266 会話、行動、怖いか?
校門の前で一度立ち止まり、校舎正面にお辞儀を、次いで守衛にお辞儀をして、校内へと淑やかに歩いていく女学生たち。
背筋は必ずピンと伸ばし、目線は決して落とさない。走ることなど許されず、大声で喋ることなどもってのほか。世間一般ではしたないとされていることは一切できない。ここは、所謂「お嬢様」の集う女学校であった。
「――ご機嫌よう」
「ごっ、ご機嫌よう!」
そんなお嬢様たちの中でも一際周囲の目を引いている学生がいた。
「きゃあっ! アルマ様とご挨拶しちゃったっ!」
「本当に素敵よね、アルマ様って!」
廊下ですれ違い、挨拶を交わしただけだというのに、一年生だと思われる女子たちはきゃあきゃあと小声で盛り上がる。
アルマと呼ばれた彼女は、そんな後輩たちの様子を「やれやれ」と呆れ顔で見送った。
彼女は三年生のアルマという学生。とびきりの美形で高身長で人当たりもよく運動神経も抜群、ゆえに学校内でのアルマの人気は非常に高く、同性であっても彼女との逢瀬を妄想する学生たちは少なくない。
「ふぅ……」
一見して、クールでミステリアス。物憂げな表情の似合う、スラリとした中性的な美人だ。
こうして窓の外を眺めて溜め息をつくだけで、アルマのファンはもう夢中……目をハートにして崇拝してしまう。
アルマほどの中性的な美形は、同級生はおろか一年生にも二年生にも存在しない。それゆえか、彼女は「王子様」というポジションを確固たるものとし、学内の覇権を握っていた。
当のアルマも、悪い気はしていない。彼女は一年生の頃から人気が高く、かれこれ二年間、王子様扱いでちやほやされ続けている。
ただ問題があるとすれば――アルマ自身の好みだ。
実は彼女、追いかけられるよりも追いかける方が好きなのである。
活発で人懐っこい犬よりも、気まぐれで素っ気ない猫の方が、気になってしまう性格なのだ。
「やあ」
「……おはようございます、先輩」
「おはよう、フヨウ。今日も綺麗だね」
「……はあ、ありがとうございます」
ゆえに、アルマが目を付けたのは、とても地味な女の子だった。
彼女の名はフヨウ。生物研究部に所属する二年生で、艶やかな黒髪を両サイドでおさげにした眼鏡の学生である。
眼鏡のせいで表情はよく見えないが、顔は非常に整っており、身長は高くスタイルも抜群だが、ピッシリと身に着けられた制服で隠されていた。
アルマは目敏く見抜いたのだ。フヨウは原石だと。人気が出て然るべきものを持っていながら、それを磨き切れていないのだと。
そしてアルマにとって何より重要なのは、他の学生たちと比べてフヨウの反応が些か冷淡であるということだ。
そう、フヨウは、アルマが求めてやまない理想の猫そのものだった。
「――またカエルかい?」
朝の生物研究部の部室は、いつもフヨウしかいない。
彼女は部内で飼育している小さなカエルの世話をするため、毎朝早くから部室を訪れ一人で作業をしている。
「……ええ、まあ。好きなので」
「だろうね。好きじゃなきゃ入らないよ、こういう部活」
「……世話をしてやらないと、死んでしまうので」
「捕まえてきた者の責任というやつか」
「……それだけでは、ないですが」
「フフ、知ってるよ」
何処かオタク気質で、カエルのお世話に夢中。ゆえにアルマのことは眼中になく、だからこそ気楽に話すことができる。
アルマにとってフヨウは、まさに理想の相手と言えた。
「例の話、考えてくれた?」
「……次の日曜日の九時頃であれば」
「そうか! 嬉しいよ。じゃあ校門で待ってる」
「……校門、ですか?」
「君、どうせ休日もカエルのお世話に学校来てるんだろう?」
「……ええ、まあ」
アルマは「だと思った」と言って笑いながら、部室のドアを開く。
それから、くるりとターンして上機嫌に外へと出ると、閉じかけたドアの隙間にひょこっと顔だけ覗かせて、こそこそ声で口にした。
「初デートだね!」
「……行きませんよ?」
「ははっ、冗談冗談!」
悪戯っ子のように笑い、アルマは去っていく。
部室に一人きりとなったフヨウは、「はぁ」と小さな溜め息をついた。
――アルマはまだ知らない。この女学校に通う学生たちは、隠し事が上手い。教師に見つからないよう、親に見つからないよう、あらゆる悪事を隠しながら、淑女として振る舞い、躾けの行き届いたご令嬢を演じる。
禁欲的で息苦しい生活を強制される彼女たちは、反動とも言うべきか、禁忌とされていることに対して非常に興味を持つ。
とりわけ恋愛は、思春期におけるあらゆる欲求も相まって、最も流行している悪事と言えた。特にアルマの存在が大きく、アルマが彼女たちをそうさせたと言っても過言ではない。
そのような皆の王子様であったアルマが、誰ともわからない二年生の地味なオタク眼鏡にご執心と判明すると、一体何が起こるのか。
大勢からの嫉妬である。
では、嫉妬の感情を我慢し切れなかった者たちが、群れ、白熱し合い、更に感情を大きくし続けた結果、何が起こるか。
いじめである。
「…………」
部室の鍵を教員室へと返却してから、フヨウが自身の教室へと入った途端、それまで楽しそうに歓談していたクラスメイトたちの声がピタリと止んだ。
そして、皆ひそひそと、わざと聞こえるくらいの声量で、フヨウへのネガティブな言葉を口にする。
……彼女は、いじめられていた。
教師にも、親にも、アルマにすらバレない方法で、陰湿に、しつこく、延々と。彼女が二年生となってから、かれこれ三か月は続いている。
いじめている者は誰だと、特定できるような対象もいない。主犯格はいるが、加担している者はあまりにも多過ぎる。強いて言うなら、フヨウの敵は「大勢」だった。
校内にいる学生の殆どは、アルマのファンである。クラスメイトは皆、結託していた。ゆえに、いじめの存在に気付けた者がいても、フヨウを助けようとは思えなかった。自分も同じ目に遭うのが怖かったからだ。
「ねぇ聞いた? 今朝、アルマ様を部室に連れ込んでたらしいよ?」
「カエルでしょう? アルマ様にカエルなんてもの見せて、一体どういうつもりなのかしら」
「気持ちの悪い。汚らわしいから近付かないでほしいわ」
攻撃してもよいとわかった相手に対して、彼女たちは露骨なまでに牙を剥く。
虚実こもごも噂は駆け巡り、フヨウが何をしても悪いように捉えられ、ついにはフヨウに対する直接的な攻撃にまで発展した。
「……ぁ」
フヨウは着席するや否や、違和感に気付く。
自分の机の上に、水たまりができていた。
仕方なく、ポケットに入れていたレース付きのハンカチで机の上を拭うが……何やら、生臭い。
くすくすと、教室のあちこちから笑い声が聞こえてくる。
「あれ、カエルの水槽の汁だって」
誰かが笑いながら口にした。
その発言はフヨウにも聞こえており――――彼女は、不意に激憤する。
「マークは!」
「は?」
「カエルはどうしたの!」
フヨウは、主犯格である一人の学生に詰め寄り、そう迫った。
マークとは、彼女が部室で飼育しているカエルの名前だ。
カエルを狙われた――そう直感したのである。
「知らなーい。心配なら見てくれば?」
「……っ!」
フヨウはすぐさま教室を出て、部室を目指し廊下を走る。教師に見つかれば、長々と説教されるだろう。
彼女たちは、こうして不定期にカエルにまつわるいじめを行うことで、カエルを人質に取り、フヨウの口封じをしている。
アルマ様にチクったら、親や教師にチンコロしたら、どうなるかわかってるよね? という、脅迫だ。
フヨウはマークをとても大切にしていた。いっそ家で飼育できる環境を整え、こっそりマークを家に持ち帰り、転校してしまうことも考えたが……なかなかできずにいる。カエルは部の共有財産であるため窃盗になる、アルマが卒業すればいじめは終わるかもしれない、親に迷惑をかけるわけにはいかないなど、言い訳ばかりが浮かび、行動へ移せずにいた。
彼女には、能動的な強さがなかった。ただ、受動的に耐え忍ぶことで精一杯だったのだ。
「!!」
大急ぎで部室の施錠を開けて中へと入ると、そこには……もぬけの殻となった水槽の姿。
自分が部室に行く前に机に水を撒かれ、教員室に鍵を返した直後に狙われたんだと、フヨウは推理する。
何故、そんな計画的なことができるのか。いくら考えても、フヨウには部員の関与しか考えられなかった。比較的フヨウに対して中立な姿勢だった生物研究部の部員たちもいじめに加担していたというのは、彼女にとって大きなショックだった。
だが、それより何より今のフヨウは、マークが心配で仕方がなかった。ついに、最大の懸念が現実となった。マークが連れ去られたのだ。
フヨウの頭の中は真っ白になり、その場にへたり込む。
「――ねぇ、返してほしい?」
「!」
背後から声をかけられる。
フヨウは振り返り、その学生を睨んだ。
愚問だった。返してほしいに決まっている。
「じゃあ、アルマ様に二度と近寄らないって誓いなさい。そしたら返してあげる」
「……誓うから、早く返して」
「嘘。お前、明々後日にアルマ様と出掛ける約束なんでしょう? 知ってるんだから」
「……あの約束も反故にするから、マークを返して」
どうして知っているのかというフヨウの疑問は、先ほどの推理ですぐに自答できた。生物研究部の部員が盗み聞きしていたのだろう。
もはや、周囲の全員が敵だった。
「あっそ。なら日曜日までアルマ様を無視し続けられれば、返してあげる」
「そんな……その間のお世話は」
「精々頑張んなよ」
「ちょっと!」
去っていく背中を、焦燥の表情で見つめる。
アルマを無視することは、無理難題というわけではない。フヨウは元々、アルマに対して冷淡な態度をとっていた。今さら無視するくらい、どうってことはなかった。
フヨウが何より心配なのは、カエルのマークである。たった三日間でも世話の仕方を間違えてしまえば命にかかわるのだ。
……悔しい。何もできない自分が、悔しい。フヨウはさめざめと泣いた。
いつかこうなるとわかっていたのに、何も行動を起こせなかったのだ。
こうなってしまっては、もう遅い。このまま徹底してアルマを無視し、約束を反故にする。それでマークが帰ってきたら、すぐに家へと持ち帰り、転校しよう。フヨウは、そう固く決意した――……
「――で? それからどうなったのだ。ほれ、早く我に聞かせてみよ」
精霊界の奥の奥、大森林の奥の洞窟の奥のそのまた奥で、ずっとずうっと泣いていた死霊の女に、やたらと偉そうな態度の精霊が話しかける。
女は、ぽつりぽつりと語っていた話を止め、精霊を見上げ……力なく笑った。
「……三日間、無視し続けた。掴まれた手を振り払った。完全に嫌われるまで酷い言葉も浴びせた。彼女たちの言いなりになって、彼女たちが望んだ通りのことをした」
「ほほう。それで?」
「……私は壊れていた。三日間ひたすらに耐えれば、救われると思い込んでいた。だから、心を殺して、必死に――」
「フハッ、くだらん言い訳はよせ。聞いていてつまらん。お前は事実だけを話し、我を楽しませればよい」
「…………最後に、これを食べたら許してやると言われた。私は解放されたい一心でそれを口に含んで、飲み込んだ。それが……マークだった」
「フハハハハッ! お前、可愛がっていたカエルを食ってしまったのか!」
「……ええ。気付いた頃には遅かった。吐いても吐いても、体の中でマークが跳ねているような気がした」
「跳ねているわけがなかろう」
「……私が倒れ込んで吐いているところを、先輩も人垣の中で見ていた。とても……不快な顔をしていた。あの人は、美しいものしか愛せない。美しくなくなった私は、もういらなかったのでしょう」
「うむ、そういう者はいるな。アネモネなどがそうであろうな」
偉そうな精霊は、数回頷いた後、沈黙する女に向かって口を開く。
「で、死んだか」
「…………」
「それで引きこもっておったのか? 誰とも会わず、誰とも話さず、誰とも関わらなければ、同じ失敗はせんと思っていたのか? 何一つ行動を起こさなければ、二度と辛い目には遭わんと思っていたのか?」
「…………」
図星だったようで、女は無言の肯定をした。
その様子を冷たい目で見ていた精霊は、ふわふわと浮いていた体を地面へと下降させ、女の前に立つ。
「フン、まあいい。我の暇を潰した褒美だ、一つだけ聞いてやろう。お前、欲しいものはあるか?」
橙と緑に輝く瞳が、女を映し出す。
ただ目の前に立っているだけで頭を地面に擦りつけてしまいそうになるほどの威圧感が、あたり一面を支配していた。
しかし、女は、それでも泣き顔を上げ、精霊と視線を合わせた。
「ないのか?」
「……力が」
「なんだと?」
「力が、欲しい……!」
必死の叫びだ。魂の叫びだ。彼女は、心の底からそう思っている。力が欲しいと。
「力が欲しいのか? 何ゆえそれほどに力を欲する。我に聞かせてみよ」
精霊は、口の端で笑いながら、彼女に理由を問いかける。
すると、彼女は力強く口にした。
「私に力があれば、マークを死なせることはなかった! 彼女たちに屈することはなかった! 自分に、屈することはなかった! 私に誰にも負けない力があれば、マークの命は守れた……!」
「フハッ……呆れる。この期に及んで蛙か」
彼女が叫んだのは、憎悪でも、復讐でも、慟哭でもなく……後悔。カエルへの慈愛の心から来る後悔だった。
カエルを死なせたのは、自分のせいだと言っているのだ。自分がいじめに対して行動を起こせなかったことでカエルを死なせてしまったと、本気で後悔しているのだ。
本当は憎くて憎くて仕方がないはずである。何倍にもしてやり返してやりたいはずである。声が枯れるほどに嘆き悲しみ泣き叫びたいはずである。
だが、彼女は、独りで、ただひたすら静かに泣くのだ。カエルに「ごめんね」と伝え続けながら。
それは、あらゆる強い感情を凌駕する、彼女の深い深い愛情だった。
「――悪くない。お前のような大精霊がいてもよかろう」
「!」
精霊は、満足そうに頷き、赤い雷を一閃させる。
「我が名はアンゴルモア。全ての精霊を支配する大王なり」
「……アンゴルモア……」
「お前は今日からヘカトと名乗れ。そして、水の大精霊として、この地を守護するがよい」
「……ヘカト……」
赤い雷がヘカトの全身に迸ると同時に、彼女は眩く光り輝いた。
数秒経ち、その光が収まった頃――生まれ変わった彼女が姿を現す。
「フッハハハハハ! 似合っておるではないか! フハハハァン! 喜べ! 我は滅多に人を褒めぬぞッ!」
ヘカトの顔を見た瞬間、アンゴルモアは大喜びで笑い、ふわりと空中に浮かんだ。
一方ヘカトは、全く状況がわからず、ぽかんとしている。
「お前は行動力が足りんと思っておるのだろうが、それは違う。人には向き不向きというものがある。ないもの強請りをしていても仕方がない。他で補う方法を考えよ。よぉく頭を使え。我のようにな」
「……は、はあ。ありがとう、ございます」
アンゴルモアがヘカトに与えた力は、水の大精霊としての力。行動力ではない。
つまるところ……遠回しに、自分で考えて自分で行動しろとアドバイスしていた。
ヘカトは首を傾げながらもお礼を言って、洞窟を去ろうとするアンゴルモアを見送る。
「……最後に、一つ質問を」
「よかろう。我は今、機嫌が良い。言ってみよ」
「私をいじめていた人たちは……今、どうしているのか」
「気になるか」
沈黙の後、こくりと頷く。
アンゴルモアは、にんまりと笑って、答えた。
「少なくとも、ここには来られるわけがない」
ここではない何処かへ。
そこはきっと途轍もなく恐ろしいところなのだと、アンゴルモアの愉悦に満ちた表情を見て、ヘカトは悟った。
「――――ほ!?」
「……エコ、目が覚めましたか」
そして、覚醒する。
互いに互いの胸に触れ、内面を覗き合ったのだ。
その結果……二人は、深く理解し合った。
過去に何があったのか。今、何故こうしているのか。全て理解し合ったのだ。
エコは、能動的に、一生懸命に行動し、歯車を空回りさせ続けた。
ヘカトは、受動的に、ただひたすらに耐え、歯車を決して動かそうとはしなかった。
真逆の二人であり、似たような道を歩んだ二人。
彼女たちの大きな違いは……救われたか、否か。
「へかと」
「はい」
「あたし、そのかお、けっこーすきだよ」
「……そう。嬉しい」
エコは、にっこりと笑ってヘカトを見つめる。
ヘカトの顔は、カエルそのものだった。
人間の女性の体に、カエルの頭。ヘカトは、アンゴルモアによってそんな姿にされてしまったのだ。
「……私も、貴女が彼を信頼する理由、少しわかった気がする」
「よかったね」
「……ええ、まあ」
もう一度、人間と関わることになる。
それはヘカトにとって、大きな決断だった。
しかし、今まさに気持ちは傾きつつある。
――もし、エコのように、私も救われていたら、彼女のように笑えたのかもしれない。心の何処かで、そう思ってしまった。
「……私、カエルですからね」
もう、美しくない。
こんな姿なのだから、失敗を繰り返すようなことはないだろうと、ゆえにエコの信頼する彼に会ってみてもいいかもしれないと、行動に移す力がじわじわと湧いてきたのだ。
そう、せめて、彼の反応を見てからエコと契約するかどうか決めてもいい。そのくらいには、前向きに考えられるようになっていた。
そして何より、互いをわかり合ったエコとは、既に以心伝心――。
「よろしーくれっと!」
「……よろしく?」
――とまではいかないが、強い信頼関係は築けている。
こうして互いをわかり合える者など、表裏一体の相手など、今後一人として出てこない。そう確信できるほどに、相性の良い相手だと思えた。
ヘカトは、ようやく重い腰を上げる決心がついたのだ。
精霊として、エコと行動を共にする決心が――。
お読みいただき、ありがとうございます。
12月10日に書籍版6巻、発売予定!!
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