#029 曹操と七星剣
日は早く落ち、木々の葉は色褪せる。
肌に触れる空気は冷たく、風が吹けば痛い程であった。
それもその筈、暦はもう十月が終わろうとしていた。
そんなある日の夕暮れ、洛陽のとある大きな屋敷の前は車がひしめき合っていた。
それは常日頃から見られる景色。
理由はこの屋敷の主人にある。
代々朝廷の高官を輩出している家柄の出、と言う理由だけではなく、人を強く引き寄せる魅力を有していたからだ。
車の客は先を争うが如く、主人に会おうとしていた。
また、屋敷の主人は兎に角人を、取り分け名士を大事にした。
寝食を与え、時には遊興費すら都合する程に。
やりすぎたのか、時の中常侍に「本初は人を集め、良からぬ事を考えているのか」と苦言を呈される事もあった。
そう、屋敷の主人は西園八校尉が一人、中軍校尉にして虎賁中郎将(五品。皇上直属の武官。近衛兵を千程率いる)でもある袁紹。
彼はこの夜もまた、大切な客を持て成していた。
極力人を排してまで。
部屋にいるのは松明を持つ灯り係が一人と、屋敷の主人である袁紹の他には客がいるだけである。
夜間の往来が禁止されているこの時代、屋敷で日を跨ぐなど、余程大切な者なのだろう。
袁紹がその相手以外には聞かれぬよう、
「宮中にいる者が言うのだ。董卓の護衛を務める呂布と董卓配下の将とが仲違いしている、とな」
小声で話した。
その巨体を屈めて。
逆に相手は身を乗り出し、
「ああ、その噂はかねがね耳にしている」
と答えた。
男の背が低い所為だ。
「いずれは大きな裂け目となり、我らが付け入る隙となるだろう。だが、それを言いたいが為に持ち出した訳ではないのだろう?」
男の袁紹に対する随分と馴れ馴れしい態度。
身形は実に立派。
彼もまた、一廉の人物だと知れた。
「俺はとある考えに至った。どうだ、知りたいか?」
「ふっ、今夜は随分と勿体振るな」
小男は小さく笑うと——
「俺に危ない橋を渡れと言うのだな? 構わん、聞かせてくれ」
「流石だな。まぁ、簡単な話だ。御主が内通ないしは降ると称して董卓と会い、隙を見て暗殺するだけだ。どうだ、曹操?」
曹操、西園八校尉における典軍校尉にして議郎(七品。中郎将に従う)が一人。
祖父は宦官にして中常侍にまで上り詰めた傑物。
夏侯氏から養子に入った実父もまた、太尉にまで至った程である。
袁紹程ではないが、彼もまた名門の生まれと言えた。
「無理があるな。呂布が常に傍にいる事は勿論、そもそも、俺には董卓を素手で殺める術が無い。あれと俺が並び立った所を想像してみろ。大人と子供に見えるだろうよ」
「そこで俺の名案が生きるのだ」
「名案? 暗器の類だろうが折角だ、聞いてやろう」
「聞いて驚くなよ。とその前に、尚書令王允を知ってるな?」
「当たり前だ。今の宮城で王允殿を知らぬのは、弘農王が拾いし小人(凡人、下賤の意)ぐらいなものだ」
「そう言うな。小人なりに、甲斐甲斐しく働いているではないか」
「小人ならば、小人らしく煤払いでもしていれば良い。それが黄門侍郎などと、有ってはならん事だ!」
袁紹はそんな曹操を、内心薄ら笑う。
曹操が怒る源は、毛利なる小人が宦官の上に立つ地位に就いているから、と見抜いていたからだ。
何故ならば、宦官が健在であるならば、曹操は間違いなく、今以上に出世していた。
それだけ、中常侍を務めた祖父の影響力が宮中、特に宦官の中には残っていたのである。
だからこそ、当初は何進大将軍が出した宦官粛清にも曹操は乗り気ではなかった。
「話を戻すが、王允殿の持つ家宝を聞いた事があるか?」
「王家の宝と言えば、七星剣、だな。伍子胥が楚王より授かりし宝剣。その玉を用いれば、七色に輝く大将機を生み出すとされている」
「その通りだ。それを、王允が曹操に贈った、との噂を手の者に広めさせ……」
「この曹操が七星剣を董卓に献上する、か」
実際のところ、董卓は袁紹らが築いた、名門派閥出身で構成された西園八校尉を解体しようと考えていただけでなく、毛利の進言を受け入れる形で宦官との和合の象徴として曹操に秋波を送っていた。
その話に乗る振りをすれば、容易く面会を取り付けられるだろう。
後は董卓と呂布の意表を突き、七星剣の玉を用いて将機を出す。
宝剣の玉だ、取り上げられる事も無いだろうしな。
董卓を討てたなら、後はその場を去るのみ。
董卓配下に対しては、「呂布が董卓を殺めた」と流せば、互いに争い合うだろう。
消耗した所を、西園八校尉が賊軍として彼奴等を討伐すれば良いのだから。
危うい橋を渡る事にはなるが、曹操は乗り気となった。
理由は、子供の頃は仲良く遊んでいた目の前にいる友が今や五品の中郎将。
一方、曹操は七品の議郎でしかない。
それだけでなく、袁紹は名門の子息として誰からも羨まれるも、曹操は逆に宦官の一族だと軽蔑されていたからだ。
(このままでは……)
齢は既に三十四。
行き着く先が、見え始めていた。
「やれるか?」
曹操の内心を察する袁紹、頃合いを見計らい問うた。
「……ああ」
「だが曹操、万が一事を仕損じたらどうする?」
「一目散に逃げるさ。そう、洛陽を抜け、郷里までな」
「そう、それが良い。俺も理由を付け、洛陽を離れよう」
「ただ、良いのか本初?」
「良いとは?」
「袁家の他の方々だ。特に袁隗殿は一族の当主。話も通さず勝手に振る舞えば、より一層の不興を買うぞ」
事実、袁紹は袁隗との間に軋轢が生じていた。
理由は、袁紹が皇上劉協、更には相国董卓を認めぬ立場であるのに対し、袁隗はいずれも認めていたからだ。
ちなみにだが、袁術は皇上は認めるが、董卓は認めないとしている。
その実、この問題は袁家内の主導権争いでもあった。
「問題無い」
袁紹はそう、嘯いた。
◇
新月の夜。
僅かな星明かりすらも雲に阻まれ、辺りは暗闇に包まれている。
この日、董卓は自らの屋敷に居た。
夜間外出の禁令を破ってまで、夜遅くに訪ねて来る客と会う為に。
そうまでしても件の客は、他人には決して知られたくはなかったらしい。
そんな客を今かと待つ董卓に対し、
「曹操めが参るとか」
呂布が問うた。
護衛の責務故にか、ただの興味か、それとも……
だが、彼の顔からは何一つ伺えなかった。
「ああ、これまで幾度も声掛けしても応えなかったのだがな。何やら急に、内密に伺わせて欲しい、と申し出てきた」
「怪しい奴。この場で拷問いたしましょう」
董卓の言葉に、呂布はそう断じてみせた。
「……まぁ、待て。詳しく話を聞いてからだ」
「しかし、養父丁原を罠に嵌めた様に、今回も策を巡らせてあるやも。決して、隙をお見せになられてはなりません」
「その為に呂布、御主がいる。御主なら決して、曹操ら相手に気を緩めたりはしまい」
「ええ、父の仇ですから」
「一方、曹操めは儂ら、いや、儂の配下と御主の仲が極めて悪いと考えている」
「今や、胡軫殿らとの関係だけは否定出来ません」
「……胡軫の奴め。だが、悪いが今は堪えてくれ」
呂布は「はい」とばかりに、拝礼の構えを見せた上で、
「丁原様の仇討ちが叶うまでは、我慢いたしましょうぞ」
と答えた。
「漢朝の為とは言え、すまんな」
「いえ。こんな私でも、一時は皇家に忠誠を誓った官吏ですからね」
呂布は微笑み返した。
それから暫く後、屋敷の門を曹操が潜った。
佩刀していた剣や宝玉を屋敷の家人に預け、貢物を入れた小箱だけを傍に抱えた曹操、董卓が待つであろう部屋へと案内される。
そして、彼は部屋に入るや否や、董卓に対し最敬礼をとった。
「董卓相国! この様な時間に訪れる事をお許し頂き、また、その寛大な御心に深く感謝致します」
まるで、皇上に対するかの様に。
「まぁ、そう硬くなるな、曹操。儂に対してまで、その様な事では驍騎校尉は勤まらぬぞ」
「驍騎校尉……それは一体どの様な意味で……」
「御主の事だ。皆まで言わずとも分かっておる筈だぞ?」
驍騎校尉、官品は五品にして、その名の通り騎兵隊を率いる高級指揮官である。
つまり、董卓は曹操をその役に任じる用意がある、と。
議郎の七品からすると、一つ飛びの大出世であった。
喉から手が出る程欲しがっていた高位の役職を与える事で曹操の、引いては宦官らの気を惹こう、そう董卓は考えていたのだ。
曹操が毛利を羽虫の如く嫌う理由が、黄門侍郎が自身と同じ七品だから、と言う噂を耳にしたからでもある。
出会い頭に思わぬ一撃を頂戴する形となった曹操。
彼は内心、唖然となった。
流石なのは、その様な素振りを一切顔に表さなかった所だろうか。
しかし、此度は相手が悪かった。
伊達に相国にまで昇り詰めてはいない。
董卓は当然気が付くも、
「何、御主を迎えるにあたっての、当座の役職だ。この董卓、能ある者には権で答える故に」
知らぬ振りをし、話を進めた。
「それはそれは。この曹操、これまでの行いを悔い改め、董卓様の差配に従いましょうぞ」
「差配に従うなど不要。曹操の思うままに勤めを果たせば良い。それが引いては、皇上の御為になるのだからな」
「流石は漢一の国士と名高い董卓様。恐れ入りました」
面会は和やかな雰囲気で始まる。
だがそれは、やや離れた所から届くたった一人の叫び声により一変した。
「火事だ! 火事だぞ! 相国董卓の屋敷が火事だ!」
曹操は大袈裟に、
「か、火事ですと! 董卓様、火の気の無い方へ、御逃げ下され!」
叫んだ。
その声に釣られたのか、屋敷の家人も右往左往し始める。
「火事? はて? 煙の匂い一つしませんが……」
対する呂布は極めて平静。
いや、董卓もまた落ち着いていた。
「曹操、落ち着かぬか」
「火事だと言うに、落ち着いていられますか!」
一人曹操だけが、取り乱している。
「呂布殿、外の様子を見て来て貰えぬか!? このままでは董卓様が何処に逃げれば良いか分からぬ!」
「しかし、私は董卓様の護衛。ここを離れる訳にはまいりません」
「だが、火の手がここにまで及んでしまったら、取り返しのつかない事に!」
「ですが……」
「構わぬ。呂布よ見て参れ。曹操が落ち着かねば話も出来ぬからな」
董卓はそう口にしつつ、曹操に気付かれぬ様呂布に対し小さく頷いて見せた。
「分かりました。この呂布が戻るまでは、この場から離れぬ様お願いします」
呂布はそう言い残し、辺りを確かめに行った。
「董卓様、火の手は何処からか、心当たりはありませぬか?」
「無いな」
「やはり、厨房でしょうか?」
「火の扱いは徹底している。考えられんな」
「そうですか……では、万が一を考え、屋敷を離れる準備だけでも致しませぬか?」
「ふむ、先ず何をする?」
「この部屋にある宝、書ないしは玉だけでも掻き集めておいた方が宜しいでしょう。書は言うまでもなく貴重、宝玉は董卓様は兎も角、家人への手当に充当できますから」
「確かにそうだな。よし、儂は他に変えられぬ宝を持って参る。曹操はそこで待っておれ」
そう言い背を向け奥へと向かった董卓に対し、君主に対する拝礼で答えた曹操。
深く垂れた顔には、嘲笑が浮かんでいる。
顔を再び上げた際、その手には小振りの剣が握られていた。
刀身には北斗七星をなぞるが如く宝玉が埋め込まれている。
これぞまさしく、稀代の宝刀〝七星剣〟と言う具合に。
ただし、取り外し易い様、細工を施されて。
曹操は今まさにその宝玉を用い、自身の将機〝倚天〟を呼び出そうとしていた。