#018 幕間 初めての洗髪日(2)
丁原を交えた所為か、話題はいつしか董卓の話となっていた。
「董卓様、働き過ぎなんだよなー」
「見てるのも辛い時がありますよね」
牛輔の声に、毛利が応じる。
更には丁原が、
「全くだ。あれをこのまま続けると、そのうち体を壊し、おつむもいかれるぞ」
同意を表した。
事実、件の董卓は身命を賭すかの様に、昼夜を問わず働いている。
鬼気迫る様子で。
(酒池肉林の董卓何処いった?)
今や董卓の顔が生来の穏やかさを取り戻すのは、膝の上に乗る白兎を愛でる時だけ、であった。
「執金吾丁原様、お願いです。洛陽の治安を司る貴方様ならご存じの筈。董卓様に良い人材を紹介して貰えぬでしょうか?」
「牛輔、そうしたいのは山々だが、実は儂も人に困っておるのだ。并州の、それも寒門の出である儂に従うのは余程の変わり者しか居らぬ有り様よ」
「何故に、これ程迄に洛陽の才人は出自に拘るのか……」
牛輔は悔しそうに歯を食い縛る。
「残念ながら、それが現実です。故に、丁原様を補佐する者も、この呂布を除けば張遼など数名のみ。宗室に連なる劉氏は勿論の事、世に名高い袁氏、陳氏も我ら辺境の出には人を出したくないと見えます」
呂布が見解を述べ、続けて丁原がその裏打ちした。
「この丁原や董卓にこれ以上の手柄を立てさせぬ様、手を回しておるらしいわ」
(うわー、政治の暗部を見たって感じ。いつの世も、下々の気持ち関係なく権力争いは続く、か。渦中にいないとはいえ、本当に嫌になるなぁ……)
現代人だからだろうか、毛利は完全に他人事であった。
「そういやぁ、毛利」
「はい?」
「お前、最近荀氏や司馬氏と仲良くしてるだろ?」
「え? ええ、させて頂いてますね。仕事上の関係だけだと思いますけど」
「なら、誰か董卓様を助ける様、頼んで貰いてぇんだが……」
「あー、頼むぐらいなら構いません。他ならぬ牛輔様の頼みですからね」
「すまねぇな」
「いえいえ、こちらこそ……あっ!」
刹那、毛利の脳裏に稲光が光る。
洛陽に隠棲する人材がいると耳にした事を思い出したのだ。
「どうしました、毛利黄門?」
「いえ、そう言えば、蔡邕なる類稀なる人物が洛陽にいるらしく」
「へー。ちなみに誰からだい?」
「治書御史の司馬防様です」
「出処は間違いねぇな。よし! 董卓様のお耳に入れておくか!」
「ええ。董卓様の仕事が少しでも楽になると良いのですが」
「他人事みたいに言ってるけど、お前もその役目を担っている事を忘れるなよ?」
「そ、そうでしたね……」
この時の毛利は、ファインプレー直後に失点に絡むエラーをした、そんな心境であった。
「時に、毛利よ」
「何でしょう、丁原様」
「宦官と上手くいっておらぬそうだな」
慧眼である。
毛利はこのところ、件の小黄門を含む宦官らとの間に問題を抱えていたのだから。
「何故か、ほとんどの宦官から喧嘩腰で来られてまして……」
毛利の嘆きに、
「なんか、宦官共の気分を損ねる様な事をしたんじゃねぇのか?」
牛輔が当たりを付けた。
「全く身に覚えがないのですが……」
「うーん、俺も董卓様も宦官を使わなねぇからなぁ……」
「丁原様は?」
「宦官では都尉は務まらぬ。荒事が多い故にな」
「ですよねぇ。でも、そもそも、董卓様は何故宦官を使わないのでしょうか? 人が足りぬなら宦官でも宜しいでしょうに」
その問いに答えたのは牛輔であった。
彼は声を小さくし、
「小便臭いからよ。彼奴らが近くにいると、火山が落ち着かぬらしい」
と言った。
「……小便臭い? え? なんで?」
その疑問に答えたのは、何故か貂蝉であった。
「陰茎を切り落とすとな、切った先から尿が垂れ、それを止められぬからだ。羊も馬も一緒だぞ?」
(羊や馬と一緒……。つまりは、実務経験者?)
「それにしても、男は有る物が無くなるだけで随分と難儀する物だな。女は元から無い故、大丈夫だが……のう、呂姫?」
まさかのノールックヒールパス。
この話題で話を振られるとは思ってもいなかった少女は、
「……お母様、私にその様な同意を求められても困りますです」
母親を恨めしそうに見ながら赤面していた。
一方の、男はみな「実の娘にお前は何て話を振ってんだ」的に沈黙を守っている。
と、思いきや、呂布が顔を赤くしながら恐る恐る、
「で、でもさ……、ちょ、貂蝉も良く、欲しい……欲しい……、早く……頂戴……ていうじゃない?」
恐る恐る口にしたのだが、その内容はまるでこの場に相応しくなかった。
貂蝉が「其れが何か?」とキリッとしてみせるも、首から上が徐々に赤く染まる。
逆に、丁原の顔色がどす黒い物に変わった。
(あわわ……)
気不味い空気はたちまち広がり、毛利は耳鳴りを覚え始めた。
その刹那、
「……あ! あああああ!」
毛利が声を上げた。
「きゅ、宮中のい、至る所が小便臭いのはその所為でしたか!」
淀んだ空気を打ち払うかの様に毛利が呂布の発言をなかった事に、もとい話題を一つ前に戻す。
その考えを察した牛輔、直ぐ様それに応じた。
「そ、そうなんだよ! あやつらの前で臭いを嗅ぐ真似をしてみろ、一生恨まれるぞ! 馬鹿にされたと勘違いしてな!」
「え、ええ!? しちゃいましたよ……。もしかして、それでかなー!?」
丁原もまた、この話の流れに乗る。
「……宦官共はあれで随分と気位が高いそうじゃ。切り落とした一物を〝宝〟と称して大事にしている癖にのう」
「へー、正に、お珍宝!」
毛利のオチにより大爆笑……となる訳もなく。
貂蝉を除いた者らの、乾いた笑いが辺りに響いた。
その貂蝉、一人浮かぬ顔をしていたかと思うと徐に、
「毛利よ」
と深刻そうな声音で。
「な、なんでしょう、貂蝉様(何だ? 一体何を言う気だ?)」
毛利は身構えた。
「切るなよ?」
「切りませんよ(何を言うかと思ったらそれか!)」
「絶対に切るなよ?」
「切りませんって!(てか、あんた話戻さないでよ!)」
「だが、万が一切り落としたなら、後生だからお宝を見せてくれまいか。な、呂姫も見たいよな?」
「……お、お母様、……………………た、確かに見てみたいのです」
(その歳にして見たいのかよ! 似た者親子だな!)
再び、皆が閉口した。
と、思いきや呂布が、
「それ程迄に見たいなら、戦に出た際、幾つかもいで帰りましょうか?」
男性陣が一斉に股間を抑える。
その側で、母娘が嬉しそうに「いいの?」と尋ね返していた。
いつしか、日が落ち始める時刻に。
毛利らがお暇を告げると、家人が総出となり、門前にまで見送りに出てきた。
「いや、楽しい時間を過ごせました。丁原様、呂布様、呂夫人、誠に有り難く。また、様々な好意に助けられました」
「何の何の、我らは共に辺境の出。そして今や、共に宮中にて切磋琢磨し、皇上を支える臣。当然であろう」
牛輔と丁原による謝辞交換。
その傍で見ていた貂蝉が呂布に身体を預けたかと思うと——
「ねぇ、旦那様ぁ……」
「どうしました、貂蝉?」
「少しばかり、体が熱を持ち始めたやも知れぬぅ……」
発情期到来のお知らせ。
すると、二人の会話を聞いていた、と言わんばかりに火山がするするっと貂蝉に近づいたかと思うと、彼女の尻の匂いを荒く嗅ぎ始める。
「あら? ん、いや……んんっ……」
「ちょっ、火山! やめなさいって!」
「呂夫人、すまぬ。この無礼は董卓様からも詫びを入れて貰う故……」
天下無双である呂布の手前か、大いに慌てる二人。
それを知ってか知らずか、火山は「にへらっ」と満足げな顔を浮かべたかと思うと、
「ウォ! ウォーーーーーーーーーン!」
大いに長く、遠吠えたのであった。
毛利を官舎まで送り届けた後、牛輔は——
「あれ、牛輔様? これから何処へ?」
「司空府に急用が出来てな。それに、董卓様がまた遅くまで働かれているかと思うと、心配でよぉ」
「それなら私も……」
「いや、お前は来なくて良い。董卓様とは涼州兵に関する秘事も話し合いてぇし」
「分かりました。ただ、くれぐれもお気をつけ下さい」
「……それは毛利、お前の方だぜ」
「え?」
「乱は天より降るにあらず、だ」
「???」
牛輔は足早に司空府を訪れた。
どうしても、確かめねばならぬ事が出来たからだ。
董卓は疲労と、油汗に塗れた顔でそんな牛輔を迎える。
「如何した、牛輔」
牛輔は呂布の家での宴、その一部始終を語った。
「丁原が毛利を取り込む素振りはございませぬ」
「そうか。確認、ご苦労であった」
「ですが、気になる事が一つ。ただ、果たしてそれを董卓様に尋ねて良いやら……」
「……それ程迄に、口にし難き事か?」
董卓の勘気に触れるのが恐ろしい、牛輔はそう思っていた。
しかし、触れずに済ましても、眠れぬ夜に苛まれそう。
牛輔は意を決し、己が気付いた事を口にした。
「……そうか、火山の奴が。それで牛輔、御主は勘付いてしまったのだな?」
「はい。私もあの日、火山の振る舞いと董卓様が驚きの余り目を見開かれていたのを目にしておりましたので。加えて、本日初めて耳にいたしました毛利の言により。それでは、やはり……」
「それ以上は口にしてはならぬぞ、牛輔! 決して! 決してだ! 例え、己が口が裂かれようともな!」
「無論、承知しておりまする! 寧ろ、知った者が私一人かも知れぬと言うのが、知り得た直後から恐ろしくて、恐ろしくて……」
牛輔はえずき、今にも吐きそうになる。
董卓は牛輔に無用な心労を掛けさせてしまった事を謝り、その上で、その場にいた他の者らの反応を尋ねた。
「毛利めはまるで気付いておりませぬ。ですが、いずれは……」
「黄門の中でも特にお側に侍る身、いずれ気付く分には仕方がなかろう。問題は丁原や呂布の方だ」
「呂布殿は朴訥な御仁、気にしておりますまい。ですが、丁原殿は……」
「辺境、寒門の出ながら執金吾にまで登り詰めた男だ。もしかすると、知られたやもしれぬな」
董卓は盛大な溜息を吐いた。
それを目にしていた火山が、
「くぅーん」
と鳴き、甘える。
「全く、お前と言う奴は……」
そう口にしながらも、董卓は愛おしそうに笑った。