31 全てが覆る
空が白んできた。
泣き疲れて眠っていたユカリが、朝日とともに起きてくる。
「飲んどけ」
俺はそう言って状態異常回復ポーションを渡した。感覚的には栄養ドリンクみたいなものだ。こいつのお陰でなんとか徹夜を耐えられている。昨夜は失敗したが……。
「……すまんかった」
俺はユカリに頭を下げた。
危険な目に遭わせてしまった。俺の油断のせいだ。
「…………」
ユカリは無言でこちらを見つめる。
そして暫し逡巡し、口を開いた。
「私こそ、申し訳ありませんでした」
「今までの態度のことか?」
「はい。実は」
「ああ、知っている。洗脳だろう」
「……っ!」
「おそらく“主人に対して警戒心を抱く洗脳”だ。ルシア女公爵の持つスキルだな」
俺の言葉にユカリは目を丸くして驚いた。その目の周りは赤く腫れている。
「……貴方は、何故……」
まだ感情の整理がついていないのか、何かを言い淀む。
洗脳のせいとはいえ今まで親の敵のように思っていた相手だ。まだ警戒しているのかもしれない。
「ゆっくりでいい。歩きながら話そう」
俺はインベントリからリンゴとバナナを取り出して手渡し、立ち上がった。
ユカリはそれを受け取ると、俺の少し後ろに付いて歩き出した。
食べながら歩く。
食べ終わっても歩く。
ひたすら歩く。
そして2時間ほど歩いた頃、ユカリはぽつりぽつりと語りだした。
「私はルシア・アイシーン女公爵の駒として、暗殺を生業に過ごしてきました」
「駒?」
「ええ。ルシア様は孤児である私を拾い、名を与えず、ただ暗殺をこなすだけの駒として育てたのです」
「……なるほどな」
反論はあるが、今は黙っておこう。
「おそらく私は洗脳されていました。自分は幸せだと。ルシア様の暗殺者でいられて良かったと。事実、盗賊に捕まり絶望したその瞬間まで、私は“影”としての日々を美化していました」
「そうか」
「……愚かな勘違いでした。いや、残酷な洗脳でした。そして、本当の絶望は洗脳が解けた後でした」
ユカリの声が震える。
「私は、ルシア様に……愛されてなどいなかった。ずっと騙され続けていた。偽りの愛を心の拠り所にしていた。立派な主人など、優しい母などいなかった……」
悔しいのか、悲しいのか、それとも。
ユカリは目に涙を溜めながら言葉を続ける。
「私が黙っていたことを……いえ、私が洗脳によって“黙らされていた”お話をしましょう」
「それはルシア女公爵の処刑の理由だな?」
「ええ。ルシア様は謀反の罪によって処刑されましたが、それは真っ赤な嘘。敵対勢力の策略です。敵はホワイト・キャスタル第一王妃……そう記憶しています」
「何故分かる?」
「私は影。ルシア様の手足の代わりとなって汚れる役目です。知らないはずがありません。ですが……」
「ん?」
「私が洗脳され、この情報を新たな主人に明かさないようにされていたということは、おそらくルシア様にとって都合の悪い情報なのでしょうね」
ユカリは思い悩むような顔をする。
今まで世話になった主人は、自分を愛してはいなかった。そこから疑いが芽生え、ついには俺に情報を明かしてしまったのだ。それでも自責の念を抱いてしまう。それほどに洗脳の根は深かったのかと、そう感じているのだろう。
「…………!」
俺はひとつ、良いアイデアを閃いた。
前から洗脳が解けたらやろうと思っていた「あること」を使って、彼女の信用を得る。
言わば取引だ。シルビアの時を思い出すな。
彼女が受けてくれるかは分からない。だからこそ確実性を上げるために、まずは俺の“考察”を伝えることから始めよう。
ゲームとしてのメヴィオンを知っている者にしかできないだろう、少しだけズルい考察を。
「ちょっと俺の考えを聞いてくれるか?」
俺はユカリの目を見て問いかける。
ユカリは少しの沈黙の後、こくりと頷いた。
「ユカリの考えは確かに的を射ている。だが、ルシア・アイシーン――彼女はきっと、ユカリを愛していた」
「まさか……そんなはずは。私は洗脳されていたのですよ?」
「その洗脳がユカリを守るためだったとしたらどうする」
「……いえ、有り得ません。では何故私は名を与えられず、暗殺者として育て上げられたのですか」
「お前に名を与えなかったことも、洗脳をかけて情報を漏らさないように細工していたことも、お前を守るためだ。そうやって『女公爵の洗脳で強制的に暗殺をさせられていた可哀想な奴隷』のイメージをつくったんだ」
「イメージではありません。私は実際に辛く厳しい暗殺者の日々を過ごしました」
「でも、幸せだったんだろ? 女公爵の奴隷でいられて良かったと思ったんだろ?」
「ですから、それは洗脳で」
「いいか、よく聞け――洗脳魔術はな、1人に対して1回限りだ」
メヴィオンの《洗脳魔術》の制約。この世界でも同様だろう。だからこそ俺はここに違和感を覚え、この可能性に気付けた。
「……え……?」
「お前の場合、俺に対して警戒心を抱く洗脳の1回がそれに当たる。つまりお前は実際に影としての日々を幸せだったと思っていたことになるな」
「そん、な……」
信じられない――と。ユカリの表情は実に分かりやすいものだった。
この考察は、半分が本意であり、もう半分は「甘い餌」だ。
彼女がつい信じたくなるような、食べてしまいたくなるような甘い甘いお饅頭だ。
ユカリは悩んでいる。
そんなわけ、いや、でも、もしかしたら……そうして悩み、段々と「信じたく」なってくる。これが事実だったらどんなに嬉しいことか、と。
そして、頃合を見て。
俺は用意していた「あること」を“取引”の場に出した。
「ユカリ。脱獄しないか?」
* * *
私は全てを打ち明けた。
まだ彼を信用したわけではない。だが、彼に縋る以外にもはや道がなかった。
意外にも、彼は黙って話を聞いてくれた。
私が話し終えると、彼なりの考察を話してくれた。
……信じられない。正直なところはその一言に尽きる。
しかし、彼の言うことがもし本当なら……私は、私の日々は、私の親愛は、間違っていなかったと、いつか誇れる日がくるかもしれない。そんな風に思える、優しい解釈だった。
「脱獄しないか?」
彼が言う。堂々と、余裕の表情で。
「脱獄?」
「ああ。洗脳が解けたらしてやろうと思っていたんだが……まあ、所謂“抜け道”ってやつだな」
あまり聞こえの良くない単語が耳に入り、私の中で不安と疑いが大きくなる。
「簡潔に説明すると、お前は非合法に奴隷ではなくなる。『攻撃不可』とやらもなくなる」
「……そんなことが?」
できるわけがない。
「モーリス商会から目をつけられるが、それはまあいい。それより大切なことがある」
大商会を敵に回すより大切なこと?
「俺を信じてくれ。そして俺の鍛冶師をしてほしい」
…………。
馬鹿馬鹿しい。
普通は優先すべきことが逆だ。
それに、できもしないことを言っても仕方がないではないか。
「つまらない冗談ですね」
脱獄……つまり、隷属魔術の正式な解除なしに私を奴隷から解放するということだろう。
有り得ない。そんなことは不可能だ。でなければ奴隷などという商売が成り立つわけがない。
「じゃあ、もし脱獄できたら俺のことを信じてくれるか?」
彼はニヤリと笑って挑戦的に言った。
「……ええ、構いません。信じましょう」
私はそう返した。やれるもんならやってみなさい、と。
「ん。そしたら俺の胸に思いっきり頭突きしてくれ」
「…………はい?」
意味が分からない。
「俺の胸に頭突きだ。本気でやれ」
「いえ、契約上できないはずですが……」
「できるんだなそれが。いいからやってみな。ほれ」
彼は両手を広げて私を待ち構える。
何故そんなに自信満々なのだろう。
その余裕はどこからくるのだろう。
……私はどうして彼に近づいていっているのだろう。
「いきますよ?」
「ああ。ドンとこい」
できるわけがない。
私はそう思いながらも、ぎゅっと目をつぶり、思い切って彼の胸に頭から飛び込んだ。
「ぐっふ!」
彼が呻く。
ドスッ――と。彼の胸に私の頭が当たり、じーんと痛みが広がる。
…………できた。できてしまった。
嘘ではなかった。これは紛れもない“攻撃”だ。いったい何故……?
「成功したな」
彼の顔を見上げると、彼は笑顔でそう言って、私の背中に優しく手を回した。
「………………私、は」
私は。
もしかして、とても大きな勘違いをしていたのかもしれない。
彼は、今までで一度たりとも嘘をついてなどいなかったのではないか?
何かに気付きかけている。
私の頭の中を、様々な景色が高速で通り抜ける。
トクン、トクン、と。少し早い、彼の鼓動が聞こえる。
ああ、彼も私と同じ一人の人間なのだ。そう実感できた。私の鼓動もどんどんと早くなっていく。
そして、私は発見した。彼の「信用の欠片」を。
盗賊から助けられた時、縄を解く彼の手はぶるぶると震えていた。
怖かったんだ。大勢の盗賊を相手に戦って、大勢を殺したんだ。怖くないわけがない。
私と一緒だ。初めての仕事の後は震えが収まらなかった。
……まさか。まさか!
彼は、本当に世界一位を?
ダンジョンで2人に任せていた理由は訓練のため?
私の傍を離れずにいたのは護衛のため?
ランダム転移も嘘じゃない。255kmも嘘じゃない。ペホまで7日の距離も本当だ。
根気強く喧嘩し続けたのも私の洗脳を解くために?
寝ずの夜番も私を守るために?
彼は私を襲わなかった。そもそも契約上私を襲うことなどできない。
私の勘違いだった?
私の思い違いだった?
盗賊からも助けてくれた。
私の話を聞いてくれた。
私が気付けないような希望ある考察をしてくれた。
私を奴隷から解放してくれた。信じてくれと、たったそれだけ言って。
すべて、すべて、彼は私を鍛冶師として育てるために……?
彼は、私のために?
私のために、こんな私だけのために、ここまで……!
「信じられるようになったか?」
彼の言葉に、私の心臓が跳ねる。
「…………ええ」
私は彼の胸の中で涙を拭くように頷き、こう言った。
「一応、ですが。信じることにいたします……ご主人様」
世界一位を目指す風変わりな男、セカンド。
もしかすると、彼になら……。
お読みいただき、ありがとうございます。