182 四鎗聖戦 幕間
セカンド対シャンパーニの試合が終了した頃。
盛り上がる観客席の中、やけに静かな一組の夫婦がいた。
「…………先に帰る」
「え?」
「一人で帰る。おまえは乗合馬車で帰れ」
「ちょっと、あなた! そんな、一人で帰るって……」
モークス・ファーナは、妻であるトロア・ファーナに向かってそうとだけ言い残すと、闘技場を去るため一人で観戦席を立つ。
闘技場の中央には、セカンド・ファーステストによる《飛車槍術》の直撃を受けて吹き飛ばされたシャンパーニ・ファーナの姿。
観客の誰もが、セカンド四冠の四鎗聖挑戦を喜んでいた。
「あなた!」
夫を呼ぶトロアの声が、大勢の歓声によってかき消される。
「……あなた……」
モークスが燦々と照りつける太陽の下から闘技場出入口の日陰へと姿を消す寸前、彼の背中を見たトロアは、追いかけるのをやめた。
彼の肩が、小さく震えていたのだ。
「…………ずるい人だわ。そんなの、私だって、同じですよ」
彼がどんな思いで娘を売り、どんな思いでこの数年を過ごし、どんな思いで試合を見届けたのか。全て、トロアは知っている。
最愛の娘と別れてから一度も涙を流したことなどなかった男は、ついに我慢の限界を迎えたのだ。そう、彼は妻に泣き顔を見られるのが嫌だった。ただ、それだけの話。
トロアは、横たわるシャンパーニの姿を見つめ、それから、網膜に焼き付けるようにしてゆっくりと目を閉じ、小さく微笑む。
彼女の目の端から、ほろりと、涙が一雫こぼれ落ちた。
* * *
――たったの三手。
ラデン元四鎗聖がとんでもない負け方をした一部始終を、間近で見ていた者が二人いた。
ラデンの妹カレンと、シャンパーニである。
「ねえ、どうしてくれるわけ? おかげで私たち兄妹、生き恥だわ」
カレンが溜め息まじりに呟いて、シャンパーニの方を向く。
「し、仕方がありませんことよ」
するとシャンパーニは、慌てて目の下を指で拭い、平静を取り繕った。
「……ねえ、貴女、今泣いて」
「泣いてませんわっ」
「いやいや、だってお化粧が」
「泣いてませんわよ」
「あっそ」
真のお嬢様は人前で涙を流さないのである。
「…………」
「…………」
二人の間を沈黙が流れる。
不思議な沈黙だった。片や、その地位は天から地へと落ち。片や、地から天へと昇った。そんな相反して然るべきはずの二人が、何故だか心地よい沈黙に身を任せていたのだ。
「私、負けてよかったと思ってるかも」
「そうですか。理由をお聞きしても?」
「身の程を思い知ったというか……ね」
カレンは自嘲するように笑い、腕を組んで語り始める。
「……貴族が憎かった。庶民が敵いっこない大きな力で何もかもを思い通りにするあいつらが嫌いだった。息をするように差別して、弱者のことなんかなんとも思ってなくて、常に得することしか考えてない穢れたやつらだと思ってた」
「違いありませんわね」
「あら、貴女、肯定するわけ?」
「ええ。力を持ち増長しない者は少ないですわ。しかし、わたくしはそれを貴族とは認めません」
「……ハハ、全部お見通しってわけね」
背筋の伸びた姿勢を崩さないシャンパーニを見て、カレンは溜め息を吐きながら廊下の壁に寄りかかると言葉を続けた。
「私たちは、貴族になりたかった」
「ええ」
「私たちより弱い人たちを思い通りに動かして、差別して、得をして、いい気分になりたかった」
「ええ」
「貴女の言う通り、増長していたわ。穢れていた。一番なりたくなかったはずの存在に、いつの間にか近付いていた」
「そうですわね」
二人の視線が、廊下の奥へと移る。
そこには、新聞記者に囲まれて取材を受けるセカンド・ファーステストの姿があった。
「ねぇ、見てよ。あの男、名指しで貴族どもを批判しているわ」
セカンドは予定通り、セカンドをシードに強く推薦した貴族たちを痛烈に批判する。
特にオームーン伯爵家については、三回も名前を口にしていた。そんな様子を見て、シャンパーニは思わずくすりと微笑んでしまう。
一方、カレンは、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱し、嫌気がさしたような顔をしていた。
「……カッコイイと思わない? 貴族をものともしない力。憧れるわね全く。私たちは、ああなりたかったんだ。ああなりたかったはずなんだ。なのに、今は、こんなのって……どうしてよ! なんでこうなっちゃったわけ!? 私たち、何処で間違えたのよ!!」
「わたくし、なんと申しましたっけ?」
「えっ……?」
「わたくしは、貴女にもう答えを伝えましたわ」
――わたくしと、わたくしのご主人様を、よく見ておくといいですわ。
シャンパーニの言葉を思い出したカレンは、ハッとする。
まさか、彼女は、私の境遇と気持ちを、最初から全て見抜いて――
「遅れは取り戻すもの。成ればよいのです。真の貴族、その極意とは、わたくしたち主従に在り。どうぞ手本にしてくださいまし!」
カレンは絶句した。
彼女は、自分とその主人の一挙手一投足を手本にせよと言っている。
なんという自信。そして、信頼。並大抵の信念では、このような言葉は出るはずもない。
シャンパーニの中にあるシャンパーニが信じるお嬢様に背かなければよい。セカンドの中にあるセカンドが信じる世界一位に背かなければよい。当人たちにとっては、それだけだ。
しかし、それこそが、常人にとっては難しい。
気が遠くなるほど、難しい。
「……そう。なるほど、そういうこと」
信念がないなら、やめちまえ。
カレンには、シャンパーニがそう言っているように聞こえた。
「私には無理かもねぇ」
「あら、そうですの?」
「そうだよ。そんな辛い生き方、多分無理」
カレンは組んでいた腕をほどき、寄りかかった壁から離れると、振り返りながら言う。
「でも、少なくとも、これ以上穢れたくはない」
「!」
「貴女の槍術、お見事だったよ。掛け値なく」
ひらりと手を振って、去っていく。
シャンパーニは、そんなカレンの後姿を、実に晴れやかな顔で、優雅に手を振って見送った。
「どうでしょうシェリィ君、ティーボ・オームーン。この後、晩餐会でも」
「私は是非! ティーボさん、辺境伯が直接お誘いくださっているのよ、こんな機会滅多にないわ」
「……い、いえ、少し、その、体調が優れなくて」
「本当かい? 大変だ。ならば私が医者を手配しましょう」
「いえ、そこまでご迷惑をかけてしまうのも……」
「大丈夫、迷惑などと思ってはいません。それ以前の問題です」
「ぷっ」
「ん? シェリィ君、私は何か面白いことを言いましたでしょうか」
「いや、別に……ぷくくっ!」
「どうしましたか? それ以前の問題、という言葉を勘違いしましたか? これは失礼。体調というのは迷惑以前の問題だと、私はそう申したかったんです。人間のクズが今さら何を遠慮しようがどうとも思わないと、そういう意味で言ったわけではありませんよ」
「に、人間の……?」
「ああティーボ・オームーン。気にしないでください。君のことをそのように思ってはいません」
「え、ええ、それ以前の問題で……んぶふっ!」
「人間のクズなどとはとんでもない。まさか学生時代に没落貴族のお嬢様を日常的にいじめ、伯爵家の権力を用いて奴隷にまで落として大喜びしていたわけでもあるまいし、たとえ話でもそんなことをいうのは失礼でしたね」
「――ッ!?」
「……あんたさぁ、私たちが知らないとでも思ってた?」
「滑稽だな。私たちに合わせて一度は奴隷まで落とした相手をああも褒めちぎるとは。しばらくは思い出すだけで笑えそうだ」
「そ、そんな、どうして……!」
「私とセカンドって、マブダチなのよね」
「私もマブダチ、だと思いたいですが」
「最初から騙していたってこと!?」
「そうよ。おかげで面白かったわ。そこだけは感謝してもいいかしら」
「私はクズに感謝と謝罪と挨拶はしない主義なので、なんとも思いませんね」
「さ……最低! 最低よ貴方たち! 品性下劣ね! お父様に言い付けてやるわ! 覚悟しておきなさい!」
「最低って、あんたそれ本気で言ってる?」
「そんな使い古された愚かな言葉をよくもまあ口にできますね。恥ずかしくはないのですか?」
「こんな低俗なことをするなんて、伯爵令嬢と辺境伯とはいえ、お父様がただでは済まさないわよ!」
「何故? 私は辺境伯です。お前の家より上だ。履き違えるなよガキ」
「……っ」
「傑作ね。あんた今、昔のシャンパーニさんと同じ状況よ?」
「そうですね。なら行き着く先は奴隷がいいでしょうか。私としてはファーステストの使用人がおすすめです。私は優しいですから、どちらか選ばせてあげましょう」
「え、それってあの家に行く度に顔を合わせることになるかもしれないってこと? 嫌よそんなの」
「では奴隷で」
「……~~っ!!」
「逃げたか」
「頼りのチリマ伯爵もセカンドのせいで今頃は批判の的……絶望的ね、彼女」
「私としてはこれを機に邪魔なオームーン伯爵家を排除したいところですが、はてさてどうなることやら」
「……スチーム卿、ノリノリだった理由ってもしかしてそれ?」
「まさか。私は単に、彼に気に入られたいだけですよ」
「それはそれでなんか気持ち悪いわね……」
* * *
「うンめぇ」
晩メシは肉が多かった。
ユカリのやつ、地獄耳もいいところだ。もしかすると読唇術を会得しているのかもしれない。
「それにしても、ティーボはやっぱり筋金入りのクソ女だったわ。あんた会わなくて正解よ」
肉料理を堪能していると、当然のような顔で食卓を囲んでいるシェリィが口を開いた。
「え、なんで?」
「きっと殴ってるもの」
「おいおい、俺は女子供は殴らない主義なんだぜ?」
「あんたチェリのこと思いっきり殴り飛ばしてたじゃない……」
そうだっけ。
「セカンド卿、貴方そんな趣味まであったのですか。少々軽蔑します」
そして当然のように隣でメシを食っているスチームも便乗して喋りだす。
「趣味じゃねぇ主義と言ったんだ」
「ああ、なるほど。では私と同じですね」
え。
「私は相手がクズであれば女子供とて容赦はしません。ゆえに、ティーボ・オームーンは奴隷に落とす」
「本気か?」
「ええ。責任や覚悟などとくだらないことは仰らないでくださいね?」
「ごめん今はずみで言いそうになった」
「……全く貴方は。正直にも程がある」
怒られた。
「私は辺境伯。陛下に信頼され、国境を任されているのです。ご存知でしょう? クズは徒党を組んで国を蝕む。貴族とあっては尚更。言わば獅子身中の虫、国防においては邪魔なだけの存在だ。放置は悪手です。ご心配なさらず、クズの駆除など今までに数え切れないほどしていますから」
「単に嫌いだからというわけではないんだな」
「いえ、普通に嫌いですけどね」
「それとこれとは別か」
「別にしなければならないでしょう。力を持つとはそういうことです」
流石は千手将戦出場者。こうでなくてはならない。俺も見習わないとな。
「よし! じゃんじゃん飲め!」
「下戸です」
「シェリィ!」
「未成年よ」
なんだかなぁ!
……あれ?
「なあ、ユカリ」
「はい、ご主人様」
晩メシの後、俺はふと違和感を覚えたので、ユカリを呼んで聞いてみた。
「シルビアとエコはどうした?」
「既に就寝しております」
「早っ」
あ、いや、エコはいつも通りおねむの時間か。
となると……?
「では、私はこれで」
おっと、ユカリに何も言われなかった。
ということは――
「明日はどっちだろうなぁ?」
お読みいただき、ありがとうございます。