#016 過労臭がする
工場見学で見聞きしたうろ覚えの知識〝子供にも出来る鉛筆の作り方〟を教え、ようやく解放された毛利。
彼はほうほうの体で皇上の待つ北宮へと上がった。
「なんてだらしない! それでも黄門ですかぁ?」
「歩きながら欠伸しない! 目を擦らない! 立ったまま寝ない!」
「全く! なんて体たらく!」
「どうせなら、同じ黄門でも由緒正しい家柄である荀攸様の下に仕えたかったですよ!」
小黄門である李黒による小言を聞かされながら。
(いやいや、俺が望んで貴方を小黄門に付けて貰った訳じゃないからね? クレームを言うなら董卓でしょうが。言えないから、俺に八つ当たりしてるんだろうけど)
やがて、侍女に扮する唐姫の前に。
昨日と同じく毛利だけが彼女に連れられ、更に奥へと入った。
(また、あのお歴々に囲まれるのか。緊張するなぁ……)
だがそこには——
「ご機嫌麗しゅう、皇上……」
「劉弁!」
「失礼しました。ご機嫌麗しゅう、劉弁様。ならびに……あれ? 今日は劉弁様だけ?」
「そう、今日は君と僕だけさ」
すると、部屋の壁際から、
「ん、ん!」
喉を鳴らす音がした。
「ごめん、ごめん。唐姫もね」
「左様でございましたか……」
「何だいそれは? もしかして、お母様がいて欲しかった、とか?」
「いや、どちらかと言いますと、劉協様ですね」
途端に難しい顔をする劉弁。
「そ、それはどうしてかな? 事と次第によっては僕でも許せなくなるけど……」
部屋の空気が張り詰め始める。
「え? なんで……(なんか、急に空気が重くなった)? 賜った饅頭のお礼を言いたかっただけなのですが。お陰様で上役との関係が円滑になりましたので」
毛利のその言葉で、緊張の糸が瞬く間に解れた。
「そ、そうなんだ。それは良かった!」
「そう? でも、劉弁様が左様に嬉しがる事ですか?」
「だって、そ、それはつまり……君の居場所が洛陽城の中に整いつつあるって事だよね?」
「まぁ、そうですね(その所為で、近い将来死ぬかも知れないけどな)」
喜色満面の劉弁とは裏腹に、何故か気落ちする毛利。
部屋の隅に一人立つ唐姫が「ん?」と首を傾げた。
「時に毛利。何処か体の具合が悪いのかい?」
「え? それはまたどうしてでしょう?」
「目の下の隈が酷いよ。もしかして、夜、眠れないとか?」
「……慣れない事が続きましたから。あと六日もすれば改善すると思われます(夜間行軍がその日で終わるしな)」
「そうか……」
劉弁は酷く顔を曇らせた。
彼が良かれと思い手配した地位が毛利を苛んでいる、と知れたからだ。
「ところで、どうして今日は劉弁様だけなのでしょうか?」
「実は皆、務めに忙しくてね!」
「(国のトップである皇上が俺とのんびりお茶しているのに? ブラック企業の典型ってやつだな。もしくは……)劉弁様も本当はお忙しい筈。無理して私ごときにお時間を割いて頂いたのでは? そうであれば、流石に心苦しいのですが」
「大丈夫! 僕は朝議に出たから。それに、朝議に出る前は近侍らと共に、念入りに準備もしたからさ」
「へぇー、まるで本物の皇上みたいですね」
「本物も何も、僕は正真正銘の皇上だからね」
「先日は、聞き流すだけ、と仰られてませんでした?」
「さ、さすがにあれは冗談だよ。き、君を試したのさ」
「左様でしたか(……何の為にだよ。って今日は疲れてるから、口にしないけどね)」
「おや? なんだか今日は、いつもの毛利らしくないね。普段の君ならもっと問い詰めて来ると思ったのに」
「(ギクッ!)そ、その様な事は……」
挙動不審の毛利。
目を細めた劉弁が毛利に肉薄し、鼻先を毛利に押し付けた。
——すんすん
「お、おぉう!?」
「過労臭がする……」
(なんだよそれ!)
「さては……本当に疲れれているみたいだね。なら、少しは横になるかい?」
「いや、流石にそれは……」
「皇上の前だからといって、遠慮は無用だよ。君と僕の仲じゃないか」
「君と僕の仲って……ただの主従関係……ですよね? それも、随分と身分差のある」
「母様曰く、それのお陰で父様とより深い仲になれたとか。つまり、僕と毛利ならそれも可能!」
(いや、男同士で深い仲って……)
毛利がドン引きした目で皇上劉弁を見返すと、彼は自身の腕で体を包み込んだかと思うと、ぶるりと体を震わした。
「……よい」
「劉弁様?」
「……あ、冗談だよ、冗談。唐姫、そんな顔をしないで。毛利も明から様に距離を取らないでよ。そんなに君を困らしてしまったかい?」
「いや、その……」
「だが、君のその困った顔もまた、中々の趣があるよ」
「ちょっ、本当、悪い。俺にそのケは……」
「ふふ、ごめん、ごめん。さぁ、お詫びにといってはなんだが、ここで横に成りたまえ」
「いや、でも……」
「ここ」とは劉弁が腰を下ろした、正にその真ん前。
流石に毛利は困惑し、皇上の命とは言え、その通りに応えるのを憚かられた。
「命令だ。横になれ」
すると、劉弁の声がキツイ物に変わる。
「わ、わかりました、劉弁様……」
毛利はしぶしぶ、横になった。
「目を閉じて」
「はい……」
「体の力を抜いて……」
すると、室内に寝息が響き始めた。
毛利が寝入ったのだ。
「本当に、随分と疲れていたんだね」
毛利の顔に近づける、まじまじと見る劉弁。
その距離が限りなくゼロに近づく。
白く細い手が、愛おしそうに毛利の髪を梳いた。
すると、唐姫が幾分申し訳なさそうに問い掛ける。
「何故、その様な庶人に過分な配慮をされるのですか?」
劉弁はきっぱりと答えた。
「顔が好みだったから」
「……」
「嘘嘘。ごめん、唐姫。そんな顔しないで。本当は、もう、何もかも嫌になって黄河に身を投じようとしたら、毛利が僕の目の前に現れて止めてくれたからさ」
まるで、将機が顕現する時の如く忽然と。
その時、劉弁は天意を得たと感じたのだ。
毛利にしてみたら、ただの偶然である。
「将機同士が争う死地を彼の背に揺られながら逃れた時、僕の鼓動はもう如何にもならない程高鳴っていた。傍にいる劉協に、その音が届いていると思う程にだよ」
「それ程迄に……」
束の間の沈黙。
穏やかな時間が流れた。
「……ねぇ、唐姫。この日々が後どのくらい続くと思う?」
「……」
「五日だろうか? それとも十日だろうか? ……できれば、後生だから一月は続いて欲しいよ」
唐姫は重ねて問われるも、答えられないでいた。
その瞳に涙が浮かび始める。
「それぐらいあれば、毛利を一人洛陽に残しても、僕は安心して旅立てる」
最初の一粒が頬を伝った。
「勿論、唐姫、君の事を忘れてはいないさ。お母様や董卓には頼んだよ。新しい、本当の意味での夫に君を託せる様にと」
「お、お戯れを。この唐姫、劉弁様の妃以外の何者にもなる気はございませぬ」
と答えた唐姫の声は、僅かに震えていた。
「……ごめんね。僕とお母様の我儘の所為で君と君の……」
「いえ、それだけは言わないで下さいまし。私と私の家の誉を汚さないで下さいまし……」
見つめ合う二人、その瞳からは大粒の涙が幾つも溢れた。
◇
宮中の力関係が、董卓入洛後の僅か数日で変化の兆しを見せ始めた。
その要因の一つが、董卓司空と董旻左将軍らが率いる涼州勢による何進大将軍、何苗車騎将軍らが率いていた軍兵の吸収、であった。
日々入洛し続ける涼州兵、将軍を欠いた兵らは恐れ慄き、董卓に降ったのだ。
結果、洛陽およびその近郊で最大の軍事力を持つ存在となった董卓。
より強大となった自らの兵力を梃子とし、袁紹や袁術ら代表される軍閥をも屈服させる至った。
世に名高い〝中平六年の政変〟が起きてから、僅か数日後の出来事である。
それから更に十日あまり後、涼州軍の本体が洛陽入りした。
直後、董卓は大尉(三公と呼ばれる政の最高職の一つ。軍の最高権力者。一品)に就く。
この一連の動きは、来る動乱の幕開け、とも言えた。