#011 荀彧に「我が子房!」と言ってみた
#011 洛陽城での新たな日々(3)
「あのー、守宮令様はこちらですかー?」
毛利が中を覗き込む。
そこは薄暗い、倉庫の様な一室であった。
「少々お待ち下さい」
奥の方から声が返ってきた。
毛利が視線を向けてみると、整然と並べられた棚が奥の壁まで続き、人の姿を見え辛くしている。
足元に視線を転じてみれば、床には埃一つ落ちてはいない。
部屋の主の性格をよくよく表していた。
やがて、返答したと思わしき人物が現れた。
黒々とした長髪の毛先が綺麗に整えられた、白磁の如き肌色をした長身痩躯の男が。
切れ長の瞳は淡い光を受け、僅かに輝いて見える。
すっと通った鼻筋の下には、引き締まった唇。
見る者に強い意志を感じさせた。
端的に言うならば知的な美男子、それがゆるりと歩きながら毛利に近づく。
垂れた左腕が痛いのだろう、明らかに庇っていた。
「すいません、お忙しい中。私は先日黄門を拝命した毛利と申します」
毛利は教えらえた通りに挨拶を交わす。
すると、
「!?」
官吏が大きな目を剥いた。
「……(なんなの、俺の名を耳にしただけでこの反応は?)」
かと思いきや、
「………………し、失礼……致しました」
言葉を絞り出したのだ。
「(ああ、この官吏は俺の事を良くは思ってないのだな……)いえ、お気持ちは分かりますから」
例えるならば、つい最近下の学年に転校したきたばかりの後輩が部活のエースに抜擢された、であろうか。
毛利は目の前にいる官吏の戸惑いを、その様に理解したのである。
「さ、左様ですか……」
それでも、この官吏は緊張を解こうとはしなかった。
その証拠に、
「して、如何なる用にございましょう?」
声と顔が強張ったまま、である。
「董卓様から守宮令様に言伝を頼まれたのです。守宮令様はおられますか?」
「これは大変な失礼を。私が先日守宮令を拝命した荀彧、豫州潁川郡の出です」
今度は毛利の顔が引き攣った。
「じゅ、荀彧? 貴方があの荀彧?」
にわか三国志ファンですら知る、三大英傑曹操の軍師にしてその覇業を支えた最大の功労者、であったからだ。
「左様、荀彧です。貴方の仰る〝あの〟の意味は存じませんが」
「お、おお、おお!(三国志ネタしか知らない俺でも知っている! 曹操を天下に導いた天才軍師! その曹操がこう口にしたとか……) 我が子房!」
興奮のあまり、荀彧の手をひしっと取ろうとする毛利。
対する荀彧は尻込みした。
「な、何ですか、君は急に!」
「失礼し致しました! 荀彧様の名を聞きつい……」
「私の名を知り興奮した……」
実はこの荀彧、若い頃から〝王佐の才〟と称されるほどの才気溢れる青年であった。
しかも、名門荀家に連なる一人。
周囲が放って置く筈がなく、様々な人が彼を訪れ、交友を深めていった。
中には変わった者もいただろう。
だが、あっていきなり「我が子房!」と叫ぶ奇特な、いや不躾な者、いや埒外の者はいなかった。
毛利の予想できない挙動に、荀彧は元々あった警戒心を更に強める。
それは声色にも現れていた。
「……この守宮令に何用ですかな、黄門・毛利」
「あの、竹簡を司空府に届けて欲しいらしく……」
「分かりました。後ほど届けさせます」
さぁ、用が済んだなら帰れ、的な雰囲気を醸し出す荀彧。
毛利は無論、それを察した。
(何てつれない対応。折角、あの荀彧と出会えたのに。残念無念……)
だがそこに、
「おーい、荀彧! 俺だ、田豊だ! 怪我の具合はどうだ!?」
新たな官吏が登場する。
(田豊? 聞いた事がある様な、無いような……)
首を傾げる毛利。
対面する荀彧はと言うと、ただでさえ白い顔から血の気が引いていた。
「お、ここだったか荀彧。左腕の具……と来客か?」
田豊と名乗った官吏が、荀彧以外の者が室内にいる事に遅れて気付いた。
「うわっ!? も、毛利黄門! じゅ、荀彧、な、なんでコイツがここに!?」
問われた荀彧はと言うと、俯きプルプル震えている。
毛利が仕方なく、代わりに答えた。
「……どうも初めまして。ご承知の通り、昨日、黄門に任じられた毛利、洛陽の北東にある小平津の出です。董卓様の命で竹簡の手配を頼みに参りました」
「お、おう! ドウモハジメマシテ、侍御史(皇上のお側に侍る弾劾官。七品)ノ田豊デス!」
「……」
田豊の巫山戯た調子の所為で、微妙な空気が室内を満たす。
毛利は耐え切れず、話題を変えた。
「……それにしても、荀彧様はお怪我されてるんですね? 一体、どうされたのですか?」
部屋の空気が更に硬化した。
(なんで? 俺、なんかしたの? あぁ、そっか。これも馬の骨が黄門に就任した所為か……)
参ったなぁ、天才軍師と名高い荀彧に嫌われたくないぞ。
毛利はその一心で、
「……良ければ怪我を見せていただいても? こう見えても、応急処置の心得はありますから」
と口にした。
「え!?」
余程、以外な提案だったのだろう、荀彧と田豊が声を揃え固まる。
毛利はその隙に、患部の具合を診た。
大きく腫れ上がった左前腕。
痛み止めの湿布代わりなのだろうか、濡れた葉が巻かれている。
「うわぁ、ポッキリと折れてますねぇ。酷く痛みませんか?」
「え、えぇ、まぁ……」
「医者には?」
「……訳あって見せられないのです」
「ふぅん?」
流石に訝しんむ毛利。
(左腕が物の見事に折れてる。つまり、昨日俺を襲った賊が負った傷と同じな訳だが……………………。荀彧って、名家中の名家出身だよな? そんなやんごとなき身分のお人が、何処の馬の骨か分からん俺をわざわざ襲うかね?)
すると、田豊が口を挟んだ。
「じゅ、荀彧が転けた拍子に骨を折ったんだが、この通り我慢する程気位の高いやつでな。恥ずかしがって行ってないんだわ!」
「なるほどー」
と毛利は上の空を装って答えつつ、手近にあった竹を取り、荀彧の折れた腕に当ててから結わえた。
副木としたのだ。
その上で布を一枚貰い、それで三角巾を作り、首から吊るす形で固定する。
「少なくとも腫れが引くまではこのままが良いでしょう。良く冷やし、それでも腫れが酷くなった場合は心臓より高い位置に患部を置いて下さい」
「……良くご存じですね」
「ついこないだ、学校で習ったんです」
「学……校?」
「ええ、学校です。防災訓練の一貫として、先生から怪我をした時の応急処置を、ね」
「防災訓練? 良く分からねぇ、言葉だな」
「……失礼ですが、その先生の御名は、華佗、にございましょうか?」
「? いいえ全く違いますね。ちなみに、誰ですそれ?」
「華佗をご存じない。そうですか……」
華佗とはこの時代の、知る人ぞ知る医師、的な奇跡の担い手である。
ただし、医界では知らぬ者がいない程高名であった。
「そんな事より、折れた箇所を動かさないようお願いします」
「なぜだい?」
「骨折すると骨の中にある血管が断裂し、内出血が起こります」
「骨の中の血管……」
「内出血、ねぇ」
「はい。その血が折れた骨と骨を繋ぎ、軟骨が作られ、軟骨がやがては硬い骨となるのです」
「血が……軟骨に……」
「軟らかい骨が、硬い骨になるってぇのか?」
「ええ。ですから、魚や卵、キノコを良く摂って下さい。魚は骨ごとです。丸ごと食せる、小魚が特に良いでしょう」
「小魚を?」
「骨を摂れば、骨に代わる?」
「ええ。魚の骨に含まれているカルシウムが折れた骨に効くのです。しかも、気質が穏やかになります」
おお、そうだ! 怒りっぽいあの人にも勧めてみよう!
一人得心する毛利。
そんな彼を、田豊がニヤニヤしながら見つめていた。
「兄ちゃん、面白いこと知ってんな。他にも何か知ってたら教えてくれよ。頼むよ、な?」
しかも、随分と馴れ馴れしく。
「え、ええ……(なに、この人。なんか苦手……)」
今度は毛利が尻込みする番であった。
「なんでぇ? 嫌なのかい?」
「いえ、そう言う訳では……」
「なら、都合の合う時で良いから教えてくれよ」
「は、はぁ……」
「それからよ、ちょいとばかし尋ねさせてくれ」
「(断ってもグイグイ来そう)……ええ、どうぞ」
「黄門って、お前さんが望んだのかい?」
田豊の不躾な問いに、気色ばんだのは荀彧であった。
「田豊!」
「いや、構いません、荀彧さん。この私も分不相応な職を頂いたと承知しておりますから」
毛利はそう答え、
(丁度良い機会かも……)
更には皇上との出会いにまで遡り、語った。
「なるほどねぇ、そう言う訳でお前さんが黄門を」
「はい。董卓様にもっと下級の官吏が良いと申し出たのですが、〝皇上の思し召しである!〟と……。皆様の様に、以前から宮中でお勤めされている方々からは良く思われていないのは薄々感じております」
「いや、君がいたからこそ、皇上は未だ御健在なのです。黄門拝命はある意味当然の報いでしょう」
「ですが、私は黄門のお勤めのなんたるかも存じておりません。果たして無事に勤め上げる事が出来るでしょうか」
出来なければ〝死〟あるのみ。
そう語る毛利の顔は、悲壮感に満ち満ちていた。
「それは……その通りかも知れねぇな」
そして、それを肯定する田豊。
三国時代とは、そういう時代であった。
「なぁ、荀彧よぉ」
「ええ。流石に可哀想ですから、荀攸を紹介致しましょうか。同じ黄門なので、相談すると良いでしょう」
「あ、ありがとうございます!」
「いいえ、手当てをして頂いたお礼です」
荀彧は口にし、三角巾の中の左腕をそっと摩る。
「それにしても綺麗に折れてましたね。一体、なににぶつけたんですか?」
途端に、荀彧と田豊が「うっ……」と言葉に詰まった。
(あれ? 聞いちゃ拙かった? 気位が高いと言ってたしなぁ……)
「……………………い、岩です。この世の物とも思えぬ程硬い岩です」
「へぇー、この洛陽は驚く程大きな都ですから、なんでも有りそうですが、そんな物までがあるんですね」
「ああ、最近見つけられたらしい。世にも稀な石、だ。悪石かと思えば……この分だと輝石となるかも知れねぇな」
「へぇー、そんな物が有るのですか」
ダイヤモンドの原石的な何かかな?
そう思いつつ、
「ああ、いけない。早く戻らないと董卓様にドヤされる! それでは、荀彧様、田豊様」
「ああ、またな!」
「荀攸には私から話しておきますから」
毛利は荀彧の下を辞去したのであった。
◇
毛利の去った後の守宮令の一室。
そこでは、残された二人が未だ会話を続けていた。
「昨日は殺し損ねたが……」
「ええ、未遂に終わり良かったのかも知れません。それ程、意外でした」
「ああ、思いの外変わった少年だったぜ」
「権威欲もまるで見受けられません」
荀彧の言葉に、田豊がなにやら思案する。
「……そうだな。袁紹様には、害はない、と伝えておくか。ただ……」
「ええ、私は王允様と荀爽に。それと、同門の荀攸に今少し様子を見て貰いましょう」
「ああ、それが良いだろう。だが、蹇碩に至る片鱗を垣間見せたその時は……」
「皇上の為にも、今一度我らが働きましょう」
「今度こそ、しくじらぬ様に、な!」