第10話『亜弥香たちの休日』
「……はぁぁぁぁ」
亜弥香は目の前に広がる惨状を目の当たりにして朝一番から盛大にため息を吐いた。
あちこちに散らかった服や下着。夜食に食べたと思われるカップ麺の容器には割り箸が突っ込まれたままでクーラーの効いた部屋に残り汁の匂いが充満していた。ほとんど足場の残されていない部屋を突っ切って閉ざされた窓を開け放つ。
新鮮な朝の空気を全身で受け止め、亜弥香はようやく一息つく。汚染されきったこの部屋の空気は綺麗好きの亜弥香にとって地獄でしかなかった。
何度か深呼吸をしているうちに淀んだ空気は多少窓の外に逃げていってくれたらしく、ここに来た本来の目的を果たすために亜弥香は未だに眠りこけているこの部屋の主の前に立った。
「あなたね……仮にも女の子なんだから少しは寝方ってものを考えなよ……」
バンザイした状態で大きく口を開け、尚且つ寝相のせいで完全に捲れてしまった服の間からはオヘソが丸見えになっていた。
他の人には絶対に見せられない久遠の醜態と言えるだろう。
「ちょっと久遠。起きて。起きなさい!!」
三秒と持たず痺れを切らした亜弥香は久遠の丸見えのお腹に向かってパーで全力で叩いた。
風船が破裂するような乾いた音が部屋中に響くと同時に、突然自分の身を襲った痛みに驚いた久遠はうさぎのように跳ね起きる。
「敵襲!!?」
「違うわよ!! そもそも敵だったらあなたもう死んでるから!!」
「それもそうだね。それで……どうして起こしたの」
壁に掛けてある時計を見た久遠は嘆いた。
今日は土曜日。そして現在の時刻は7時になる前。誰もが寝て過ごしたいと思う休日にこんな早く起こされた久遠は不機嫌そうに亜弥香を見る。
「どうして起こした……? ねぇ久遠。昨日した約束をまさか忘れたとは……言わないよね?」
「……昨日。ちょっと待って」
亜弥香からただならぬ空気を感じた久遠は寝起きの頭をフル回転させて昨日の記憶まで遡る。
まず放課後。仲良くなった遊馬たちと共に駅前の喫茶店でお茶を飲みながら雑談をした。それから夕飯前にはそれぞれ帰路について寄り道も何も無しでそのまま帰宅。食事当番は亜弥香だったから久遠はジャージに着替えて夕飯が出来るまでソファーでごろごろしつつファッション雑誌を読んでいた。
そして出来上がった夕飯を美味しく食し、その後夜食用のカップ麺を近くのコンビニまで買いに行った帰りに公園にいた猫と戯れ、家に帰ったらお風呂に入ってリビングで再びごろごろ。テレビを見ていると亜弥香が話しかけてきて明日は朝イチで買い物に行くから付き合ってと――
「買い物だね! 大丈夫、ちゃんと覚えてるよ!」
「……ぶっ殺されたいの?」
「やだなぁ。現実的に考えて亜弥香が私に勝てるわけないじゃん?」
さらっと喧嘩を売られた亜弥香は眉間に皺を寄せる。
今すぐにでも窓の外へと投げ飛ばしたい衝動を辛うじて残った理性で押さえ込む。
「《能力》はともかく基本戦術は久遠より上だから。久遠は《能力》に頼りすぎなんだよ。だから《能力》無しの模擬戦の成績いつも悪い」
「実戦で《能力》無しで戦うことなんて有り得ないんだから別にいいんだよ。それにほら? 私と亜弥香のコンビは最強だからね! 向かうところ敵なし」
【教会】は基本的に単独行動をしない。
最低でも2人。最大で5人のチームを組んで任務を行うことなる。もし敵がただの人間ならば単独でも任務を遂行することは容易だが、もし仮に【軍】の人間と交戦することになった場合、単独だとまず勝ち目がない。
同じ《能力》という特別な力を持つ者同士でも【軍】の力は【教会】を遥かに上回っている。何故そこまで差が出てしまうのか。単純な話、【軍】は個人の《能力》を特化させる為の特別な訓練を行っているからなのだ。
「久遠の《能力》が強すぎるだけ。チートじゃん」
「亜弥香の《能力》が加わればもっと強くなるよ。オールラウンダーの私と支援特化の亜弥香。【教会】でも私たちに勝てる人間はほとんどいない」
【教会】の中でも5本の指に入る実力を持つ久遠とサポート面だけならばトップクラスの亜弥香。この二人のコンビは【軍】とまともに殺り合える【教会】の主力パーティーと言っても過言ではない。
「……早く【軍】を壊滅させないと」
「その意見には同意だけど、まずは目の前のことだよ。あいつらがこの街で起こそうとしている何かを阻止しないと」
「そうだね。私たちが止めないとどれだけの死人が出るか分からない」
【軍】の人間は目的の為ならば手段を選ばない。
どんな非情なことであろうと、どれだけ大勢の人間が傷つこうとも決して止まることはない。
「……はぁ。朝からこんな話するもんじゃないね。久遠、朝ごはんの準備は出来ているから着替えたら降りてきて」
「はいはーい」
久遠の適当な返事にため息を吐きながら亜弥香は部屋を後にする。階段を降りていく音を聞き終え、久遠はクローゼットから目に付いた服を手に取ってのんびりと着替えを始めた。
※
「――改めて、おはよう、亜弥香」
外着に着替えた久遠がリビングに姿を見せる。
まともな服装をしている久遠を見て亜弥香は胸を撫で下ろす。それからお玉を片手に持ったまま手を振る。
「おはよう、久遠。もうすぐで出来るからもうちょっとだけ待ってね」
「何か手伝おうか? 待ってるだけじゃ悪いよ」
「そう? ならご飯よそっておいてくれる? もう炊けてるから」
「はいはーい」
キッチンに入ると久遠は炊飯器を開ける。
白い蒸気が上がり炊きたてのご飯の優しい香りが広がる。その香りを胸いっぱいに吸い込んだ久遠は幸せそうに表情を和らげる。
「炊きたてのご飯の匂いっていいよね……」
「そうだね。日本に生まれて良かったと思える瞬間だと思う」
「香水にしたいくらい好き」
「それはやめて」
全力否定する亜弥香。不満げに頬を膨らませながら久遠は二人分きっちり炊かれていたご飯を均等に茶碗に盛り付けていく。
「亜弥香ー。次はー?」
茶碗をテーブルに並べた久遠は巻きたてのだし巻き玉子を切っている亜弥香に声をかける。
速攻でやることが終わった久遠は暇を持て余すように並べられていた箸を弄る。
「あとは運ぶだけだから座ってていいよ」
「はいはーい」
きちんと椅子に座り直した久遠は亜弥香を待っている間スマホを弄り始める。
今日の天気、ニュース、ゲームのログインなどを一通り済ませたところで今日の朝食がテーブルに並んだ。
「やっぱり朝は和食だよね。パンとかだと朝食を食べたって気がしないもん」
いただきます。と手を合わせて食事が始まる。
久遠が真っ先に口にしたのは味噌汁。亜弥香の作る味噌汁はこれぞ家庭の味! という感じで、一口飲めば縁側でお茶を啜るようなホッとすることができる。
具材もネギと豆腐だけ。シンプルイズベストとはまさしくこの事を言うのだろう。味噌本来の風味を具材で殺すことなく、クセのないダシの味はじんわりと口の中に溶け込んで行くようだった。
「亜弥香……お願いがあるんだけど」
「? なに?」
「結婚して」
「嫌」
まさしく疾風迅雷。久遠の求婚を雷の如く断った亜弥香は呆れたようにだし巻き玉子を箸で取る。
「毎朝毎朝よく飽きないね。私はもうこの流れ飽きたよ」
「私も飽きてるんだけど、言わなきゃいけない使命感が私の中にある」
「そんな使命感はゴミ箱に捨てていいから。そんな事よりも今日の買い物のことなんだけど」
「私の求婚がそんな事扱い……」
一蹴された久遠はガクッと項垂れる。
もちろん本気で気にしているわけではないから亜弥香も何もツッコムことはない。
穏やかな朝の時間が流れていく。
何も無い平穏な日常。これがいつまでも続けばいいのにと思わずにはいられなかった。
to be continued
心音です。こんばんは!
今回は亜弥香たちの朝の場面を書いてみました。穏やかですね。まったりしてますね。戦いが始まれば偽りの平穏は消えてしまうことでしょう。どうかその時までこの何も無い日常をお楽しみください。