#015 田豊
朝、何処かで鶏が鳴いた。
その音の下、毛利は眠い眼を擦りながら客を迎える。
「おはようございます、呂布様」
「ええ、おはようございます。今日も一日、ほどほどに頑張りましょう」
「はい。ほどほどに頑張ります」
兵装を纏った上でのランニング、からの掛かり稽古。
(ほどほど、は何処いった……)
鼻歌混じりに繰り出される呂布の一方的な打ち込みを、盾で受ける。
それだけで毛利は「もう、ヘトヘト」であった。
「随分と疲れが残っている様子。昨夜は良く眠れませんでしたか?」
「……え、ええ、実はそうなんです」
夜を徹する涼州兵水増し作戦に従事した上に、偶然発見した賊を相手に初めての実戦を経験……と言うか、守られながら観戦した毛利。
その後、急ぎ足で洛陽に戻ると言う強行軍の為、彼はほとんど眠れていない。
しかしそれは、辺境出身同士半ば同盟を組んでいる并州軍、つまり丁原や呂布らにも秘密であった。
「やはり……慣れない仕事の所為でしょうか?」
「そ、そんな感じです。呂布様は?」
「私はこう見えても寝付きが良い方でして。ただ……」
「ただ?」
「愛する家族と離れて一人で眠るのは、慣れたとは言え寂しい物です」
分かりますよね? と言わんばかりの呂布。
現代から古代中国に、親元から遠く離されてしまった毛利は「えぇ、本当に……」と目立たぬ程度に瞳を濡らしつつ答えた。
「それも、後三日の辛抱ですが」
「ああ、洗髪の日ですね」
この時代の休日だ。
五日に一度訪れる。
「ええ、本当に待ち遠しいです」
「洗髪が?」
「まさか、妻とその手料理を味わう日が、ですよ」
「(妻とその)手料理ですか。(ごくりっ……)いいなー、凄く羨ましいです」
「そうですか? では、毛利さえ良ければ、我が家に招きましょう」
「え、良いのですか? 折角の、夫婦水入らずの日に」
「問題ありません。娘もいますから」
「ええ、でも……」
「娘の話し相手になって貰えると、妻も喜びます」
「そこまで言っていただけるなら。では、お言葉に甘えさせて頂きます」
「そうだ。護衛に付いている、涼州兵の分も用意させましょう」
「ええ!? 流石にそれはご迷惑では?」
「ふふふ、いつも作り過ぎ、料理が余るのです。その代わり、お酒は出せませんけど」
早朝訓練を済ませた後、毛利は朝の政務に就く。
就業開始時間前の司空府司空執務室、董卓は既に仕事を始めていた。
(董卓も完徹の筈。なのに、顔に疲れは全く見受けられず、か)
唯々平然と。
恐るべき体力、溢れるバイタリティである。
その董卓が、
「おい、今少し近くまで来い」
凍てつく声を発した。
部屋にいるのは董卓と毛利のみ。
毛利は肝を冷やした。
「は、はい……」
言われるがまま董卓に寄る毛利。
彼の視界に、赤犬火山と白兎と白猫、更には黒い猫が映る。
(あれ? 一匹増えてない?)
毛利のその思考は、董卓による次の言葉で吹き飛んだ。
「毛利、皇上に入れ込むな。身分が違う故、後々酷く苦しむ目にあうぞ」
「はぁ……(入れ込むって……皇上である劉弁は男だし。あぁ、董卓がこの後悪政敷くんだっけ? その際、劉弁になにか良くない事が起きる、いや、起こすのかな?)」
「それとな」
「……はい」
董卓がずいっと毛利に顔を近づける。
思わず一歩さがりそうになる毛利。
それは辛うじて堪えられた。
「この火山に、皇上から賜った饅頭を呉れたそうだな」
地獄の谷間から昇る悪魔の声、毛利にはそう聞こえた。
「!(な、なぜばれたし……)」
董卓は官吏を処断する権を有する司空。
皇上の思し召しで黄門となりし毛利であっても、それからは逃れられない。
(くっ! 最悪、牛輔も巻き込んで……)
だが、続く董卓の言葉は意外な物であった。
「コレがあんなに喜ぶのは久しぶりに目にした」
「……へ?」
「わふっ! わふっ!」
「……火山(尻尾をそんなに振る程、嬉しかったのか)」
「感謝する」
「そ、そうれは何より。さ、差し上げた甲斐がございました……」
毛利は緊張の糸が途切れ、その場にへたり込んだ。
積み重なる疲労の所為もあるだろう。
「おい! 大丈夫か、毛利?」
「だ、大丈夫です、董卓様」
「そうは言うが……仕方がない、しばらくは火山に背を預けていろ。この董卓もそれだけで疲れが癒える故にな」
「(アニマルセラピー?)か、過分なご配慮、痛み入りまする」
「気にするな。それにお前はもう、我が配下だ。気遣うのは当然よ」
昼過ぎ、この日の務めを終えた毛利は司空府を出た。
その入れ違いに丁原が董卓を訪れていた。
険しい顔を隠す事もなく。
(何か大問題でも起きたのかな?)
丁原はこの洛陽の治安を預かる責任者。
あれ程の表情を浮かべたなら、余程の事だと想像出来る。
だが、毛利はそれどころではなかった。
丁度南宮に入った所で、守宮令である荀彧に声を掛けられたからだ。
「おや、我が子房の荀彧様ではありませんか?」
荀彧は嫌な顔をした。
「……この後少し時間がありますか? 良ければ、同じ黄門である荀攸と、その他に貴方と一度話したい者と顔合わせを、と考えているのですが」
「ええ、問題ありません。寧ろ、私からお願いしたいぐらいです」
そこには、荀攸の他に、
「田豊……は昨日お会いしましたな。では、こちらが治書御史(法に基づいて事件を処理する職、言うなれば検事。六品)・司馬防様と司馬朗殿でございます」
が待ち構えていた。
(……ん、司馬? 三国志の最終的な勝利者、司馬懿の関係者かな?)
毛利がその名を聞き身構えた相手、司馬防は四十代前後の、厳格そうな、それでいて知性に溢れた姿形をしていた。
一緒に紹介された十代後半の青年、彼の長兄である司馬朗もまた、如何にも司馬防の子、であった。
尚、〝司馬〟の名が表す通り、代々軍事を司る家系だ。
だがそれだけでなく、内政官としての名声もこの一族は有している。
ちなみにだが、司馬防自身はその生真面目な性格が災いした所為か、血筋程出世はしていない。
宦官が宮中を取り仕切っていたからだ。
本来なら洛陽周辺の太守ないしは、宰相にまで上り詰める程の人物だと言うのに。
史実では若き日の曹操を推挙した人物としても有名である。
「黄門の毛利です。若輩の身ですが何卒……」
「けぇー、堅苦しいねぇ。それよりも、早速情報交換といこうぜ! あ、毛利は聞いてるだけで良いからな」
毛利の挨拶を途中で遮ったのは、田豊であった。
「は、はぁ……(なら、なんで呼んだのさ? 早く帰って今夜の作戦に備えたかったに……)」
当然の疑問。
だが、田豊の目論見は別にあった。
それはしばらく後に判明する。
「司馬防様、董卓の軍勢がまた増えたとか」
「らしいですな。夜明け前に入洛したのを見た者がいたらしく」
(そ、その中に私いました……)
「そうそう。それを聞いて袁紹様や袁術様は勿論の事、袁隗様も流石に顔を青くしてたらしいぜ」
袁隗とは汝南袁一族の現当主であり、且つ文官における実質的な最高位である三公(司空、太尉、司徒)を長く務めた実績を有し、それだけでなく現皇上劉弁の太傅(一品。皇上の指導官。三公の上に位置するが名誉職でもあった)である。
ある意味、洛陽に詰めている文官の総元締めと言えよう。
「王允様からも、事実なのか、と度々尋ねられました」
毛利が聞いても良いのか悪いのか、雑談を交わす四名の官吏。
その傍で同年代らしい若者同士が——
「父の政務の傍、貴方の字を拝見させて頂く機会がございました」
「うん?」
「思ったのですが、余りに下手過ぎませんか?」
マウンティングとばかりに言葉を交わしていた。
「す、すいません。竹や木に字を書いた経験があまりないので」
「それは異な事を」
「何がです?」
「竹札や木札に書かずして、何に書くと言うのでしょう? 砂ですか? それとも、岩ですか?」
「え、紙?」
その刹那、とある官吏が笑い声を立てた。
「い、言うに事欠いて、紙、に字を書いていただとよ!」
田豊である。
だが、それもその筈。
この時代、紙はたいそう貴重な品であった。
比較的裕福な蔵書家、官吏であっても百巻も本を集めれば、その家が傾く程だ。
毛利がそれ程高価な紙で字の手習いをした、有り得ない事なのである。
「毛利、お前はどこぞのお大尽様の子か?」
(お大尽様?)
「宗室の隠し子やも知れぬな」
(宗室?)
「いやいや、蔡邕様の内弟子かも知れません」
蔡邑とは、この当時天下一の博識と名高い学者である。
前々皇上が自ら招聘するも断る事を許され、前皇上の政治が拙いと諌めても許される程に。
但し、宦官には疎まれていた。
彼らによる政道壟断を皇上に対して直訴したが故に。
「蔡邕?」
「御主の言う紙をこよなく愛し、万にも届く書を有する学者であり、政にもすこぶる明るい官吏でもある」
「へぇー」
「ふむ、それも知らぬか。良し、いずれ引き合わせてやろう。洛陽に隠れ住んでいるからな」
「そ、そうですか? ありがとうございます?」
「これだ。司馬防様が蔡邕様を紹介頂けると言うのによー」
「まぁ、良いではありませんか。彼はまだまだ年若いのでから」
「荀彧はお優しいこって」
荀彧は眉目秀麗だから余裕の余り優しさを見せている訳ではない。
幼少のみぎりに宦官の娘を娶り、既に家庭を築いているからでもない。
毛利に教えられた応急処置の具合が、思った以上に良いからであった。
「だが、この司馬朗には疑問だ。紙で書き損じた場合は木札と違い、削って書き直せぬ」
竹簡だろうが木簡だろうが、文字を書くには墨を用いる。
それが、この当時の常識だ。
一方の毛利はと言うと、
「そこは鉛筆と消しゴムを使ってましたから」
些か違った。
眠い眼を擦りながら、聞かれた事に素直に応じる。
「鉛筆?」
「消しゴム?」
「ええ。あれ? ご存じない?」
知らなくて当然。
二千年近い歴史の差があるのだから。
しかし、毛利は失念していた。
否、頭が働かなくなっていた。
全ては昨夜から夜明けまで続いた、軍事行動の所為だ。
「知らぬ。何だそれは?」
「鉛筆とは細い棒状の木片に炭と土? で練った芯を入れて作る筆です。紙に書き易く、墨汁を使わないので滲みません。消しゴムはゴムの木の樹液を固めた物です。鉛筆で書いた字を消すのに使います。まぁ、饅頭くずでも消せるとは思いますけ……ど……」
いつの間にか毛利を「絶対に逃がさぬ」とばかりに囲む三名の官吏。
その筆頭格である司馬防が誰よりも近付き、
「ふむ? 詳しく教えてもらおうか?」
身を乗り出し尋ねた。
(ち、近い! それに、おっさんの吐息が熱い! ……って、しまった! 思わず余計な事を口に。ああ、俺は一体何をしているんだ……)
その影で田豊はニヤリと笑い、
「思った通りだ。誘った甲斐があったってもんだ」
一人ほくそ笑んでいた。




