#010 董卓からの呼び出し
(あの董卓から呼び出しを受けた……)
毛利は足取り重く、牛輔の後に続いた。
向かう先は司空・董卓が、自らの城の如き振る舞っているであろう司空府。
南宮の東、蒼龍門から出て直ぐの場所である。
彼は歩きながら、
(そもそも、董卓が俺を呼び出す理由って何だ? って言うか、俺は皇上のお側に上がる黄門、とやらが仕事の筈。一体、何をさせられるんだ? まさか、本当に悪代官退治? な訳はないし……)
渦巻く疑問に頭を抱えていた。
だからと言う訳ではないのだが、
「遅かったな、牛輔。それに毛利」
二人は董卓の予想より些か遅れたらしい。
積み上がった竹束を前に座し、ご機嫌斜めの様子。
さり気なく辺りを見回すと、室内にある物と言えば、床の上に敷かれた厚そうな敷物とその上に置かれた長机と幾つかの竹束、壁に沿って並ぶ竹束に埋め尽くされた棚、であった。
(何でこの部屋は竹束ばかりなんだろう?)
机の上には硯と、
(竹板!? いや、短冊状の竹に毛筆で書き込んでる!?)
書きかけの竹簡(幅三センチ、長さ二十五センチの短冊状に加工された竹を編んだ書類)が置かれていた。
そう、竹束は全て竹簡だったのだ。
董卓は長机の向かって奥側に腰を下ろし、腕組みしている。
彼の背後には赤く巨大な犬が目を閉じ、横たわっていた。
董卓のがっしりとした体がもたれ掛かっているのだが、気にする素振りを僅かにも見せていない。
犬の足元には何処かで見た白い子猫が同じく白い兎と丸まり、スヤスヤ寝息を立てていた。
「董卓様、誠に申し訳ございません。毛利が官服の着衣に手間取りまして、その……」
牛輔が身を低くし、最敬礼の姿勢を取りつつ言い訳を始める。
毛利もそれに倣った。
「す、すいません、董卓様。何から何まで初めての体験で勝手が分からなくて、あの……」
董卓の目がギロリと凄んだ。
大きな口がゆるりと開き、石をも噛み砕きそうな歯が覗く。
牛輔の逞しい体が一瞬震え、
(ヒィィッ! カチンと来ただけで殺される!)
毛利の心が悲鳴を上げた。
夏だというのに、氷室にいるかの如く肌が冷たい。
「……今回は許す。が、明日からは遅れずに参れ」
(あれ? 助かった? 何はともあれ、良かった……)
毛利を襲った緊張が瞬く間に解れた。
と同時に、新たな疑問が湧く。
(明日から参れ?)
しかし、それは、
「はっ! って、返事はどうした、毛利!」
「は、はい!」
牛輔の叱責により、打ち消されてしまった。
自らの役目を終えた牛輔は、足取り軽く司空府を後にした。
一方、残された毛利は気持ち穏やかとはならず。
なぜならば、董卓の眼差しが未だ、剣呑なままであったからだ。
(や、やばいっ! このままでは董卓の代名詞、牛裂きの刑に処されてしまうかも!)
毛利の額に夥しい脂汗が滲む。
やがてそのうちの一滴が、「ポタリ」と床を打った。
「ワフ?」
巨大な赤犬は寝かせていた片耳を立たせたかと思うと、やおら立ち上がる。
「ぬ、火山の奴め……」
預けていた背中を外された董卓、しかし火山は省みようともしない。
それどころか、のそりと毛利に近寄り、彼の顔に鼻先を近づけたかと思うと、ベロンと舐めたのであった。
ザラリとした感触と独特な香り。
毛利は思わず、
「うひゃぁ!?」
と声を立てた。
「ほう、火山に好かれたか」
鬼がニタリと嗤った。
毛利の背を冷たい物が伝う。
(なにが起きるの!?)
「なら、良いだろう」
(なにが良いの!?)
「牛輔から話は聞いている。昨日、何処ぞの下郎に命を狙われた、とな」
「は、はい」
「心当たりは?」
「人が羨む程の出世をしたからでしょうか?」
「分かっているではないか。なら、御主はどうすべきだと思う?」
毛利は一時考え込んだ上で、幾つかの選択肢を思いつく。
董卓はそんな毛利に対し、内心興味を覚え始めていた。
「挙げてみよ」
「一つ、黄門を辞めます」
「辞めてどうする?」
「可能なら違う仕事を紹介して頂けたらと。そ、倉庫番とか商店の店番とかなら……(機会を窺い、洛陽から距離を取れれば尚良し!)」
「残念ながら、それの願いは叶えられん」
「ど、どうしてですか!?」
「皇上が御主を甚くお気に召されている。右も左も分からぬ、氏素性もはっきりせぬ者を黄門に取り立てる程にだ」
毛利は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「話のついでだ。この董卓と出会う前に何があった?」
「こ、黄河の流れに見入っていると将機同士の争いに巻き込まれそうになりました。その時、声を掛けてきた二人組の少年と逃げたのですが……」
彼は掻い摘んで答えた。
何故黄河の畔にいたのか、などは勿論省いて。
話を進める程、董卓の眉間に出来た谷間が深くなっていった。
無論、毛利はそれに気づく。
(何? 何が拙かったの?)
目の前で語っていたのだから。
皇上劉弁が毛利の頭を、その腕に包んだくだりを語った時などは、
「なにぃ!?」
一転して董卓の目があらん限りに見開かれた。
「御主、もしや気づいたのか?」
「え? あぁ、流石に気づきましたよ。ちょっと体が弛んでる、運動不足だなぁって。でも、皇上様ですし、そんなもんかな、と。あ、今の不敬罪に問われたりしませんよね?」
「そ、その様な瑣末な事で咎めたりはせん」
「良かった……」
「あ、ああ、本当に良かった」
「んん?」
「気にするな。それよりも、他の選択肢とやらを挙げよ」
董卓は平静を装いつつ、話題を変えた。
「黄門を降りる事が出来ないなら……」
「出来ぬなら?」
「後ろ盾を得るしか手はないかな、と」
「宦官共と彼奴等におもねる官吏に加え、清流派と称する反宦官を掲げる一派も御主を快く思ってはおらぬぞ?」
その通りである。
だがそれは——
「董卓様も、ですよね?」
であった。
事実、正史の董卓は官吏に疎まれ、養子となった呂布の手に掛かって暗殺されているのだから。
「ほう、中々言うではないか。ここに参った当初は、借りてきた猫の如く怯えていたというのに」
これも、その通りである。
だが、思いの外話せる董卓の人柄に、毛利自身気づかぬ内に警戒心が弛んでいたのだ。
「そ、それは……」
はっとする毛利。
董卓はニヤリと笑った。
「で、誰の後ろ盾を得るのだ? とは言え、力のある者はそれ程多くはいまい」
毛利の事を知る者となれば尚更だ。
「出来れば……」
董卓が毛利の答えに先んじた。
「執金吾丁原か、この司空董卓の他はおるまいて」
「え、ええ。その通りでございます(寧ろ、丁原様一択で。呂布様の配下に収まれば、暫くは生き残れるし)」
「良かろう。ならば誓え! その身を唯々皇家の為に使う、とな!」
「……と、董卓様ではなく?(後ろ盾の話、どうなった!?)」
「戦働きもできぬ貴様が、儂に誓ってどうする? そもそも、似非官吏であろうが官吏は官吏。先ずは皇上に誓わなくて何とするか」
「は、はぁ……」
「誓わぬのか?」
「ち、誓います、誓います! なんだったら、血判状も用意します!」
董卓が再び、目を見開いた。
「……なに? 毛利は読み書きが出来ると申すか?」
「た、多分(どう言う訳だか会話が出来てるし、街中の看板文字も読めたので)……」
「……多分? はっきりせんな。なら、これを読み上げてみよ」
「は、はぁ。えー、なになに? 上奏? いや、上表、か。臣某言う……」
毛利は、始めは片言なれど読んだ。
不思議と次第に慣れ、終いには、
「……臣某、誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、謹言」
スラスラと読み上げてみせた。
「やるではないか」
董卓はそう言いながらも、舌舐めずりする。
彼の目は獲物を狙う色を浮かべていた。
実はこの時、董卓は人手不足に頭を悩ませていたのだ。
それはもう、猫の手を借りたい程に。
何故ならば、宦官との権力争いに負けた多くの官吏が投獄されていたからだ。
加えて、董卓は辺境出の将軍。
好き好んで仕えたいと思う名士や博士の類は、ここ洛陽には存在しなかった。
「いえいえ、それ程でも」
毛利は頭を掻きながら謙遜してみせるも、顔には複雑な表情を浮かべていた。
(自分の手柄とも思えないし……。古代中国語? を喋れる事といい、本当、どうなってんだろ?)
そんな毛利に構う事なく、董卓は竹簡の山を指した。
「その調子でアレらを全て読み上げよ」
「ぜ、全部? これ全部ですか!?」
そんな毛利に対し、董卓は威圧的な眼差しを返した。
「やります! いえ、是非ともやらせて下さい!」
「そうであろう、そうであろう」
「よ、読み上げた物は如何いたしましょうか?」
「この董卓が〝可〟と申した物は右、それ以外は左の籠に纏めてから放り込んでおけ」
「はは!」
「因みに先の上表、毛利なら何とする?」
「うーん、そうですねー」
毛利は先の董卓との誓いを思い返しつつ、意見を述べる。
「涿郡涿県出身の劉さん、ですか? 優秀だから先日犯した〝洛陽から査察の為に派遣された官吏に対し暴力を振るった罪〟を不問とし、然るべき官職を与えて欲しい、との事らしいですが、私の判断では〝不可〟ですね」
「その心は?」
「恐れ多くも皇上の代理として派遣された官吏を半殺しにするなど、言語道断です。袖の下を求められたから、とありますが、皇上から袖の下を求められても断れるのでしょうか? そんな事、出来ませんよね? なら、これは唯々この劉なんとかさんが官吏を気に食わなかった、その為癇癪を起こしただけ、と私は見ます。それも、恐れ多くも皇上の代理に対して。捕縛を命ずる事はあっても、罪を許し尚且つ、官職与えるなど到底出来ません。代理とは言え皇上に対して拳を振り上げたのです。いずれは、皇家に対しても同じ事をする可能性が高いと申せましょう」
「その通りである。毛利、御主中々見所があるではないか!」
あの董卓から、慣れない仕事に対するお褒めの言葉。
思い悩む事はあっても、心が逸る事など何一つなかった毛利は心から喜んだ。
「え? そうですか? いやー、それほどでもー!」
「よし、こちらの竹簡にもう少し穏当な言葉を選んで書け。そのまま、公孫瓚に送りつけよう」
「はい!」
居場所が見つかった、そんな気が確かにしたのだ。
太陽が中天を過ぎた頃合い、積み上げられていた竹簡が粗方片付いていた。
「いや、正直、この董卓は御主を見誤っておった。許せ」
なので、白湯を啜り、白い兎を可愛がりながら会話を楽しむ余裕が生まれていた。
(董卓様、癒されてるなー。肩口の白い子猫が可愛いい)
一方、董卓にとっては望外の喜びであった。
なぜならば、司空府は惨劇の起きた宮城の側にあり、巻き込まれる事を恐れた官吏の多くが未だ戻ってはいなかったからだ。
ただでさえ少なかった文官が、更に少ない現状。
竹簡を編む小役人を探すのにすら、実の所董卓は苦労していたのだ。
「いえいえ、それ程でも(意味が分からずとも書いてある文字を読む。子供にでも出来る、簡単なお仕事でしたから)。この様な仕事でしたら幾らでも大歓迎です」
「ならば、黄門としての役目もここで致せ」
「え? 黄門のお勤めには、ここでも出来る物があるのですか?」
「……黄門が何をする役目か、やはり知らぬか」
「え、ええ。もしかしなくとも、諸国を旅し、悪代官を懲らしめたりはしない?」
「当たり前だ。黄門としての勤め、この董卓がてすがら教えてやる。だが、簡単に申すなら、黄門とは朝見の際には皇上のお側に侍るのがお役目だ。また、皇上にお渡しする上奏文を選び、伝達する係でもある。配下は宦官である小黄門。つまり、お前の下にも宦官が就くと言う訳だ」
「あれ? 待ってください。宦官ってほとんど皆殺しにされたんじゃ……」
「馬鹿を言うな。洛陽外に出向いている宦官も沢山いる。それに、自宮してでもなりたがる奴は後を絶たぬ」
「自宮?」
「自ら去勢する事だ」
「うっ……」
毛利は思わず、股間を押さえた。
「それにな」
「それに?」
「宦官はな、一人を見たら三十人はその影にいると思え、だ。一夜で殺し尽くせるなら、とうの昔に誰かが成し遂げておるわ」
(宦官は油虫かい! てかそもそも……)
「何故、皆は宦官を嫌うのでしょう?」
「嘗て、宦官は無知文盲な〝雑役夫〟に過ぎなかった。それが官職を与えられる様になると、増長した。もといた官吏の権や益を侵すほどに。故に、官吏の誰もが彼奴等を許せないと声高に叫ぶのだ」
「ふーん(つまり、官吏と宦官の争いは、宮中での縄張り争い? 犬猫と同類だな)」
なんとなしに理解した毛利。
ますます気が緩んだ所為もあり、董卓相手に聞かずとも良い問いを投げ掛ける。
「董卓様も行く行くはそうしたいのでしょうか?」
宦官を雑役夫に戻したいのか?
高位の宦官が宮中から居なくなった今は正に、絶好の機会なのだから。
「それは、……儂が決める事では無い。全ては皇上がお決めになられるのだ」
「ああ、なるほど。董卓様は〝尊皇の志士〟なんですね」
「志士? よく分からぬが、皇上を尊ぶのは当たり前だ。儂も丁原も辺境暮らしが長い所為か、それが拠り所故にな。他に何かあるか?」
「あの……今すぐにとは申しません。時が来た暁には、下級の官吏に変えてもらいたいのです」
「どうしてもか?」
「はい。些か人目が辛くて……」
牛輔と共に司空府へ参る際も、好奇の目に晒されていた。
皇上に気に入られ、一介の民から北宮に出入り出来る身分に駆け上った、と言う話が広まったが故に。
董卓は大きな溜息を吐いた。
「先ほども申したが、皇上がお決めになられた後だ。貴様如きの希望が叶うなど有り得ぬ」
「ですよねー」
「ったく、御主と言う奴は……。そもそも、黄門がどれ程の要職か全く理解しておらん。このまま……」
更なる問題が起きてしまえば、一時とは言え都落ちした皇上の権威が益々揺らいでしまう。
そもそも、此奴は一体何なのだ?
読み書きは十二分に出来る故、何処かの高弟かと思えば……礼儀がまるでなっておらぬ。
加えて、この董卓が目を掛けてやると申した後に、他に何かあるか? と問われても普通は「もう十分」と答えねばならぬだろうが。
董卓は無知蒙昧な毛利に、軽く苛立ちを覚え始めた。
だが、この時代の一般常識を知らぬ、加えて、元の時代においても社会に揉まれる心構えすら足りていない十六歳の若者、それが毛利なのだ。
そんな彼に、多くを求めるのは些か酷であった。
「……もう良い。他に用がないなら、南宮の守宮令(紙、墨、筆等の文房具を管理する責任者。七品)に竹簡を届ける様申し伝えて参れ」
毛利は護衛として涼州兵を付けられ、司空府を一旦追い出されたのであった。