閑話 パンはパンでも電波半端
おまけ その2
「わあ……!」
アザミは街を見渡し、思わず感嘆の声をあげる。
港町クーラから格安の乗合馬車をいくつも乗り継いで、数日かけて到着した先は、キャスタル王国王都ヴィンストン。
見上げるような建物がずらりと並ぶ大通りは、いわゆる「田舎者」のアザミにとってみれば、まるで別世界のように感じられた。
その驚きは、建物に限ったものではない。行き交う大勢の人々、衣服や装備の多様性、商店の煌びやかさ。どれをとっても、彼女の人生において初めて目にするものばかり。
「凄いわ……夢みたい」
今からこの地で、パン屋を開く。
それが、今のアザミの夢。
吉祥流の名を捨てて、トウキチロウに頭を下げて金を借り、単身で島を飛び出して……失うものは、もう何もない。
あまりにも“チャレンジャー”過ぎるアザミのこの行動に、周囲は散々反対した。しかし、彼女の意思は固かった。
アザミは「自分の好きなことに素直でいたい」と、心からそう思えたのだ。
誰の影響かは、言うまでもないだろう。
「さて、まずは場所よね」
だが、現実はそう上手くは行かない。
なんとアザミは、パン屋開業についての知識が皆無。ただ「パンを作って売ればいい」とだけ考えている世間知らずであった。
パンを売るためには材料と場所が必要。つまり場所を決めて、そこで材料を揃えれば、後は作って売るだけ……という彼女の計画は、考え足らずにもほどがある。
ただ、こればかりは仕方がないだろう。生まれてこの方、抜刀術一筋のアザミ。刀八ノ国などという極めて情報の届き難い島国に篭って半端に電波を受信していたがために、“パン屋”というものに関して聞き齧りの知識しかないのだ。
「あ、あら……?」
大通りを見て回るアザミが、一つの事実に気付く。
店を出すスペースが、何処にも見当たらないのである。
これは至極当然のこと。王都の大通りなど、王国の中で最も良い土地と言っても過言ではないほどに人気の場所。名だたる一流店がここを目指してしのぎを削っているような場所なのだ。いきなりふらっと訪れたアザミが、簡単に店を構えられるような所ではない。
「……駄目ね。ここ以外の場所を探さないと」
アザミは肩を落とし、大通りを後にする。
その際……ふと、ある店がアザミの目に留まった。古き良きといった様相の、小ぢんまりとした店だ。
看板にはこう書かれている。
『食料品店 アイシクル』
もしかしたら、ここで強力粉やイーストを購入できるかもしれない。そう考えたアザミは、仕入れの下見を兼ねて店内を少し覗いてみることにした。
「――いらっしゃいませ!」
入店と同時にカランカランとベルの音が鳴り、店番の女の子がアザミへと笑顔で挨拶する。
「…………」
アザミは絶句した。
まず、このアイシクルという店は、彼女の知る他のどんな店よりも清潔であった。綺麗に磨かれた床には一つの汚れもなく、色とりどりの食品が見事に陳列されている棚の何処を見てもハエの一匹すらいやしない。
これは当然のことのようで、非常に難しい。日々の中に徹底された衛生管理が根付いていなければ、こうはならないのだ。衛生管理という概念すら危うい刀八ノ国に暮らしていたアザミにしてみれば、カルチャーショックもよいところであった。
次に、店番の女の子の可愛らしさ。笑顔で丁寧なお辞儀をする確りとした挨拶も然ることながら、特にその服に、アザミは思わず目を奪われた。それはおよそ食料品を専門的に扱う者の格好とは思えない、きっちりとした縫製の白いシャツと刺繍の入った黒いベストに可愛らしいデザインのスカートとフリルのついたエプロン。見るからに高級な衣服である。食料品店の店員が、どうしてここまできちんとした格好をするのか。アザミは俄かには理解できない。
「な、何よ、じっと見て」
店番の女の子は、アザミの熱い視線を感じてか、ジトリとした目で沈黙を破った。
「あら、ごめんね。貴女が可愛かったものだから」
「んなっ!?」
アザミは普段マサムネがするように、さらりと気障なセリフを口にする。
それを受けて、顔をほんのり赤くする相手。
「貴女、名前を教えて?」
「……アイスよ」
「ありがとう。私はアザミ。今日、刀八ノ国から出てきたのよ。よろしくね」
店番の女の子は、名前をアイスといった。彼女は食料品店アイシクルの看板娘だ。
アイスの丁寧なお辞儀に習い、アザミは艶やかに一礼する。
それを受けたアイスは少々面食らったものの、アザミが“旅の客”だとわかると対応を新たにした。
「よろしく、アザミさん。で、今日はうちになんの用?」
「ああ、そうね。ここって、強力粉とイーストはあるかしら?」
「売ってるわ。パンを作るの?」
「ええ。パン屋さんを開こうと思って」
「へぇ、凄いわね! 何処に開く予定?」
「それがまだ決まってないのよ。アイスさんは何処が良いと思う?」
「えっ……?」
アザミがあまりにも自然に言うので、アイスは目を点にして固まった。
てっきり旅の客だと思っていた相手は、パン屋を開くのだという。それだけならいい。しかし問題は、その場所すら決まっていないという点。その上、改めて考えてみれば、アイシクルのような小売店から材料を仕入れようとしている点もまた大問題と言えた。
あまりにも無知すぎる。アイスは眉根を寄せて頭を抱えた。
「どうしたの?」
「いや、こっちのセリフよ……アザミさん、あなた何しに来たの?」
「え、パン屋を開きに……」
「場所も決まってないのに? 法的手続きは? 王国とギルドへの届け出は? パン焼きのかまどは? そもそも開業資金はあるの? うちで材料揃えようとしてたんなら、卸売りの存在すら知らないんじゃない?」
「……ええっと……」
最終的に、アイスは天を仰いだ。
おでこに手をあてて「あちゃー」と言っている。
「ご、ごめんなさい。そんなに駄目だったかしら……?」
「はぁ……いーい? あなたは今ね、魔物が犇めく森の中に、手ぶらで入ってきたようなものなのよ?」
「あ、それなら昔に」
「え?」
「え?」
互いにきょとんとする。
アイスは暫しの沈黙の後「まあいいわ」と一言、改めて口を開いた。
「無理よ。あなた、このままじゃパン屋なんて到底無理。悪いこと言わないから、まずどっかの店で雇ってもらって修行しなさい。そこで色々と学んで、それから開業するの。それがいいわ」
「そ、そうなのかしら」
「そうなの!」
あまりにも世間知らず過ぎるアザミを相手に、アイスは段々とイライラしてきたようで、若干怒りながらも的確なアドバイスを口にする。
一方のアザミは「そういうものなのねぇ」と、まるで他人ごとのようであった。
「アイスさん、ありがとう。とても勉強になったわ。また買い物に来てもいいかしら?」
「ええ、またいらっしゃい。あなた、見ていてほんっっっとーーに不安だから。むしろ定期的に顔を見せに来て、お願い」
「とても親切な人なのね、貴女……わかったわ、そうする」
「親切なんかじゃないわよ。私の精神衛生上の問題よ」
ありがとうありがとうと何度も感謝を口にするアザミを、アイスは「はいはい」と手をひらひら振って見送った。
変な人もいるものだ、と。呆れ顔でそんなことを思う。
これが、アザミとアイスの出会いであった。
翌日。
アザミは朝からアイシクルを訪れていた。
そして、適当に入った宿屋が一泊4000CLもした事実を半泣きになりながら報告する。
これはぼったくられているのではないか、と主張するアザミを、アイスは「そんなものよ」と一蹴した。
どうやら、刀八ノ国と王都ヴィンストンの物価は大きく違うらしい。そんなことを今になって学んでいるアザミに対し、アイスの心配は増す一方であった。
そこへ、招かれざる客がやってくる……。
「――お邪魔しま~す」
ドアを開けて入ってきたのは、カッチリとした恰好をした若い男たちだった。
先頭の男の挨拶を皮切りに、ぞろぞろと入店する。その数五人。どうやら、ただの客ではなさそうであった。
「な、何よあんたたち……! また出てけって言いに来たわけ!? ふざけないで! 何度言われようとうちの店はっ!」
「まあまあ落ち着いて。君たち親子がここを出ていかないことは百も承知ですよ」
「だったらなんの用よ!」
「あれ、おかしいなあ。ここは食料品店でしょう? 食料品を買いに来たに決まっているじゃありませんか」
「……っ……!」
途端に、アイスは敵意を剥き出しにした。
男たちは薄ら笑いを浮かべながら、店内を物色する。
「お知り合い?」
ただごとではないとわかりながら、アザミは一言アイスに質問した。その落ち着き払った声に、アイスはなんとか平静を取り戻す。
「……隣の酒場の差し金よ。うちの両隣の土地を買って、うちの土地も狙ってるみたいだわ。でもね、いくら積まれてもあたしたちは出ていかない。あたしは誇りを持ってこの店をやってるの。その気持ちはママも同じ。誇りを売ってまでお金は欲しくない」
小さな声の、悲痛な叫びだった。
しかし、アザミがアイスを尊敬するには十分な声であった。
彼女は、母と二人きりで、この食料品店を護っているのだ。大勢の男たちを相手に、一歩たりとも退くことなく。
「連中、違法賭博で儲けてるって噂があるわ。いいえ、証拠もある。誇りを忘れた最低な行為よ……絶対に許せない。私は、この街が、この街の誇り高き人たちが好きなの。だから尚更許せないの。意地でも退くもんですか。あたしは最後まで誇りを持って抵抗するわ。どんな嫌がらせを受けようとね……っ」
その細い体を震わせて、アイスは男たちを睨みつける。
――アザミは、思わず拍手を贈りたくなった。彼女のその誇りある覚悟を、街の人々に大声で伝えて回りたくなった。
だが、アザミが感動を覚えたアイスの高潔さなど、誇りを捨てた男たちにはわかるはずもない。
「おいおい! 見ろよこの肉、腐ってるぜ!」
「くせぇ! 酷い臭いだ!」
「こっちの豆なんか、虫が湧いてるぞ!」
「オェッ! 吐き気がしてきた!」
「最悪な店だな! 二度と来るか!」
わざと店の外にまで聞こえるような大声で、ありもしないことを喚き散らす。
男たちはいやらしく笑っていた。「困るだろう?」と、アイスにそのような視線さえ送る。
「営業妨害よ! 帰って! 騎士団を呼ぶわよ!」
「おー怖! この店は店番の女もヒステリーときた」
「俺たちは事実を言っているだけなのになぁ?」
「うるさい! うるさいっ! 出ていけ! 出ていけーっ!!」
アイスはぎゅっと拳を握りしめ、目に涙を溜めながら、力いっぱい叫ぶ。
……すると、男たちは一斉に真顔に戻り、どすの利いた声でこう言った。
「また来るからな」
非力なアイスにとってみれば、恐怖でしかない。
これが一体いつまで続くのか。考えるだけで目眩がするだろう。
「あ、アザミさん……っ?」
だからこそ……アザミは、看過できなかった。
流派の制約から解き放たれた今、彼女は何かに縛られ邪魔をされることをよしとしない。たとえそれが他人のことであっても、見逃そうとは思えなかった。誇り高きアイスへの敬意が、彼女の侍としての矜持を刺激したのだ。
アザミは男たちに気付かれないよう気配を消し、静かに移動しながら、こう考える。
――アイスが、誇りある覚悟を見せてくれたのだ。私は、誇りある決断を――。
「きゃあっ!」
男たちがアイシクルのドアから出ようと、ドアに手をかけた刹那。アザミは男とドアの間に入り込み、わざとらしく大きな声をあげて、ドアの外へと倒れ込んだ。
何ごとかと、店の外を歩く人々が注目する。
「おい、気を付けろ」
「なんだこいつ。俺たち悪くないよな?」
「当たり屋かよ。ふざけやがって」
男たちは街の人々に聞こえないよう、小さく文句を言った。
その態度を見て、アザミは密かにニヤリと笑う。
「いやっ! やめて! 犯されるぅ!」
直後、アザミは叫んだ。ありもしないことを。
男たちと、同じことをしたのだ。
「はぁ?」
「来ないで! 五人で寄って集って私を犯そうとするなんて! このケダモノ!」
「お、おい」
「貴方たち、隣の酒場の男たちね!? こんな蛮行、絶対に許さないわよ! 誰かー! 誰かー! 男の人呼んでーっ!」
「このっ! 黙れ!」
明らかに芝居とわかる叫び。通行人は間に入ろうかどうか、二の足を踏んでいる。
だが、男たちは“酒場”という単語が出た瞬間、途端に焦りの表情を浮かべた。
そして、すぐにでもこの女を黙らせなければならないと、つい接近してしまったのだ。
こうなれば、もはやアザミの思う壺であった。
「――ッ」
一閃。
吉祥流家元の《銀将抜刀術》が、空気もろとも何かを斬り裂いた。
「っ……?」
男たちは、何が起きたのか理解できなかった。しかし、今、目の前の女が、確実に何かをしたということだけはわかった。
何故なら、アザミの目が、ほんの一瞬だけ……地獄の鬼さえ裸足で逃げ出すような恐ろしい鋭さを覗かせたような気がしたのだ。
しかし、数秒経っても、何も起きない。男たちは、勘違いだったようだと安堵する。
「いやああああー! 変態五人組ーっ!」
「ちっ、クソッ! 黙らせろ!」
一拍置いて、また叫びだすアザミ。男たちはその口を塞ごうと、大きく一歩踏み出した。
すると……
「きゃあーっ! こいつら、こんな往来で脱ぎだしたわーっ!? やる気満々じゃないのぉーっ!」
「え……ゲェッ!?」
「うわっ!? 俺もだ!?」
五人の男たちのうち、アザミに近い二人の、そのズボンが、ストンと、足首まで落っこちた。
先程の抜刀で、アザミがベルトを断ち斬ったのである。
結果、二人の男はパンツ丸出しとなった。
「なっ、なんだこの女!」
「さっさと隠せ馬鹿! ずらかるぞ!」
男たちは、たまらず撤退した。
慌ててズボンを上げ、そのまま走って逃げる様は、まさに滑稽の一言。
「うわー……」
通行人は、ドン引きである。
「隣の酒場ってそういう所なのか」と、思った者も少なくはないだろう。
……逆に。アイシクルの中で男たちが喚き散らしていた言葉を信じる者は、非常に少なかった。
皆、知っているのだ。この街に暮らす者は、全員が知っている。アイシクルが、そういう店ではないということを。この街が誇る、誇りある店であるということを。
だから、だろうか。
「え、えぇ……?」
アザミの馬鹿馬鹿しいとさえ思える小芝居に、アイシクルの事情を知っている街の者たちは、惜しみない拍手を贈った。
困惑するアザミ。それもそうだろう。しらけた空気になるかと思いきや、まさかよりによって拍手を貰えるとは思っていなかったのだ。
「アザミさんっ!」
直後、一部始終を見届けたアイスが、アザミへと駆け寄る。
そして。
「あなた、なんてことするのよっ! 心配するじゃない! バカ! もうほんっとバカ! ありがとう! 胸がスッとしたわ!!」
ぎゅっとアザミに抱き着いて、罵倒しつつ感謝を伝えた。
アザミがアイスを抱き返すと、その体が小刻みに震えていることに気が付く。
本当に心配だったのだろう。アザミは、十ほど歳の違うアイスのことが世話焼きで心配性な妹のように思えて、つい温かな気持ちで微笑んだ。
「心配かけてごめんなさいね。私なりに、誇りを示したかっただけなのよ」
「うん、伝わったわ。その……見栄えはすこぶる悪かったけど」
違いない、と二人して笑う。
暫くしてアイスの震えが止まった頃、アザミは体を離し、アイスと正面から向かい合って口を開いた。
「私も、この誇りある街で、やっていけるかしら?」
「……大丈夫よ。アザミさんなら、きっと。私が保証する」
「ええと、じゃあ、その……」
「?」
「お願いなのだけれど……お店の中に、場所を貸してもらえないかしら? 一畳分くらいでいいの。パンを、売りたくって」
アイスは一瞬だけきょとんとして、それから挑戦的な笑みを浮かべた。
「家賃、高いわよ」
「……どのくらい?」
「うちの用心棒として働きなさい。そしたら、三食寝床付きで場所貸してあげる。どう?」
「あ……」
「あ?」
「アイスちゃあんっ!!」
「ちょ! なぁっ!? 抱きつくなっ! もうっ!」
こうしてアザミは、パン屋開業の夢、その第一歩を踏み出した。
ほどなくして、王都に“くりいむぱん”ブームが訪れるのだが……それはまた別の話。
お読みいただき、ありがとうございます。