#027 相国
丁原の死から少なくない日が経った頃合い。
宮城のとある一室に若き官吏が集っていた。
洛陽における趨勢を語り合う為に。
その彼らの中心に、取り分け異彩を放つ若者が居た。
十七と言う、年相応の幼さが残る顔をした毛利だ。
恐らくは、この当時における最も若き官吏であろう。
しかも、司る官職は黄門侍郎なる重職。
時の皇上に侍る事が許される程の身分であった。
その彼が今、目を見開いたかと思うと、
「えっ、董卓様が翔子に!?」
しなを作った上で右手の握りこぶしを腹の前に、左手を頭の上に掲げて逆S字をかたどる。
そんな毛利に対し、
「相国だ、馬鹿! ショウコク! てか、ショウコって言ってからその姿勢を取った意味が分かんねぇよ!」
と田豊がやや感情的に答えた。
「何やら婦女を想起させる仕草。董卓相国に対する不敬の類か、或いは毛利黄門が……」
と口にしたのは荀彧である。
至極冷静に見解を語りつつ、左手で口元を隠した。
彼の折れていた腕はすっかり回復している。
適切な処置の賜物であった。
尚、彼らが居る場所は南宮、紙筆墨を納めし場所。
守宮令荀彧の職場でもある倉庫だ。
訪れる者が居なければ、いつまでも静謐が約束されていた。
「或いは毛利が、相国となりし董卓様に攻め抜かれたいと言う想いの顕れか」
「荀攸様まで……酷いや!」
下品な話である。
だがしかし、その様な話が交わせる程、彼らの距離が近しいものとなった証でもあった。
毛利が一方的にからかわれるのは、この中では最も歳若いからだろう。
「そう言い返せるまで元気が出たってぇのは、一先ず安心だな」
「田豊の言う通りです。一時の憔悴具合などは余りに酷く、北宮に遣わすのも憚られる程でしたからね」
毛利は「そんなでしたか?」と荀彧にも確認を取ると、
「ええ、毛利黄門の目には生気が見られませんでした」
肯定される。
それほど、毛利は酷い有様だったらしい。
「丁原殿の死がそんなに辛かったのかねぇ?」
と田豊が言った。
(それだけが原因で塞ぎ込んでいた訳ではないのだけど……)
実際のところ、毛利はその間の大半を、
(劉弁を守り、漢室を支えよ、か。劉弁の将来がどうなるかは全くの不明だけど、漢室の来るべき未来は衰退からの滅亡。現状維持すら、不可能、だよなぁ……)
と思い悩んでいたのだ。
毛利は顔を曇らせた後、小さく頷き返した。
「丁原様には南宮前殿で暴漢に襲われた際に助けて頂いた事がありまして。つまり、命の恩人でした」
「生きてる間に、恩返しが出来ませんでした」と悲しむ毛利を前にして荀彧と田豊の視線が交わり、互いに気不味い顔を浮かべた。
「ええ、その事はこの荀攸も耳にした事があります。混乱のみぎりとはいえ、漢朝の恩人に酷い事をする輩がいた者です」
「全くだ! 無知ってぇのは罪深い、いや、恐ろしいねぇ!」
田豊が大袈裟な身振りで、荀攸の言葉に同意を示した。
「この話も無知って訳じゃないんですけど……」
続けて毛利が語ったのは、呂布が現在置かれた状況に関してであった。
丁原亡き後の并州軍は董卓率いる涼州軍に吸収される形で落ち着いた。
だというのに、何故か董卓配下の部将が呂布に対してきつく当たり始めたのだ。
「特に胡軫様が酷くて。事ある毎にやれ〝養父殺し〟だの〝文盲の倅〟などと嗤うんです」
その所為か、胡軫の配下である華雄との訓練が鬼気迫る代物に。
見る者が皆、余りの激しさに言葉が出ない有様であった。
「ほう、そんなに仲が悪りぃのか?」
「はい。ですので、華雄様は正直、いい迷惑だ、と」
「それはとんだ災難ですね」
「ええ、その通りなのです。荀攸様」
毛利としても、「あの寡黙な華雄が思わず零す程追い詰められているのか」と知り、何とかしたいと考えていた。
それに当然呂布もだ。
慮植、司馬防、更には司馬朗に宥めらている姿を目にしているのだから。
尚、これら一連の行動は終始事なかれ主義を通していた、これまでの毛利とは一線を画している。
彼は今や、丁原の遺命を果たすには如何に行動するべきか、を行動の指針としていたからだ。
(先ずは政権の足元を盤石に。要は和をもって尊しとする、だ。なのだけど、一体如何したら良いのか皆目見当も付かない……)
と毛利は思い悩んでいた。
田豊や荀攸らから気遣われる程に。
そんな彼が出した答えの一つが、無い知恵を絞っても足りなければ他人の知恵を借りる、であった。
それが、毛利が塞ぎ込んだと思われていた末に出した〝答え〟なのだ。
「心配ですか、毛利黄門?」
「勿論です、荀彧様」
「何故だい?」
「そりゃぁ、董卓様の権力の源泉は皇上からの信任もさる事ながら、涼州軍と并州軍を合わせた兵力だからですよ。ですよね、荀攸様」
「黄門の身で答え辛い問いだけど、まぁその通りだね」
「ですから、私の身を守る上でも、いや、漢朝の世が再び乱れない為にも、胡軫様と呂布様はわだかまり無く、手を携えて欲しい訳です」
「もう、本音がだだ漏れじゃねーかよ!」
「そこは聞かなかった振りをして下さい」
と言った後、毛利は殊更顔を顰めてみせた。
「如何したのです、毛利黄門?」
問うたのは荀彧だった。
「いえ、冗談抜きで、胡軫様と呂布様の仲がこれ以上酷くならぬ様にするにはどうすれば良いのかと」
「何故、毛利黄門がそこまで心配する必要があるのでしょう?」
「呂布様とその配下は、今や董卓様の護衛も兼ねていますよね? 流石に手心を加える事はなくとも、ちょっとした気の緩みと言うか、敵愾心からの不注意でも起きたら大事になってしまいますから」
「なるほど、護衛としての力が十全に発揮できねぇ状況、ってぇ事か……」
「本当は、それ所じゃないんですけどね」
毛利の本当の悩みは他にある。
彼はそう言いたかったのだ。
有り難い事に、
「今日の毛利は随分と心配毎が多い様だな。折角だ、話してみなさい」
荀攸が察してくれた。
毛利はここぞとばかりに、相談する。
「丁原様の一件以降、董卓様と西園八校尉である袁紹様達との間が酷いじゃないですか。このままではいずれ……」
「いずれ?」
「反乱にまで発展するでしょうし」
それは毛利が知る、中国史の流れ。
董卓が権力を牛耳り、曹操と袁紹、更には孫堅が反乱を起こした、英傑達の物語。
加えて、良く言えば漁夫の利を得た劉備の。
史実では漢王朝は廃れ、魏・呉・蜀と言う三ヶ国に分裂するのである。
「……反乱?」
だが、今現在洛陽にて勤める官吏、それも周囲から優秀と評される彼らですら現在の状況がそこまで悪化するとは思いもしていなかった。
何と言っても、所詮は一介の役人。
目の前で行われているのは見慣れた、聞きなれた権力争いに過ぎない。
大いなる時の流れの中にいる者と、それを後の世から眺めていた者との違いである。
「反乱とは穏やかじゃぁねえな」
「考え過ぎですかね?」
田豊は毛利の眼をじっと見つめた後、
「……生憎と、この田豊にはな」
と何時になく真面目に答えた。
「ただ……」
「ただ?」
「いや、そもそも、なんで軋轢が起きてるかを毛利は分かってんのかい?」
「いえ?」
「即答か! ちったぁ、考えろ!」
「すいません。ちょっと答えるのが面倒だなぁ、と思っただけです」
「尚更性質が悪りぃよ!」
「では改めまして。董卓様が成り上がった末に、名家出身の官吏を差し置いて、位人臣を極めたからですね」
「それもだが、加えて約定通りに太尉を辞したと思ったら、相国に就いたからだな」
「ああ、成る程」
毛利は手を拍ってみせた。
だが、今の毛利はそこで終わらない。
「となると、漢朝を支える今一つの勢力も何とかしないといけない訳ですね」
「良く気付いたな、って言いてえ所だが……答え合わせだ。それが何か言ってみな」
「宦官の方達です。先の騒乱? で二千人前後の宦官がお亡くなりになりましたが、未だ北宮に於いては欠かせない存在ですからね」
「ええ、その通りです、毛利黄門」
「問題は董卓相国が彼らを重用しない事です。毛利はその理由を知っていますか?」
「董卓様曰く、慰みの為に飼っている物達が近寄るのを好まないらしく……」
「ほぅ、慰みの為の者、ねぇ……」
田豊は下卑た笑いを浮かべた。
「田豊様、多分間違ってます、ソレ」
「何でそんな事がわかんだよ!」
「言わなくともその顔で分かりますよ、田豊殿」
田豊はこれでもかと言わんばかりに下卑た顔を晒していた。
「ですよね、荀攸様」
「それよりも、今は毛利の考えです。貴方も何処か彼らを忌諱しています。それは何故でしょう?」
「私が?」
毛利には心当たりがあった。
この時代に於いては、去勢された宦官は当たり前の存在である。
少なくとも宮城で働く上では。
だが、彼は違った。
現代社会で育ったのだから。
そんな彼にとって宦官は、いや、宦官が振り撒く臭いは、
(汚れに汚れた公衆便所の如し)
無理からぬ話なのである。
「おめぇも、あの臭いが気になるてぇのか?」
「え、いや、その……」
宦官は自身の体臭に関する話題を殊の外気にする。
いや、嫌悪している。
実際、毛利は知らなかったとはいえ、自身の配下として付けられた宦官である李黒の心象を悪くしてしまった。
その様な経緯がある為、彼は言葉を濁し答えた。
「す、好き嫌いの問題ではありません!」
「てぇ事は、少なくとも気にはなっていたんだろ?」
「いやいやいや! 全然! 全然気になってないです! 寧ろ芳しい香りだと思ってますとも! あの香りをおかずにして何杯でもご飯いけますって!」
「毛利黄門、その口ぶりは尚更怪しいと知れ」
「は、話を基に戻しましょうよ!」
「お、良いねぇ。てめぇが不利になると知り、直ぐ様話題を変える。木っ端役人らしくなってきたじゃねぇか!」
「おっと! その手には乗りませんよ? 宦官の方々との仲を取り持つ。それが董卓様……」
「董卓相国、ですよ。毛利黄門」
「そ、そうです。董卓相国です。相国の権力強化に繋がり、ひいては漢朝の安定にも寄与するのです!」
したり顔を見せる毛利。
彼以外の三名は、そんな同僚を見て目を細めた。
いや、安堵したのだ。
何処の馬の骨とも分からぬ輩ではあったが、黄門と言う要職を務めるにしては無知蒙昧ではあったが、取るに足らぬ若造ではあったが、しっかりと成長しているのだなぁ、と。
これならば、もう少し時間を掛ければ立派な、いや官吏の端くれには、いや猫の手を借りたい程忙しい時には使える様になるのではないか、と期待した。
直後、
「そもそも、相国って何です?」
「おい、こら、てめぇ! 俺の安堵を返せ!」
その期待は裏切られるのであった。
そんな一部始終を密かに見ている者が。
その者は北宮の主人に頼まれ、毛利を呼びに来ていたのだ。
一種独特の匂いを辺りに振りまきながら、
「おのれ、毛利……」
彼は憎々し気に歯を噛み締めていた。