#023 執金吾丁原に謀反の疑い
執金吾丁原に謀反の疑い。
その事実は、とある日の朝議にて露わとなった。
「袁紹司隷校尉(中央の官吏を取り締まる。三品)、ふざけておるのか! 儂は皇上の信厚き者が担う〝執金吾〟だぞ!」
「その信任を裏切った証があると言っておる!」
「そんな物があるなら見せてみよ!」
「御前だぞ! シラを切る気か!」
「知らぬものは知らぬ!」
丁原を囲む刺股を手にした衛兵。
呂布が庇う構えを見せるも、無手では如何ともしがたい現状であった。
袁紹が董卓をチラリと見た。
「披露しても宜しいですかな、太尉。罪の証に足りぬなら我が首を差し出しましょうぞ!」
「……そこまで申すならば、止める道理はない」
袁紹はその場で拝礼し、
「皇上! とくと御照覧あれ!」
一人の武官に合図を送った。
「あれは西園八校尉の?」
「ああ、典軍校尉だ」
「確か、曹操殿だな」
曹操は巻物を携えていた。
見るからに高価な紙で出来た物を。
雅な装飾が施されたそれを、袁紹に手渡す。
手にした袁紹は皇上に恭しく差し出した。
代理として黄門荀攸が受け取り、皇上劉協にこれまた至極丁寧に献上す。
皇上は素早く紐解き、中身に目を走らせた。
刹那、氷の如く微笑みを浮かべていた顔が驚きの色に変わる。
続いて、わなわなと震えだした。
皇上は思わずといった体で巻物を傍の荀攸に投げ渡す。
受け取った黄門は意味を察し、読み上げた。
「我はここに宣する。一、世が乱れるは儒教に従わぬ皇室への天罰である。一、新たな皇上として大司馬(三公の太尉よりも上位だが非常設。一品)にして幽州牧であらせられる劉虞様を頂かん。光武帝の長子の末裔にして宗室の長なれば誰よりも資格がある。一、……」
一つ文が読み上げられる度に、劉協の顔から赤みが失せる。
そして最後に、
「血盟主、執金吾丁原」
首謀者として丁原の名前が挙げられた。
袁紹が皇上に向かい、ズイッと見上げる。
「丁原以外の者は既に捕縛済みでございまする! その者らは皆、首謀者らは丁原! まずは劉虞様を、そしていずれは大恩ある先帝を再び皇上にする、と息巻いてたと証言しております!」
「嘘だ! だいたいその巻物はとある文官が持って参った代物!」
「と言う事は認めるのだな、この巻物に貴様が名を記した事を!」
「署名はした! しかし、黄門荀攸が述べた様な代物ではなく、宦官や文官の給金を一時減らし、国庫に戻す内容だと聞いた!」
「聞いた? これは異な事! 署名するに際し、己が目で確認出来ようが!」
顔をこれでもかと歪め、真っ赤に染め上げた丁原は黙るしかなかった。
代わりに、口を開いたのが呂布であった。
「お、お、お、お待ち下さい!」
普段は寡黙にして控え目な男が、声を裏返してまで叫んだ。
義父に対して在らぬ疑いが掛けられ、「恥ずかしい」などと言ってはおれなくなったのだ。
「都尉ごときが朝議に口を挟むな!」
袁紹が怒鳴った。
当然だ。
呂布は執金吾である丁原の身を守る、その為だけの理由で朝議に参加を許されているのだから。
それとは逆に、
「許す!」
と董卓は言い放った。
呂布は皇上劉協に対して拝礼し、言葉を必死に絞り出した。
「ち、ち、義父は文盲にございます!」
それも有り得ぬ台詞を。
いや、官職に就く者には有ってはならぬ事であった。
故に、集音マイクが壊れたかの様に、朝議の場から音が消えた。
耳にツーンとくる、うるさい程の沈黙。
だがそれも、一人の男により破られる。
その者は声を立てて嗤ったのだ。
「袁紹殿! 皇上の御前ですぞ!」
「クヒッ……。いや、御無礼平に御容赦下さい、皇上。しかし、余りの世迷言に思わず堪えられなかった次第です」
袁紹は劉協に対して体裁を繕った後、改めて呂布と向かい合った。
そして、
「その証はあるのであろうな! でなければ、貴様も謀反人を庇い立てする者として裁かれようぞ!」
まるで用意していた台詞を棒読みするかの様に言葉を発したのだ。
呂布は「あっ!」と言わんばかりに口を開くも、直ぐに閉じた。
丁原の身の証を立てる、それが如何に難しいかを悟ったからだ。
それでも言わずに居られなかった。
「ち、養父は度々、私や他の者に書状を読み上げる様命じておりました!」
「それの何処が証になる! 忙しき時に文を読まねばならぬなら、誰でも側にいる配下に頼むであろうが!」
その通りである。
現に皇上劉協も、傍に侍る荀攸に読み上げさせたのだから。
「そもそも、文盲が執金吾にまで上り詰められようか! そうであろう、丁原!」
「そ、それは……今は亡き何進大将軍が……」
「何進様が文盲と知った上で、貴様を執金吾にだと!? いい加減にせよ! 先帝の叔父だぞ! 不敬も甚だしいわ!」
袁紹の言は正論である。
誰もが納得のいくものであった。
加えて、証拠がある以上、丁原の罪が晴れる事は決してない。
一人の武官が今一人を生贄に差し出す為、数歩前に出た。
「皇上、この曹操めにも発言の機会を」
「……許す」
良く知る者が聞けば分かる、込められた意は正反対であった。
「呂布都尉、その方は戯言を言いに罷り出たのか?」
「ざ、戯言では……」
「では、丁原が文盲である確かな証を示して頂きたい! ただし、本人に書を読み上げさせるなどはもってのほか。いくらでも読めぬふりが出来る」
「くっ……」
「そもそも、宮城において無能は罪、だ」
「余りに酷い言い様!」
「酷くなどない。恐れ多くも皇室を戴き、仕える事を許されし官は紛う事なき大任。である以上、自らの能以上の権を任じられし時は潔く辞さねばならぬ。それが引いては皇上の為となる。そもそも……」
儒教の基本に五つの徳「仁義礼智信」、すなわち五常ありし。
丁原は執金吾となる上で、少なくとも三つに悖った。
義、私利私欲に囚われない事。
智、学問に常から励む事。
信、嘘をつかぬ事。
「……以上の事から、皇に対する罪を犯したと言えるのだ」
曹操の目が、お前もその一人だと物語っている。
袁紹が、勝負あったな、と言わんばかりに、
「証拠はあり、証人もおり、反証する術が何一つない。これは決定ですな! 皇上、決裁を!」
声を張り上げた。
目線で皇上に促された荀攸が、
「太尉董卓!」
軍事を司り、この場を収められるであろう唯一人の名を呼んだ。
呼ばれた男は皇上に対して額突いた後、
「……先の証により、皇上への謀反の意があるは明らか! 故に謀反人を打ち首と処する!」
苦虫を噛み潰した顔で、刑罰を言い捨てた。
「そんな!」
呂布が悲痛な声音で叫んだ。
対する袁紹と曹操はと言うと、満足気な表情を浮かべている。
彼らの労した策が成ったからだ。
「ただし‼︎」
董卓が声を張り上げた。
直後、朝議の空気が一変する。
呂布の顔に期待の色が浮かんだ。
反対に、袁紹らの顔には戸惑いが表れている。
董卓は「ダンッ!」と音が鳴らんばかりに、前に一歩足を進めた。
「時の執金吾が謀反を企てた末の斬首など、新しき皇上を祝う門出にあってはならぬ! よって、丁原には閉門(謹慎の意)を命ずる!」
「そ、それは!?」
董卓の言に、二つの声が重なる。
呂布と袁紹、それぞれに込められた意は正反対。
即ち、時をおいた後に下されるのは助命か、それとも刑の執行か、だ。
だが、更に続く董卓の言葉がいずれの意味でも無い事を示す。
「丁原、袁紹の言は尤もである。つまり、此度の件は御主の落ち度だ。その上で、いや、敢えて言わせて貰おう、皇上の御為にも為すべき事を為せ、とな」
董卓は暗に自裁を求めた。
丁原は、
「………………配慮、感謝する」
とだけ答え、朝議の場をのそりと後にした。
「ち、養父上!」
呂布が慌ててその後を追う。
その姿を、百官が夢幻を見るが如く見送った。
一人がハッと気付く。
「董卓太尉! これは一体全体どう言う事か!」
袁紹だ。
彼は青筋を立て、感情を露わにしていた。
一方の董卓、彼は丁原が朝議の場を後にして以降、何処か余裕が見受けられる。
「先に言った通りよ」
「丁原を野に放てばそれ即ち、洛陽外にて野営する并州軍が蜂起するに決まっておろうが!」
「あの者に限り、その様な事は起きぬ。いや、この太尉董卓が起こさせぬよ」
「言ったな董卓! ならば! ならば、ならば、ならば! 并州軍が事を構える素振りを見せた暁には、必ずや太尉を降りると誓え!」
「ああ良かろう。ただし……」
「この後に及んで条件をつけるか!」
董卓は袁紹をじっと睨んだ。
「袁紹、御主に、この董卓の太尉に見合う価値ある物を、その命以外に有するのであろうな!?」
「くっ……」
袁紹は苦虫を噛み潰したような顔に変わった。
◇
司空府に戻った董卓、彼は内心穏やかではなかった。
それどころか、薄氷の上を正に歩いている気がしていた。
丁原は盟友だ。
いや、盟友だった。
この難局を乗り切ろうと、口にせずとも互いに手を携え合っていたのだ。
その丁原が罠に嵌められたとは言え、謀反の確たる証が白日の下に曝された。
庇い立てするなど、本来なら決してあってはならぬ事であった。
だが、してしまった。
それも中途半端にだ。
袁紹が危惧した通り、蜂起する可能性を大いに残して。
董卓の手が無意識に伸びた。
傍にいる白兎に対して。
膝の上にそっと乗せる。
そして、撫でた。
撫でて、撫でて、撫でた。
刹那、
「ぬっ……」
白兎は跳んで逃げた。
文字通り脱兎の如く。
それも、部屋の隅に向かって一目散に。
その姿はまるで、朝議の場を去る丁原の如し。
董卓は薄氷を踏み抜いた、そんな錯覚を感じていた。
眉根をもの寂しそうに寄せる董卓。
それを見兼ねたのだろうか、
「わふ……」
火山が董卓に歩み寄り、主の膝に巨体を預ける。
「ぬぅ、火山……」
「わっふー」
好きなだけ撫でろ、火山の顔はそう物語っていた。
それから暫く後、并州兵が城外の野営地に続々と集っているとの報せが届く。
それはまるで、敵襲に警戒するかの様に。
もしくはこれから、洛陽に攻め入るかの様に、であった。