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(e)人望担当
武田信廉は、信玄の弟で、影武者を務めたことで有名。1561兄の信繁が戦死した後、一門筆頭になり城主や城代を務めた。1582織田氏に敗死。
【鑑定】一門のまとめ役として、その天命能力をいかんなく発揮した。真に迫った影武者であった。
武田信豊は、信玄の弟・信繁の子。勝頼の補佐を務めた。畿内や上杉・北条との外交も、担当した。1582小諸城で城代に殺された。
【鑑定】人望厚いことから外交もしたのであろうが、流されやすいので外交には向かない。外交は、うまくいかなかったようである。
春日虎綱(高坂昌信)は、農民から身を起こし信玄の使番を始めに、足軽大将、海津城代と出世した。甲陽軍鑑の作者といわれる。北信濃・上杉外交を担当した。1578病死。
【鑑定】初め人望、後には外交力も兼ね備え、武田家臣中最大の存在である。下層出身ながら譜代になったことが、その能力の高さを示している。その死により、武田氏は傾いていく。
真田幸綱(幸隆)は、信濃出身・海野氏一族で、1541武田信虎に海野を攻められ敗れ、のち信玄に服した。砥石城攻略に成功して譜代に準ぜられ、上杉・北条との戦いの最前線に。
【鑑定】人望、後には異彩力も兼ね備え、武田氏を天下に押し出すのに巨大な貢献をした。
(f)組織指導担当
諸角虎定(室住虎光)は、信虎の侍大将で、1561川中島で戦死。
【鑑定】目立つ働きが見えない。当主信玄本人が組織指導力を持っているので、その補佐に回ったのだろう。
秋山虎繁は、信濃木曽伊那方面を担当し、侍大将から城代に昇った。織田氏との同盟を唱えた。勝頼の代は岩村城主だったが、1575織田氏に殺された。
【鑑定】戦線では能力を発揮し、戦功も多い。しかし外交の失敗が多いようである。内向きの能力の限界といえる。
多田満頼(三八郎)は、美濃出身で、信虎に採用された。妖怪退治の伝説あり。1563病死。
【鑑定】伝説は、その戦闘指導力の高さを物語る。
木曽義康は、信濃出身で、信玄に仕え、その娘を長男の夫人に迎えた。
【鑑定】木曽でのその強大な勢力ゆえ、武田氏にとっては下にも置かぬ扱いを受けたのであろう。