#030 暗殺
曹操が剣から宝玉を取り外し将機を顕現させる、まさにその瞬間、呂布が音もなく背後に現れ、その手を捻った。
「痛!」
苦悶の表情を浮かべ、床に押さえつけられた曹操。
そんな彼に対し、呂布は、
「この玉を使おうとしましたね!」
憤怒の形相を向ける。
「呂布よ、何があった」
その場に董卓が戻った。
腕に顔と前足だけを乗せてぶら下がる、子兎と子猫を幾匹も抱き抱えながら。
それが董卓にとっての宝なのだろう。
後ろから続いて現れた火山の背にその親らしき兎が乗り、口には雌猫が観念した様な顔を浮かべながら咥えられていた。
「は! 此奴が宝剣から玉を外し、七星将機を呼び出そうとしておりました」
「恐れながら、それは誤解です!」
「よくも抜け抜けと。息を吐くが如く嘘を口にする!」
「真です! 火事の為に屋敷を離れられる董卓様の足しにと、献上の品である宝剣から玉を取り出そうとしたまで!」
「献上の品とは言え、宝玉を用いて将機を出そうとしていた事実は覆せません。曹操、養父の仇。覚悟!」
呂布は腰に佩いた剣を抜き放ち、今にも串刺しにしようと構えた。
貴婦人の如き顔が豹変した、鬼の形相を向けて。
さしもの曹操も、
「董卓様! 呂布殿の誤解です! どうか御慈悲を!」
泣いて命乞いする有様である。
「黙れ、匹夫! 丁原様を罠に嵌めた事と言い、今回も袁紹と計ったに違いありません! 董卓様! ご決断を!」
「あれは袁紹殿の所に持ち込まれし書状! この曹操が計った事ではございませぬ!」
「では、袁紹が計りし事だと証言するのですね!?」
「そうではありません! 先程も申しましたが、かの誓約文は袁紹殿の所に持ち込まれた代物! 私は袁紹殿がそれを本物だと判断した以上、従ったまででございます!」
「嘘を申すな!」
「誓って本当でございます!」
「では、何者が持ち込んだと言うのです!」
「この曹操の与り知らぬ事です!」
「では、袁紹が言う事を真に受けた、そう申すのですね!」
「如何にも!」
「語るに落ちましたね、曹操!」
「な、何を言うのです、呂布殿!?」
「黄巾の乱にて功績を上げ、済南の相に任じられた貴方は私欲に塗れた官吏の汚職を摘発しました。その際、噂を信じず、決定的な証拠を基に罪を断じたと聞きます。その様な貴方が、何処の誰とも分からぬ者が持ち込んだ誓約文を信じた? 有り得ません! だからこそ、語るに落ちたと言うのです!」
「その後、私は二年に亘り不遇を被りました! 袁紹殿に推され、西園八校尉に任じられたからこそ、洛陽に居られているのです! この曹操が、大恩ある袁紹殿を信じるは当然でしょうに! そうでなければ、時の執金吾である丁原殿を告発する一人に加わろうなど、一介の議郎には荷が重すぎます!」
「袁紹の為だとでも言うのですか!」
「左様でございます!」
いつの間にか、曹操は五体投地の形に。
その所為か、呂布は勿論の事、董卓からも曹操の顔色は窺えないでいた。
二人の遣り取りを黙って見ていた董卓が、ここに来て初めて口を開く。
「聴け、曹操」
「……はっ!」
「儂は御主を買っていた。先程も申した様に、ゆくゆくは中郎将に任じたいと思う程にだ」
「……身に余るお役にございます!」
「だがな、曹操……」
「はっ!」
「それとは別に、疎ましく思うておったのも事実。何故だか分かるか?」
「袁紹殿と行動を一つにするからでしょうか?」
「それだけでは無い! 国難の時だと言うにも関わらず権力争いに終始し! あろう事か漢朝を立て直そうとする儂の政を邪魔立てし! 自らの栄達のみに血眼な輩と行動を共にしておるからだ!」
「そ、それは理由につきましては先ほど申し上げた通りです。それに……袁紹殿に関しては、い、命懸けで何進大将軍の仇である宦官共を討ったと言うのに、董卓様が先帝の信任を得たからではないでしょうか?」
「また、袁紹か! 御主の目は何処を見ておる! やはり袁紹か!? それとも、自身の栄達か!? もしや、覇道を極めんとしておるのか!?」
曹操は答えない。
いや、答えられなかったのだ。
面を上げる事すら、出来なかった。
血の気がさっと引いていく様が、良く良く感じられていたからだ。
「耳まで真っ青であるぞ。いずれかが、図星であった様だな!」
董卓はそう言い放ったかと思うと、いつの間にか手にしていた七星剣を寝転がる曹操の顔目掛け振り下ろした。
風が鳴った。
と同時に、一際高い悲鳴が上がった。
見れば、声の主は横顔に出来たばかりの傷を痛そうに押さえ、叫びながら転がっている。
それを見下ろしながら董卓は、
「この愚か者が! 寡廉鮮恥とは貴様の事よ!」
と言い放った。
「後生です! 命ばかりはお助けを!」
それでも、曹操は命乞いする。
矮小な小人の如く。
将機倚天を有し、黄巾の乱にて武名を轟かせた将とはまるで思えぬ程に。
まるで、親に酷く叱られた際の幼子。
体躯の小ささが尚更、そう感じさせた。
だからだろう、董卓は油断した。
いや、董卓と呂布、共に油断させられてしまったのだ。
曹操は取るに足らぬ小物、だと。
「丁原様の仇です。息の根を止めても宜しいでしょうか?」
「呂布よ」
「何でしょうか?」
「丁原はこの様な者の命一つで満足すると思うか?」
「……寧ろ、この者では無い、とお叱りを受けてしまいそうです」
「如何にも。故に、この者を餌に大物を釣ろうではないか」
「では!」
「左様、これを機に袁紹を仕留める。曹操の屋敷に細君は居たであろうな」
「元は歌妓ですが、側室の中でも特に愛でている者がいると耳にしています」
「その側室を袁術が屋敷に届けよ。いずれ袁紹がこの者に人を遣わすであろう。その時まで人質と致す」
「では、その通りに。しかし、この者はどうなさいますのでしょう?」
「今宵の内に、先の側室と入れ替わる形で胡軫の配下にでも屋敷に届けさせよう。無論、胡軫の配下にはそのまま屋敷に留め、袁紹の使者が訪れるまで監視させる」
董卓と呂布はこの後、この時の判断を一生後悔する事となった。
そう、二人は曹操から目を離すべきではなかったのだ。
地に伏し、痛みに咽び泣きながらも、窮地を脱した曹操の目は確かに笑っていたのだから。
後の世の人は知っていた、曹操は武略に優れるだけでなく、芸術をこよなく愛する文化人であった事を。
芸事を愛するあまり、奴隷同然であった歌妓を金に糸目をつけず身請けした事を。
この小男は人の機微に、良く良く通じていたのだ。
◇
曹操による董卓相国暗殺未遂事件が発覚した翌日、宮城内は鳥カゴの如き様相を呈していた。
(凄いな、何処も彼処も小さな人集りが出来て。昨夜起きた大事件に関して情報交換しているみたいだ)
一方、毛利は普段通り。
皇上と劉弁に呼ばれるまま、北宮へと足を運んでいる。
すると、前から呂布とは違い、実に男らしい美丈夫が現れた。
(げぇ!? 袁術!)
実に豪奢な衣服を纏って。
まるで皇族である。
彼は毛利の顔を認めると、
「これ、そこの庶人」
毛利を呼び止めた。
「わ、私ですか?」
毛利は身構えた。
「貴様の他に誰がいる」
「そう……ですね。何の御用でしょうか、袁術様?」
「ほう、余を存じておったか」
「勿論でございます。後将軍様の高名はかねがね耳にしております故」
先日、虎賁中郎将(五品)から後将軍(三品)へと昇進した。
これもまた、異例の大出世である。
「庶人にしては物が分かっているようだな」
「とんでもございません」
「なに? 余の申す事が偽りだとでも!?」
「し、失礼致しました。身に余るお言葉でしたので思わず……」
「なれば良い」
毛利は内心「面倒な」と思いつつ胸を撫で下ろし、袁術の言葉を待った。
「此度は庶人である貴様に、余直々の言葉を与えん。誠に良い働きであった。これからも、漢朝に誠心誠意尽くすが良い」
「ははっ! 有り難きお言葉! これからも袁術様の言葉を胸に刻み、精進してまいります!」
袁術は満足気に、その場を後にした。
(……意味が分からん。一体、なんだったんだ?)
それに反し、毛利は頭を悩ませながら足を進めた。
「毛利黄門、参りました」
「入るが良い」
原因は暫く後に分かった。
「袁術めが、毛利に対してその様な事を……」
「宗室の姫であった者を正室に迎えているからのう。気位が一際高いのじゃ」
「董卓に協力しあげて、って頼んだ際、毛利の発案だと僕が伝えたからかな?」
皇上劉協、何前皇后、弘農王劉弁の言葉である。
「然様でしたか」
「然様でしたか、ではない! 以来、あの者は差し迫った用もなく参る様になったではないか! どうしてくれる、毛利!」
「いや、そう言われましても、劉協様……」
「それは劉協が、頼りにしているぞ、と言ったからでしょ」
「お、お兄様!?」
「ごめんね、劉協。でも、本当は僕も困ってるんだ。毛利との時間が減るからさ」
「本当に嫌なのだけど我慢してるんだよ?」と劉弁はくりくりとした瞳を毛利に向けながら、実に愛らしく言った。
何故か体の奥底から湧き上がる熱を感じる毛利。
(お、男なのに!?)
彼は慌てて、視線を劉弁から離した。
「どうしたの、毛利?」
「ぶー!」
「劉協? ねぇ、唐姫。僕何かした?」
「……知りません(ぷいっ)」
「唐姫も!? どうして?」
「どうしたも何も、今のは劉弁の所為でしょうに」
何前皇后が呆れる様に零した。
「それはさて置き。毛利や」
「はい、何でしょう」
「劉弁や劉協が袁術を、いや、袁紹をも厭う理由は存じておろうな?」
「大半の宦官を殺めたから、でしょうか」
宦官は、北宮に住まう彼女達にとっては家族同然であった。
「加えて、我が兄にして、今は亡き何進大将軍を焚き付け、宦官との対立を煽ったからじゃ」
更には異父兄の何苗将軍まで禁門の変のどさくさに紛れ、殺されていた。
何一族にとっては不倶戴天の敵、と言えよう。
(あれ? 慮植様は?)
北宮に乗り込み宦官を殺めたのは慮植も同じであった。
毛利の顔に出ていたのか、
「慮植は別だよ。彼は僕達の事を本当に慮ってくれているから」
と劉弁が言う。
劉協が後に続いた。
「毛利の命の恩人でもあろう? それはつまり、命の恩人の恩人と言う事だ。それに引き換え、袁紹と袁術、あの者らは……」
「袁紹は体が大きくて、目付きが怖いよね。僕、ああいう手合いにはちょっと近づいて欲しくないかな……」
劉弁が言った。
「袁術様は時折、わたくしに色目を……」
これは唐姫の弁だ。
「然もありなん。あの者は宮城に上がりし妾にも、興味を持っていた様じゃからな」
四人が示し合わせたかの様に、自らの体を抱いた。
(生理的に無理って感じ? 女性からは兎も角、同性の男からこれ程嫌われる奴も珍しいな)
毛利はそう思った。
「その様な事よりも、毛利!」
「は、はい、劉協様」
「西園八校尉の曹操めが、董卓の暗殺を計ったらしいな!」
「幸いにして未遂に終わりましたが」
「だが、その曹操を取り逃がすとは、何たる失態!」
それが、胡軫配下の部将、李傕が曹操の屋敷へと移送中に襲撃を受けた結果である。
「突如現れた将機にしてやられたとか?」
と何前皇后が言った。
「洛内にて将機を出すとはな! 最早、謀反と言っても良い!」
劉協が激しく憤る。
それもその筈、宮城のある洛陽内で将機を出すのはそもそも御法度。
それどころか、曹操を助けた将機はそのまま城門を内側から破り、何処かに逃げ去ったのだから。
「董卓様もその様に申されています」
「ところで、追っ手は差し向けたのか、毛利?」
「勿論です、劉協様。ただ……」
「ただ、何だ?」
「見るも鮮やかな紅蓮の将機だったらしく……」
「逃げ足が速くて追いつけない?」
〝七星将機〟は遥か昔、古の帝王であった伏羲により齎されし人型兵器だ。
古代の御世においては、人の背丈の数十倍程の大きさだったとか。
顕現には貴石を用いる。
しかも、貴石の種類、色により性能を著しく変化させる事が可能であった。
赤ければ赤いほど速度が増し、黄色ければ黄色いほど力が増す、と言う具合に。
(赤は紅玉と呼ばれているが現代で言うならばルビー、黄色は琥珀だ。琥珀は樹脂の化石だから、石と言えば石……なのか?)
ちなみにだが、道端に転がる石でも将機の顕現は可能。
ただし、性能は低く脆い。
故に〝凡将機〟と呼ばれている。
「呂布様が麾下の部将を伴い追ったのですが、恐らくは……」
「毛利よ、彼の者の将機は確か、董卓から受け継ぎし〝赤兎〟であったな?」
「はい。混じりの極めて少ない紅玉を七つ、でございます」
同一種類の石を七つ用いれば、将機の性能は更に底上げされる事が分かっていた。
「でも、緑玉じゃないなら四刻が限度だよ」
将機の連続稼働時間は概ね四刻。
ただし、緑色系の石だけはそれを伸ばす事が可能であった。
「なれば、捕らえるのは難しいであろうな」
「董卓様もその様にお考えです、劉協様」
「董卓はどうするつもりなの?」
劉弁が尋ねた。
「諸侯に対し、曹操の捕縛を命じる予定です」
「それだけ? 袁紹は?」
「昼夜の別なく監視するとか」
劉協が、
「何故、直ぐに捕らえぬのじゃ?」
と疑問を口にし、首を傾げる。
「董卓様暗殺に関わった確たる証拠がありませんので。ただ、曹操の様に逃がさぬよう、袁一族の本拠地である南陽への道は信頼出来る涼州兵で警戒致します」
「袁術は大丈夫かな?」
劉弁の言う、大丈夫、とは董卓の暗殺に関わっていないのか、と言う意味だ。
「彼は私の要請に応えた者。故に大丈夫かと思われます、お兄様」
劉弁は「そっか」とだけ口にした。
「時に毛利よ、これからどうなると御主は考える?」
劉協の問いに毛利は答えあぐねた。
(寧ろ、こっちが知りたいよ。史実とは違い、董卓は良い人っぽいし。ほんと、一体どうなるんでしょうか?)
このまま何も起きなければ良い、毛利は心の底から願った。
だが、事態は大きく動く。
これから暫く後に、袁紹の冀州逃亡が発覚したからだ。
更には、
「……殿が何者かに暗殺されただと!?」
「それどころか、当時屋敷に居た縁者がすべからく!」
洛陽に在する名家中の名家一族が悉く暗殺されると言う、実に凶悪な事件までもが発生したのであった。