閑話 釣り
おまけ。
現在の王都ヴィンストンは、第三騎士団が治安維持に尽力していながらも、あまり芳しい状況とは言えない。
具体的には、王都郊外の“スラム街”に暮らす多くの犯罪者たちが徒党を組み、一般市民の安全を脅かしていた。
元は浮浪児や孤児だった者が殆どであり、最低限の教育を受けられていないために就労が難しいという不条理への諦念から、やむを得ず窃盗・恐喝・略奪などの犯罪に手を染めているようだ。
王都の治安の悪化は、そういった劣悪な環境に晒された者たちが往々にして陥る負の連鎖が相応に進行した結果である。
そして、今は亡きバル・モロー宰相の提唱による義賊弾圧政策によって王都近郊のほぼ全ての義賊が排斥された今、彼らのような所謂“小悪党”が秩序なくのさばることとなった。
ただ、これ以上の悪化だけは、食い止めることができた。若き新国王マイン・キャスタルの主導によって、宮廷内の“膿”が出し切られたのだ。キャスタル王国中枢にはもう、故意に王国を悪しき方向へと導くような者は存在しない。
徐々に、本当に少しずつではあるが、問題は解決へと向かっていっている。
だが、完全なる解決までは、随分と長い時間を要してしまいそうであった。
とある休日。
ヴァニラ湖の隅の隅のそのまた隅。滅多に誰も寄り付かないその穴場に、釣り道具を持って訪れる男が一人。骨ばった顔、オールバックに固めた黒髪、何人も殺していそうな鋭い三白眼、がたいの良い長身、30手前のパワー溢れる貫禄。義賊R6の構成員、若頭キュベロの舎弟ビサイドである。
「おう、坊主。また今日も暇しとんのけ」
ビサイドが声をかけたのは、目つきの悪い16ほどの青年。ビサイドは親しみを込めて彼のことを「坊主」と呼んでいる。その坊主は、既に一人で釣り竿を構えていた。
「兄貴こそ、仕事はええんか?」
「ああ、今日は休みじゃ」
よっこいしょと呟いて、ビサイドは坊主から少し離れた岩場に腰を下ろす。
「何じゃあ、まだボウズやんけ。坊主だからボウズってか、え?」
「うっせ。今に掛かるわ」
「おっしゃ、なら早掛け勝負じゃ」
「はいはい」
軽口を叩き合いながら、仕掛けの準備をするビサイドと、釣り糸を垂らす坊主。
心地良い空気、流水の音、微風の匂い、暖かな冬の日差し。これが、いつもの休日の風景であった。
「よいせっ」
ビサイドもひょいと仕掛けを放り、坊主に続く。
彼は思う。こうして坊主と釣り場を共にするようになってから、何週間が経っただろうかと。
二人の出会いは、甚だ、鮮烈なものであった――。
「オッサン。俺に釣りを教えてくれよ」
ある日。ビサイドが釣りをしていると、背後からそう声をかけてきた青年がいた。
ポケットに手を突っ込んだまま、横柄な口調で、ギラついた眼光で。とても人にものを頼む態度ではない。
だが、そんなことよりも、ビサイドには気になることがあった。どうして自分に声をかけてきたのかということだ。ヴァニラ湖にはビサイドの他にもごまんと釣り人がいる。そんな中で、何故、よりにもよって、こんなコワモテのいかにもカタギではない二十九のオッサンに?
「……座れ、坊主。教えちゃる」
この変わった青年と会話をしてみるのも、面白いかもしれない。そんな、気まぐれであった。
すると青年は、意外そうな顔で数秒間ビサイドを見つめてから、口を開く。
「教えてくれんのか」
「おう」
「釣りを、俺に、教えてくれんのか?」
「そう言っとろうが」
「本当に……?」
「何じゃあ、しつこいな。早うこっち来て座れ。教えちゃらんぞ」
「ま、待て、今行く! 待ってろよ!」
青年はゴツゴツとした岩場を乗り越えて、ビサイドのもとまで駆けるようにして近寄った。
後から判明した話である。青年は、ヴァニラ湖じゅうで「俺に釣りを教えてくれ」と聞いて回っていたようだ。青年は、丁寧語、ましてや敬語など、一つも喋ることができない。結果は当然、尽く断られた。最後の最後、諦めつつも試しに聞いてみたビサイドが唯一の当たりであったため、不意を突かれて驚いたのだとか。
……それから。ビサイドは、青年に対して、休日の度に釣りを教えた。
青年は釣りの技術をどんどんと吸収し、二週間も経てば、一端の釣り人と言えるまでに成長した。
お互いに、何の仕事をしているのか、何処に住んでいるのか、そして名前すら、一つも知らない間柄。だが、青年はいつしかビサイドのことを「兄貴」と呼んで慕うようになり、ビサイドは青年のことを変わらず「坊主」と呼び続けた。
そんなある日。釣りをする二人のもとへ、招かれざる客がやってくる。
「おーおー、ここかぁ。へえ、悪くないじゃん」
「失礼しまぁーす」
「おっすおっす。来てやったぜー」
「……お前ら、何しに来た」
いかにも悪そうな風貌をした若者の三人組。全員、坊主よりか2つか3つほど年上の男であった。
坊主は立ち上がると、三人から距離を取るように一歩だけ後ずさる。
「いやさあ、最近スラムでも話題になってんだよねぇ。釣りが稼げるって」
「一人だけ良い思いしてるガキがいるらしいじゃん?」
「なぁ、ずるいよなぁ。お前もそう思うよなぁ? 誰だろうねぇ?」
三人組はニヤニヤと坊主に近付いて、前後左右を囲む。
「これが道具かぁ」
「もーらい」
「あざーっす」
釣り竿と網が盗られる。
「…………っ」
坊主は、下唇を噛み、ただ黙っていることしかできなかった。
三人を相手に、勝てるわけがない。それは痛いほどよく分かっていた。加えて、この三人はスラム街でも幅を利かせている札付きのワル。逆らったら、もうスラムでは暮らしていけない。
そして、何より。自分も同じ道を通ってきたのだ。弱者から奪う。大切なものを盗む。全ては、力で決まる。この世の理であった。
「――おう。ちょい待ちぃな、ニイちゃん」
腹の底まで響く太い声が、三人組の視線を集める。
声の主は、未だ釣りをしたままの体勢のビサイドであった。
「あぁ? 仕事の邪魔すんなよオッサン」
リーダー格の青年が、ビサイドの背中を睨みながら言う。
「仕事か」
「ああ、そうだよ。仕事仕事。俺らの、シノギってやつ?」
「ハハハ、そうそう。こうやって悪党から金を巻き上げる義賊やってんだ、俺ら」
「……悪党?」
「え、オッサン知らねーの? こいつ、スラムでも有名なスリだぜ」
「最近は釣りの方が稼げるって、釣りばっかやってるみたいだけどな」
「クズだよクズ。今まで散々盗ってきたんだから、盗られて当たり前じゃん」
「…………」
事実である。ゆえに、坊主は閉口した。
真っ当な教育を受けられず、人生に絶望した貧しい若者が犯罪に走ることは、減少の傾向にあるとはいえ、まだまだ王国の問題として根深く残っている。坊主が言葉遣いも釣りの方法も何も学べていなかったのは、そこに理由があった。
「そうか……」
ビサイドは一人納得するようにぽつりと呟くと、釣り竿を置いた。
「お、何? やるの?」
「こっち三人だけど。三対二だぜ」
「しかも一人はコソ泥のガキだし。無理無理やめときな」
三人組は、それでも立ち上がるビサイドの様子を見て、釣り竿を地面へ放り捨てる。三対二だろうがあっちはやる気だと、そう気付いたのだ。
「なあ……義賊っちゅうんは、何や思う」
「はぁ?」
ビサイドは背中を向けたまま、三人へと語りかける。
「義賊っちゅうんは、悪人から奪うんでも、盗むんでもないんじゃ。そんな生半可なもんやない。悪人を殺す悪人じゃ。お天道様に背ぇ向けて、全てを捨てて生きていく修羅なんじゃ」
「何言っちゃってんの、このオッサン」
ふう、と。溜め息ひとつ。言葉を続ける。
「覚悟ぉせい。義賊するんは、一生ぞ。人の道に反するは、一生ぞ」
「…………」
虚空を睨みつけるようにして、鬼の形相で声を発した。
三人はその迫力に呑まれ、思わず黙り込んだ。
そして。ビサイドは、自身の上着に手をかけて、一気に――脱ぎ捨てる。
「――っ!?」
あらわになった背中。そこにあったものは、一面に彫られた刺青。
浮世を睨みつける鬼の刺青であった。
この世界における刺青は、まさしく畏怖の対象。麻酔など存在しないうえ、彫った直後にポーションを使うと刺青が薄くなってしまうため、容易に回復することはできず、長期間に渡って地獄の痛みに耐える必要があるのだ。
それが、背中一面、びっしりと、はっきりと、濃く、彫られている。
紛れもなく、明快に、本物の――“義賊”。青年三人と坊主は、それが一瞬で分かった。
「……ぁ……り、R6(リームスマ・シックス)……!」
三人組のうちの一人が、後ずさり尻餅をつきながら呟いた。その鬼の刺青に見覚えがあったのだ。
王都に暮らす悪人なら、知らぬ者などいない、天下の大義賊。泣く子も黙るR6は、騎士団による弾圧で滅びたと聞いていたのに。何故、ここに。
「大義賊R6が一人、天下無双のファーステスト家、園丁見習いビサイド。このおいらがァお相手致す!」
ビサイドは仁王立ちで口上を述べ、三人組と相対する。
三人は、可哀想なほどにビビり上がった。
「ファーステスト家ぇ……!?」
既に解体された義賊R6ならまだしも。現在進行形で王国の裏も表も牛耳っているのではないかと言われているあの巨大な大使館の人間と分かれば、何処の誰だろうが敵に回そうなどとは到底思えない。
ここで、ファーステストの名前を出した理由。それはこの三人組にスラムにおいても坊主へと手出しをさせないための抑止力。ビサイドは後でお叱りを受けるつもりで、独断で坊主を守護したのだ。または、口が滑ったとも言える。本人でさえ驚きの愛着。存外、ビサイドは坊主のことを気に入っていたのである。
「ひぃっ!」「くそっ」「に、逃げるぞ!」
三人組はそれぞれ脱兎の如く駆けだし、尻尾を巻いて逃げていった。
「……あ、兄貴」
その場に残された坊主が、何かを言おうとする。
ビサイドは、無言で服を着て、再び釣り竿を持った。
「…………」
しばしの沈黙ののち。坊主も、ビサイドに続く。
そして、おもむろに、ビサイドの隣へと並んだ。
……これでいい。この関係でいい。ビサイドは遠く湖の彼方を見つめ、こっそりと、微笑んだ。
「離れんかい。お祭りになるじゃろが」
「お祭り?」
「糸がこんがらがるっちゅうこった」
「そっか……じゃあ俺、今日はここで見とくわ」
「……好きにせぇ」
「――てる! 兄貴! 引いてる!」
「ん? のわぁ!? バッ、馬鹿お前、もっと早う教えろ!!」
「自分の竿でしょ!? 自分で見とってよ!」
「やかましい! 網じゃ、網!」
「はいはい!」
ビサイドがぼんやりと数週間前のことを思い出しているうち、魚がかかっていた。
「っしゃあオラァ! 見たか! 大物じゃ!」
「良いサイズだぜ。でもこれ、飲んじまってるなぁ針……」
坊主は道具を使って、せっせと魚が飲み込んだ針を外す。慣れた手つきであった。
魚はバケツへ。仕掛けと餌を再びセットして、坊主はビサイドへと釣り竿を返す。
その様子を、ビサイドは何処か満足そうに見つめていた。
そしてまた二人静かに釣り糸を垂らす。
「なぁ兄貴。タイトル戦見に行った?」
「おう、そりゃ当然よ。うちの使用人は全部観戦すんのが義務じゃ」
「うわー、いいなぁ。俺ちょっとしか見れんかったよ」
「へっへっへ。なんせうちのご主人が出場しとるんじゃ。それも三つもな! 観に行かんわきゃあるかい」
「まーた嬉しそうに言っちゃって……」
「三冠ぞ、三冠! 弓も獲っとるみたいなもんや、実質四冠じゃ! 嬉しいに決まっとろうが」
「スゴすぎてスゲェとしか言えないわ俺は。遠い遠い雲の上の存在だな」
「あの人はな、全て賭けて戦っとるんじゃ。おいらたち義賊と一緒じゃ。熱入れて応援したくもなる」
「けっ。全然違うよ。義賊ってのは、悪い意味で全部賭けてんだ。あの人は、良い意味で全部賭けてんだ」
「言うようになったやないか坊主。まあ間違っちゃあいねぇよ」
「だろ? 俺は義賊なんか嫌だね。できればセカンド様みたいになりてぇ」
「……ん? お前」
「いや別にファンとかじゃないから。あわよくば兄貴にサイン貰ってきてほしいとか全然思ってないから」
「聞いといてやろうか?」
「ほ、本当にっ!?」
「嘘じゃボケ」
「…………」
「あっ!? すまん悪かった! 逃がすな! 晩酌の肴が! あーっ!」
お読みいただき、ありがとうございます。
次回から『第八章 聖女編』です。