と毛利が推論した後にだ。
彼が身構えるのも当然と言えば当然であった。
(男にしか興味が無い男をこの場に呼ぶ。しかもその男、この国最大の権力者だった訳で……)
毛利の胃がキリキリと悲鳴を上げ始める。
次の瞬間には、顔色が青を通り越し紫色に様変わりした毛利がそこに居た。
「……如何したのじゃ、毛利?」
「い、いえ。ちょっと、お腹が……」
「辛抱致せ。劉弁が参る故にな」
「そ、それが原因なのですが……」
とは決して口にする事は出来ない。
何と言っても、相手は前皇上にして現弘農王。
傀儡の皇族とは言え、歴とした権力者なのだから。
そこに、
「毛利、待たせたかな?」
劉弁が背後に皇上劉協と唐姫を伴って現れる。
彼は何故だか、女官服に身を包んでいた。
(なんと!?)
しかも、薄っすらと化粧を施して。
その場でくるりと周り、どう?、と言わんばかりにはに噛んだ。
(あー、畜生! 基の目鼻立ちが良い所為か余計に可愛いよ!)
髪も女官らしい控え目な形に整えられている。
だが、最も注目すべきは腰周りだろうか。
帯を結ぶ事により、これまで身に纏っていた衣服に隠されていた華奢な腰が露わに。
それにより、当然強調されるのは胸部。
見事な膨らみを上手く表現していた。
(そこまで拘ったか……。もう、完璧。何処から見ても劉弁は巨乳美少女だ)
それが、限界まで目を見開いた末の、毛利の第一印象である。
しかし、言葉として先ず最初に漏れ出たのは、
「……つまり、そっち系、だった訳だ」
であった。
「……そっち系って何?」
気の所為でも無く、劉弁の声に棘が含まれていた。
何故ならば、劉弁が期待していた言葉「可愛いね! 綺麗だよ! よく似合ってる! もう、この場で食べてしまいたい!」とは、まるで違ったからである。
満を持して登場したと言うのに……
毛利はしどろもどろに答え始めた。
「その……ですね。つまり、劉弁様は、あの……何と言いますか……女装……」
「普通は、可愛い、とか、良く似合ってるよ、と言うべきじゃないかな?」
劉弁は毛利の弁明を遮り、
「なのに、……なのに、そっち系、って。僕を見るその目も……まるで僕が、頭のおかしい人みたいじゃないか! 僕だって、今まで好きであんな格好してた訳じゃないのにさ!」
一方的に言い募った。
更には皇上劉協までもが、
「勇気をお示しなされたお姉様に対して、何たる言葉か。毛利! そこに直れ! この劉協自ら折檻してくれるわ!」
と少年にしては愛らしい顔を朱色に染め、プンスカ拳を振り上げ言い放ち、まるで我が事の様に怒りだす始末。
一方の毛利はと言うと、
(い、今、何て言ってた? 聞き間違えかな? お、お姉系……いや、お姉様とかなんとか……)
自身の耳を疑っていた。
「さぁ、今すぐ服をはだけ、背中を見せよ! 鞭打ちしてくれる!」
「お、お待ちください、劉協様! もしや今、劉弁様を、お姉様、と仰られましたか?」
「生まれ出た腹は違えど、父を同じとする女。姉と呼んで差し支えあるまい!」
「つまり……劉弁様は性同一障害ではない、と?」
これは毛利の選んだ言葉が悪い。
「性同一……すまぬが、毛利の発した言葉が妾には分からぬ」
何前皇太后が眉を顰めた。
「性同一障害です。分かりやすく申し上げますと、体は男で心は女、またはその逆になる病の事です」
「劉弁様がその様に奇怪な病に罹る訳がなかろう!」
病と聞き、唐姫が顔を真っ赤にして怒った。
「真に? つまり、劉弁様は生まれながらにして女子にございますか!?」
「左様だ」
何前皇太后が毛利に対し、優しく微笑み返した。
(嘘だろ……。前皇上が女だった、そんな事有りか!?)
毛利は自身の血の気が引く音を聞いた気がした。
実はこの時、部屋の外には李黒が残っていた。
今日に限り唐姫でない侍女だった所為か、強く追い返されなかったからである。
故に、彼は興味本位に耳をそばだてる事が出来た。
そう、一部始終を聞いていたのだ。
「李儒に随分と面白い土産話が手に入りましたね」
彼はニヤリと笑うと、その場を足早に去っていった。