#025 貴方はいつも私の誇りでした
「毛利、御主に并州軍の陣へ、この董卓の使者として行って貰いたいのだ」
「え、無理、って言うか、嫌です」
と毛利が言えたら、どんなに良かっただろう。
しかし、悲しいかな、毛利は口にする事が出来なかった。
董卓の鋭い視線が今や毛利にのみ注がれており、彼が許容出来得る圧迫感の限界を超えていたからだ。
先ほど見せた漢気など、とうに霧散していた。
だから、といった訳でもないのだろうが、
「駄目だよ! 毛利に何かあったらどうするつもり!?」
「太尉董卓、毛利に左様な大任務まるとは思えぬ。考え直すのだ」
なぜか劉弁と劉協が毛利の代わりに抗弁するのである。
それでも董卓は、
「毛利よ、行ってはくれぬか?」
毛利を説き続けた。
「え、いや、その……」
「何だ?」
「わ、私が本当に……」
適任なのか、毛利はそう口にするつもりが尻すぼみになる。
が、董卓は察した。
「今一度言う、将機を出せぬ御主だから良いのだ」
「でしたら、宦官でも……」
直後、毛利は顔を顰めた。
宦官でも将機を顕現させる者が居た事を思い出したからだ。
慮植と皇上劉弁の身を争った者達を。
董卓もまたその事実を指摘した上で、言葉を続ける。
「そもそも、儂は宦官を信用しておらん。そしてそれは、良く良く知られている。故に、宦官を遣わしても、真摯に話を聞いては貰えぬ。この董卓の言葉は伝わらぬのだ」
「たとえ私が行ったとしても……」
「御主は儂や、妹婿である牛輔の庇護下にある事はよく知れ渡っている」
「でも……」
「それだけでなく、二代に渡る皇上の下で黄門を拝命し続けたであろう?」
「え、ええ……」
「加えて、丁原や呂布と浅からぬ付き合いがある」
その結果、外堀が埋め尽くされた。
毛利は声にならない呻き声を発する。
「毛利!」
「は、はい!」
「御主は儂に恩があるな?」
「はい……大恩がございます」
「丁原や呂布にもある。そうだな?」
「ええ。い、命の恩人です」
「だったら、助けてはくれぬか? 儂も……そして丁原と呂布とその家族が窮地なのだぞ?」
◇
毛利は并州軍の陣地へと向かった。
彼以外の者は室内に残ったままである。
まだ、詰めるべき話が残っていたからだ。
そしてそれは、毛利がいる場では出来ない類であった。
董卓が重々しく口を開いた。
「皇上」
「申せ、太尉董卓」
「この董卓、袁紹との約定通りに太尉を辞めさせて頂きます」
「……我らを見捨てるのか?」
董卓はその問いに、答えなかった。
結果としては、そうならざるを得ないからだ。
その董卓に対し、今度は劉弁が問うた。
「僕の家族を罠に陥れ、殺めた逆賊袁紹に、僕達を、漢を任せるの?」
その問いにも答えようとしない董卓。
劉協は勢いよく席を立った。
激しい音を立てながら、椅子が床に転がる。
「答えよ、董卓! 漢が滅んでも良いと思うてか!」
「そうでは御座いません!」
「では、何故じゃ!」
董卓は思った、「何故、暗黙の内に分かっては下さらないのか」と。
もう、限界なのだ。
名家として名高い文官達が政に携わろうとしない所為で。
優秀な者を幾人も役に就けるも、まるで焼け石に水。
人が、役人が全くと言って良い程足りないのだ。
何故か?
それは辺境出の、洛陽の事を何一つ知らぬ武官、董卓が位人臣を極めたからだ。
しがらみの無い野蛮人を恐れ、その下で働くのを忌諱しているのだ。
正すには元の、〝洛陽〟を良く知る者が権を握るしかない。
そうすれば必ずや、いずれは元に戻る。
その為には、董卓が権力から離れるしかない。
結果、自信を含め、一族が酷い仕打ちに遭おうともだ。
董卓は答えた。
「しかし、皇上の御前にて交わされし約定は守らねばあんりません。例えそれにより、苦々しくお思いになろうとも、耐えねばなりません。それが引いては、漢の為になりましょうぞ」
だが——
「嫌だ! 彼奴らは、彼奴らだけは、絶対に……絶対に嫌!」
幼き皇上の口から、男とは思えぬ女々しい叫び声。
その姿に、董卓は心を痛めた。
このまま真っ直ぐ育てば歴史に名を馳せる皇上となるであろうお方が、まるで女の如き癇癪を起こすなんて、と。
故に、漢は苦渋の決断を下した。
「ならば……この董卓が汚名を被るしかない、か」
全ては、自らが奉じる主の為に。
漢朝の為に、と。
◇
毛利は北宮を後にした。
丁原と呂布が居る、洛陽郊外の并州軍陣地へと向かう為に。
「毛利、御主が儂の認めた書状を丁原に直接渡せば、戦は必ずや回避される。故に、御主は殺されたりしない」
到底信じられぬ言葉だが、董卓を恐れた毛利には行くしかなかった。
その際、「呂布の屋敷に必ず寄る様に」とも厳命されて。
「だったら、手土産があった方が良いよね?」
劉弁に手渡された、非常に多くの饅頭を背負いながら。
出来立てなのだろう、美味しそうな香りが毛利の鼻をついた。
毛利が宮城の北と南を繋ぐ複道を通り抜け南宮に入った。
すると、そこには、
「わふっ!」
尻尾を振り乱す、巨大な赤犬が待ち構えていた。
「火山!」
獅子の如き、チベタン・マスティフ。
董卓の飼い犬である。
会うなりしきりと、毛利が背負う風呂敷を臭った。
「お前の饅頭じゃないんだよ。ごめんな、火山」
毛利は申し訳なく口にし、火山の前を通り過ぎた。
「わっふぅ」
だが、その後を追いかける火山。
どうしたのかと毛利が顔を向けると、首を横に振った。
「ん? そうじゃない? あ、一緒に付いて来るって事!?」
「わふ!」
最初の目的地である呂布の屋敷は、涼州軍に包囲されていた。
「おう、毛利! 漸く来たか!」
牛輔である。
「牛輔様、随分と物々しいですね」
「こうでもしねぇと、先走った奴等が呂布の屋敷を襲うかもしれねぇからな! そうなったら最後、間違いなく洛陽で戦が起きる!」
毛利は牛輔の案内の下、涼州軍を掻き分け、呂布の屋敷を訪れた。
屋敷の中は、人の気が少ない。
聞けば、殆どの家人が避難した後だとか。
だと言うのに、空気が張り詰めている。
それは、
「良く来たな、毛利。それに、牛輔殿。御主らが我らに引導を渡しに参ったのか?」
武具を身に纏った貂蝉の所為であった。
絶世の美も相まって、まるで〝戦乙女〟である。
だが、その背後に震える人影。
呂布の娘、呂姫がいた。
「……違います。先ずはこれを御受け取り下さい」
毛利は背の荷を解き、二人の前に差し出す。
「これは?」
貂蝉が訝しそうに問うた。
「饅頭です」
「なるほど、毒が入っておるのだな?」
「ち、違います! 皇上と弘農王劉弁様からの手土産です!」
「これは異な事。謀反人の家族になど……」
貂蝉は信じず、「やはり毒入りだな」と断じた。
その誤解を解いたのは、
「くぅーん、くぅーん、くぅーん」
包装された饅頭に鼻先を突き込み、悲壮な声で鳴いては貂蝉をつぶらな瞳で見つめた火山である。
呂姫が、
「母上、火山は食べたいと申しているのでは?」
明らかな事実を伝えた。
貂蝉が念の為と、
「欲しいのか?」
と問うと、火山はそれはそれは愛らしい声で、
「くぅーん!」
と鳴いた。
「呂姫」
「はい!」
母と娘、阿吽の呼吸。
呂姫が饅頭を手ずから取り出し、火山に——
「はい、召し上がれ!」
それを瞬く間に平らげた火山。
「くぅーん、くぅーん……」
直ぐ様次をお強請りした。
「はい、はい。分かってますよぅ」
そんな呂姫と火山を、微笑みを湛えた顔で貂蝉は見守る。
饅頭の半数が火山の腹に消えた頃合い、彼女は口を開いた。
「毛利」
「は、はい」
「父と呂布に言伝を頼めるか?」
「も、勿論です」
「有り難い。父には、〝いつも私の誇りでした〟と。夫には〝私も呂姫も無事だ。普通に過ごせている。貴方は、貴方のなさりたい様にして欲しい〟とな」