閑話 間接専科
おまけです。
プリンスがリンリンの弟子となってから、かれこれ一週間。プリンスは日に日に不満を溜めていた。
あのプリンスが「先生」と慕って敬語を使うほどに憧れている相手である。彼はその不満を訴えることはおろか、リンリンからの指示の一つにさえ逆らうことはできなかった。
当然である。あのセカンドとの一戦を見ていれば、誰だってそうなるだろう。リンリンは、プリンスの知る限り、人類で一二を争うほど強い男なのだ。逆らう気さえ起きないほど、圧倒的にである。
特に糸の扱いにおいては、プリンスが戦わずして負けを認めるほどに凄まじい。
誰にでも噛み付く狂犬のような男が、弟子入りを懇願するような糸操術を魅せる男。それがリンリンなのだ。
だからこそ、プリンスはこの一週間、何も言わずにいた。リンリンが如何に変な指示を出そうと、何も言わずに従ってきた。
しかし、そんなプリンスにも、我慢の限界というものがある。
……もう、一週間なのだ。
「あの……リンリン先生、一つ、いいでしょうか」
「何」
プリンスの問いかけに、リンリンは視線すら合わせず、竿先と手元のリールに集中しながら一言そう答えた。
現在、二人は海の上にいる。
リンリンの所持しているボートで、沖へと出ているのだ。
「リンリン先生、ここ一週間、ずっと釣りばかりです。僕は釣りを勉強しに来たんじゃーありません。糸操術を勉強しに来たんです」
そう、プリンスの不満とは、リンリンがあまりにも釣りばかりを優先することであった。
否、「ばかり」という表現では生ぬるい。釣り「しか」優先していない。
プリンスを預かってから一週間、リンリンは彼と釣りしかしていないのだ。
「今さら?」
「……す、すみません」
リンリンはこともなげにそう返した。
プリンスは威圧感に負け、謎の謝罪をする。
「やれやれ……」
呆れるように呟いたリンリンは、ルアーを回収し、流れるような所作でタバコに火をつけた。
どうして呆れられているのか、プリンスは理解が追いつかない。
何か自分が間違ったことをしてしまったのではないかと、まずはそう考えた。
だが、いくら考えても、自分の発言は至極真っ当のように思えた。
「いや、しかし、リンリン先生。僕は間違ったことは言ってねぇーと思います」
彼が空気を読めないと言われる所以は、思ったことをストレートに口にする点だ。
尊敬するリンリンに対しては、一週間ほど我慢できた。だが、それももはや限界のようである。
「――水深、約40メートル。潮が効いていて、風もそこそこあり、船が流される。ここで60グラムのジグを底まで落としてしゃくり上げたい。ちなみに底は岩礁帯。プリンス、お前ならどんな糸をリールに巻く?」
「!」
するとリンリンは、プリンスの言葉に対して、一見して無関係な質問を投げかけた。
たったの一週間ではあるが、日の出から日の入りまでリンリンと共に釣りをし続けたプリンスは、瞬時にここ一週間の経験と知識を総動員しながら解答を思考する。
そして、十秒ほど経ってから口を開いた。
「PEラインは1号、リーダーにはフロロカーボンの16lbを使います」
「理由は」
「PEはフロロやナイロンに比べれば細くても強度を出せる糸です。潮が効いているなら潮の影響を受け過ぎない細い糸が良いと思いました。底が岩礁帯なら、岩などに擦れることもあるでしょう。擦れに強いフロロがリーダーに適しています」
「どうして1号と16lbにした」
「もっと細くできそうですが、このあたりでブリが釣れたって話を一昨日聞きました。リンリン先生の技術ならPE1号もあれば釣り上げられるんじゃねぇーかなと」
「悪くない」
「本当ですか!」
「良くもない」
「そ、そうですか……」
「オレならPE0.6号でフロロは12lbを選ぶ」
妙な沈黙が流れる。
リンリンは「ふむ」と何やら考えた後、こう口にした。
「PEラインは細くて強い、柔らかで水に浮きやすく伸びないが、擦れに弱い。フロロラインは硬くて伸びず、よく沈み、擦れに強い。ナイロンラインはしなやかで伸びやすく、ほどほどの浮力で、水を吸う」
「はい」
「オレは教えてない。全て、お前が独自に勉強したはず。もしくは、釣りしてる中でなんとなく感じ取ったか」
「……はい、どっちも当たってますが、どちらかと言うと後者です」
プリンスの返事に、リンリンは確信したような顔をして、言葉を続ける。
「うん、お前は感覚タイプ。瞬発力とアドリブが強み。観察眼も優れてるから、教えるより盗ませる方が効率良さそう」
「!?」
「釣りという目的のための手段として、お前が何をどのように勉強し身に付けるかが見たかった。無理やり付き合わせてすまない」
「いや、そんな! 無理やりなんてことは!」
「あ、そう?」
「……えぇーと」
今後も釣りに駆り出されそうだと察したプリンスは、しかし断り切れずに言葉を濁した。
案外、釣りも面白かったのだ。ただ、今はそれよりも優先すべきことがある。
勿論、リンリンもそれをわかっていた。
あの恐怖のセカンド・ファーステスト直々の推薦なのだ。次のタイトル戦までに少なくとも天網座を脅かせるくらいに育成しておかないと、いったい何を言われるかわかったものではない……と、リンリンは一人静かに震えていた。
「冗談。じゃあ、PE1号とフロロ16lbでノット組んで。長さは1ヒロくらいでいい」
「あ……はい」
揺れる船上で、リンリンはプリンスへと指示を出す。
ノットを組むというのは、手先の器用さが要求されるとても細かな作業である。そんなことを揺れる船上でしたならば、慣れていない者なら一発で酔うだろう。
過去何度も、この船上でのノットの組み上げをプリンスはやらされてきたが、その度に船酔いしていた。
どうして毎回こんな辛いことをしなければならないのか。プリンスは不満に思っていたが、きっとこれにも深いワケがあるのだと、つい先ほどのリンリンの説明を聞いて、そう信じるようにした。
「桂馬酔い、したことないか?」
「!」
プリンスの予想は当たっていた。
リンリンはただ、自分が釣りをしたいから無理やりプリンスを付き合わせているわけではないのだ。
「桂馬……酔い? 僕は、まだ、ないです」
「あ、そう。じゃあ、船酔いしなくなるまでノット組み続けて」
「……は、はい」
些か荒療治が過ぎるが、しかし、この程度で酔っていては、リンリンの言う「桂馬酔い」というのは予防すら難しいようである。
そもそもプリンスは、この世界でもトップクラスに《桂馬糸操術》の操作が上手い糸操術師。その腕前は、セカンドさえ見込みアリと認めるほどだ。
だが、リンリンから見れば、彼の《桂馬糸操術》などまさしく児戯に等しかった。
《桂馬糸操術》による操作中に自身を同時に行動させるデュアルオペレーションは、操作と行動を大きくすればするほど、操作へと意識が集中し、視点から意識が離れる。そうすると何が起こるかというと、急激に酔うのだ。
船上ノット如きで酔っているプリンスは、まだまだその域に達せていないということ。言わば、スタート地点にすら立てていない。
「酔わなくなったら、どんな体勢でも瞬時にルアーをキャストして15メートル先の直径1センチの的に当てられるようになるまで糸は触らせないから」
「…………オェッ」
リンリンは、釣りを通じて間接的にプリンスへ糸操術の基礎を学ばせようとしていた。
既に糸操術の道を通ってきているプリンスは、今さら基礎をやろうとしたところで素直に吸収ができない。ならば、全く別の角度から基礎を叩き込めないものかとリンリンは考えたのだ。
本気も本気である。セカンドに任された瞬間から、リンリンは本気でプリンスを育成しようと考えていた。
リンリンがこの世界へと来てから培った釣りのノウハウが、糸操術に活かせると気付いた時から、この訓練メニューは頭の中にあったのだ。
「もう、いちいち説明したくない。黙って従ってくれ」
「……ぅ、はい……ェップ」
ルアーを投げるキャストは、糸の操作の訓練になるし、対象物へのアプローチ方法や、対象物との距離感を掴む訓練にもなる。
この一週間、プリンスが単なる釣りだと思ってやってきたことの全ては、糸操術に繋がることだった。
そうとわかれば、プリンスのやる気は漲る一方である。
胃の中が空っぽになろうがお構いなしで、ただひたすらリンリンの指示に従う。
あのムカつくセカンド・ファーステストに勝てる可能性を持った人間は、プリンスが考えるに、リンリン先生しか存在しないのだ。
つまり、リンリン先生から教わるしか、自分がセカンドに勝てる方法はない。つい、そう考えてしまう。
だからこそ、今は謎だらけの訓練でも、いつかきっと活きてくるのだと信じて、耐え抜くしかない。
リンリン先生のような、神がかり的な糸捌きを身に付けるには、それしかないのだ。
「ゥッォボロロロロロロロロ」
……彼が一人前になるには、まだまだ時間がかかりそうであった。
吐きたいのはこっちの方だと、リンリンは溜め息を吐く。
次のタイトル戦まで、とっくに半年を切っている。それほど猶予は残されていない。
なんとか、なんとか早急に、セカンドのお眼鏡に適うレベルにまで育成しなければ。
そのためにも、まずは間接学習で基礎を叩き込む。
教えなければならないことは山のようにあった。
桂馬酔いすら知らないレベルの男は、果たして何か月で定跡を使いこなせるようになるのか。
この一週間で何度目かわからない溜め息をタバコの煙と一緒に吐いて、リンリンは遠い空を見上げた。
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