#031 禁忌
月の上がらぬ夜、その代わりに星々が瞬いていた。
見渡す限りの、満天の星空。
現代の都会にて生まれ育った毛利には、目が眩む程だ。
空の賑やかさとはまるで逆なのが地上である。
今は草木も眠る丑三つ時。
文字通り、誰一人、鼠一匹動く姿は見受けられなかった。
洛陽の街中もまた同じ。
耳が痛い程の静けさに覆われている。
いや、
——ンッ……キンッ……キンッ……キィーーーーン
つい先程迄は確かに覆われていた。
「な、何事だ!?」
「分からん! だが、屋敷の外より剣で打ち合う音が……」
「念の為だ。袁隗様に起きて頂こう!」
場所は洛陽で最も閑静な住宅街。
宮城を除いた建物の中で、最も歴史と権威があるであろう館だ。
直後、将機特有の鼓動音が辺りに響いた。
「こ、この音は……」
と同時に、邸内の庭に大質量の何かが落ちる。
大地が大いに揺れた。
「将機だ!」
「将機だと!? 洛中だぞ、ここは?」
「知るか! だが、この音! 間違いない!」
「見えぬぞ!?」
「目だけで判断するな!」
「賊か!?」
「ああ、急げ! 袁隗様をお連れして逃げよ!」
「者共出会え! 袁隗様をお守りせよ! 時を稼げ!」
「衛兵だ! 衛兵を呼べ!」
弓に矢を番えた者が、槍や矛を構えた者が、剣と盾を持った者が庭に出揃う。
まるで、蟻の巣穴に悪戯した時の如く。
その様子を、中空に浮かんだ二つの紅玉が確と捉えていた。
それから二刻後、場面は洛陽城内へと変わる。
多量の竹簡に囲まれた部屋の主に対し、配下の胡軫が額に汗を浮かべながら、夜明け前に起きた惨事を報せていた。
「屋敷に居た袁隗殿とその一族が殺されただと!?」
と叫んだのは相国董卓、彼は目の下に大きな隈を浮かべている。
袁一族の協力が得られる様になったとはいえ、相変わらず激務が続いていた。
何故ならば、依然他の名門出の官吏からは十分な協力を得られていないからだ。
面従腹背。
それが辺境から成り上がった董卓に対する、彼らが出した答えであった。
そんな中、先ほども述べた通り、唯一協力関係が築けつつあった袁隗とその一族が殺された。
董卓が狼狽するのも当然である。
「毒か? それとも、刺客か? いずれにせよ、下手人はどうした!?」
「逃しました」
「逃しただと!?」
その余りの声の大きさに、火山を除いた獣が董卓から一斉に距離をとった。
「はっ! 追い詰め様としたのですが、兵が足りず……」
「胡軫、お主は曹操と袁紹めの捕縛に兵を割きすだとでも言うのか!」
「左様でございます。それだけでなく、果たして此度の暗殺、偶然でしょうか?」
「……洛陽内の兵が少なくなると見越した犯行だと?」
「はい」
「……暗殺者の正体は分かっているのか?」
「私と同じ胡族とだけは……」
「胡族! よりによって涼州所縁の胡族がか!」
「我ら涼州軍が疑われるは必死かと」
董卓にしては珍しく、配下の前で顔を顰めた。
「他に何かあるのか?」
「将機の音はしたが、姿が見えなかったらしく」
「姿の見えぬ将機だと!?」
そう叫んだ董卓の顔には、焦りの色が浮かんでいた。
◇
官舎の一室、二人の男が顔を寄せている。
一人は若白髪が目立つ高位の官吏、垂れた目と目元の泣き黒子が特徴的だ。
今一人は漢人ですら無かった。
「成し遂げたらしいな」
「我が一族の秘中の秘を用いれば造作もない事だ。それに屋敷の確かな見取り図もあったからな」
絹糸より細い声音で言葉を交わしながら。
互いの顔は酷く無表情であった。
「それでも、流石、と言える」
「だが、袁隗の死体を検める際に、一族の者が姿を見られてしまった」
「姿を見られたのは拙いな。が、今の洛陽には胡族が多い。早々分からんよ」
「しかし、今更だが袁隗は董卓様に協力的だと耳にしたぞ?」
「あれは後ろ向きの協力だ。滅びゆく王朝を生き永らえさせ、吸えるだけ甘い蜜を吸おうとしたな」
「つまり……李儒、お前の目的は董卓様による新たな国興し、と言う訳だ」
李儒の目尻が一層下がった。
「何故そうだと?」
「儒学を政の礎とする官吏、その集まりが自称清流派だ。対して濁流派と称される、宦官や売官共。彼らにより多くの清流派が党錮の禁(宦官が政敵を弾圧した事件)によって投獄された。が、今でも、袁一族は清流派の代表格として高名だろう? 現に、董卓様もその力を頼ったのだから。なのに、董卓様の軍師たるお前が袁一族を滅ぼそうとする。誰だって、おかしいと思うさ」
考えれば考えるほど、先の答えに帰結する。
暗殺を成し遂げた男は、そう嘯いた。
「漢朝は限界を迎えたのだ。例えこれ以上延命したとしても、民がより一層苦しむは必定。ならばこそ、董卓様の軍師たる身共は、主の先を見越して努めねばならんのだ」
「命じられてもいないのにか?」
「それでは遅いと感じたならば、躊躇はせぬ」
「禁忌を犯そうともか?」
「無論だ。必要とあらば、皇上をこの手で殺めてもみせよう」
李儒は無表情に言い放った。
◇
偶然か必然か、袁一族暗殺事件に遭遇せず生き残った袁術。
彼もまた、その数日後には荊州の南陽郡、袁一族の本拠地である汝南にほど近い場所へと下った。
つまりこれで、史実通りに曹操、袁紹、袁術の三士が洛陽から離れた事になる。
これが意味する事は一つ、正史に記された董卓包囲網の土台が出来つつある、と言う事であった。
それから暫く経った頃合い。
「相国董卓が皇上を蔑ろにしている」
「それを諌めた袁隗・袁基を含めた袁一族を皆殺しにしたらしい」
「祭りを祝う農民を、理由もなく牛裂きにした」
「繁盛する店に兵と共に押し入り、財貨やら娘やらを悉く奪ったのを俺は見たぞ」
「皇族の墓を暴いて副葬品の宝物を盗んだとか」
董卓に関する根も葉もない、言語に絶する悪評が立った。
発生源は兗州陳留郡、冀州渤海郡、荊州南陽郡などなど。
先の三名が逃げた先である。
領民が多く、しかも、交通の要衝だ。
だからだろう、噂はたちまち、中国全土に広まった。
そしてそれは当然、董卓の耳にも入る。
「この儂が皇墓を荒らすなど有り得ぬ! しかも、罪無き民草を牛裂きなどと! おのれ袁紹! いや、曹操めか!? いずれにせよ、儂の暗殺を目論んだ輩! 今すぐ賞金を掛け、捕縛を命じよ!」
董卓の怒りは怒髪天を衝く有様であった。
それを、
「な、なりません! その様に事をして追い詰めでもしたら、反乱を起こしましょうぞ!」
勇気ある文官が宥める。
袁氏一族が悉く亡くなった為、彼らの重要度は相対的に上がっていた。
政権を担う董卓は仕方なく、日々配慮している。
故に、この時もまた——
「反乱だと!?」
「如何にも! 袁氏一族は代々に渡って多くの家々と縁を結んでおりまする。その生き残りたる袁紹殿が反乱を起こさば、一体どれ程の者達が嘗ての恩義を返そうと加わる事か。故に、ここは逆に重用する姿勢を見せるのが宜しいかと。袁紹殿は罪を許されたと思い、大事を起こそうとは思いますまい」
「袁紹めに大義名分を与える事にはなり、それはそれで兵を集める助けになるのではないか?」
「その時こそ天の利は董卓様に。天下万民も相国董卓様に大義有り、逆賊袁紹を討て、と申しましょうぞ」
「ふむ、良かろ……」
実際の史実では、董卓はこの官吏の進言を入れ、袁紹を渤海郡の太守に、曹操はと言うと兵の追求を逃れ生き残った。
だが、この時董卓の脳裏に一つの言葉が浮かび上がった。
「……この劉なんとかさんが官吏を気に食わなかった、その為癇癪を起こしただけ、と私は見ます。それも、恐れ多くも皇上の代理に対して。捕縛を命ずる事はあっても、罪を許し尚且つ、官職与えるなど到底出来ません。代理とは言え皇上に対して拳を振り上げたのです。いずれは、皇家に対しても同じ事をする可能性が高いと申せましょう」
毛利の言葉が。
(いずれは、皇家に対しても同じ事をする可能性が高いと申せましょう……か)
董卓は大きく息を吐いた。
「いや、やはりその議には及ばぬ。相国董卓に危害を加える、それ即ち儂を信任せし皇上劉協様へ背く行為と言えよう。諸侯に対し、討伐を命じよ!」
「し、しかし!」
「くどい! それとも、伍瓊、御主は儂が皇上の意に背いているとでも言うのか!」
「さ、左様な事は申しませぬが……」
「ならば、直ぐにでも勅を下せ!」
これから遅れる事数日、皇上劉協の名で袁紹討伐の勅命が発せられた。
しかし、その遅れは致命的だったとも言えよう。
何故ならば、
「諸侯に対し、この董卓を討伐せよ、との偽の勅書が先に届いているだと!?」
であったからだ。
「おのれ、一体何者が!」
「分かりません! しかし、正しく勅書に用いられる紙が使われていたとか!」
「腐れ官吏共、そうまでしてこの董卓を排したいと言うのか!」
それに乗る形で、袁紹による〝打倒董卓〟の檄文が全国に齎された。
応じる形で名乗り上げた者数多。
兗州陳留郡では曹操が、荊州南陽郡では袁術が。
無論、彼らだけではない。
冀州からは冀州牧の韓馥が、豫州からは豫州刺史の孔伷が、兗州からは兗州刺史の劉岱が。
更に更に、兗州陳留郡の太守たる張邈が、兗州東郡太守の橋瑁が、同じく兗州の山陽郡太守袁遺、済北国の相である鮑信が、加えて洛陽のお膝元たる司隸からは河内太守の王匡らが、だ。
悲しい事に、いずれも董卓が新たに任じた牧(州の長官。郡を束ね、兵権を有する)であり、刺史(州の監察官。太守に対する監察権を有する)であり、太守(郡の長官)であり、相(皇族が官吏する郡を国と言う。その宰相。太守とほぼ同意)であった。
「お、の、れぇええええええ!!!」
怒髪天を衝く董卓。
そこに、
「江東の虎までもが動いただと!?」
「はっ! 兵を集め始めたとか……」
荊州長沙郡太守の孫堅が加わる報せが届く。
「洛陽から東、つまり関東と南は反董卓の旗を掲げたのか。これは史実通り……なのか?」
相国執務室の隅で一人顔を青くする毛利。
そんな彼に、
「え? 劉弁様が私を?」
北宮からの遣いが訪れる。
彼は弘農王劉弁から、急ぎ参る様呼び出されたのであった。
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2018/08/06 誤字を修正