イヌゴリラの森6
狙うなら頭部。筋肉の鎧に守られない、比較的、ダメージの通り易いであろう部分。そこしかない。だが、簡単にはいかないだろう。やつとの体長差は、ざっと見積もって倍以上。二足で立つやつの頭部までは、かなりの距離がある。
鉄の棒でリーチを補ったとしても、充分に力を込められるような態勢でやつの頭部まで攻撃を届かせることは難しい。
チャンスがあるとすれば・・・・やつが攻撃に移る瞬間。やつが俺やアリカのような、自分より小さな存在に、攻撃を試みる時。自然、身を屈め、頭の位置が降りてくる。弱点が近づく。その隙を付く。
もっと確実性を高めるためには・・・やつの行動を制限するためにはどうする。目だ・・・目を狙う。頭部の守りがいかに脆弱といえど、俺の力で与えられる損傷がどれほどのものか。きっとたかが知れている。しかし、目を突けばどうだ?あのむき出しの瞳を潰せば・・・・やつの活動を大幅に抑制することが出来るはずだ。
勝機はある。神経を研げ。鋭く、尖らせろ。
両手の中に納まる冷たい鉄棒の感覚、そこから伝って先端に意識を集約する。切っ先に神経細胞が形成されたかのように、棒は俺の身体の一部となる。そう思え。そう感じろ。
怪物が手を後ろに反り上げ、大きく振りかぶる。やつの目には今、アリカしか映っていない。
素早く、やつの側面へと移動する。怪物の斜め後ろ、なるべく視野から外れ、やつに気取られないよう、慎重に行動する。
突然、景色が歪む。スローモーションのように、ゆっくりと時間が流れていくような錯覚に陥る。それに呼応するかのように思考の中枢をノイズが侵食する。不安、恐怖、動揺、喪失・・。やれるのか・・俺に・・・!
今は、疑問を挟むな・・・!落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け・・・・。
腕を降ろすと同時に、やつの頭部が下がる。アリカはどうしているのか。しかし、気にしている余裕はない。ただ、やつの顔を見る。目の動きを追う。攻撃の届くタイミング。それをひたすらに見極める。
振り下ろす拳に勢いが増す。俺はその一瞬、怪物がアリカを捉える視線の間。そこに向かって勢いよく、鉄の棒を突き出した。
振り下ろした腕の勢いに引っ張られ、やつの目は、まるで吸い寄せられるかのように、突き出された鉄の棒へと近づく。そして、右の目、その瞼の上をこそぐように、鉄棒はやつの顔と交差するような形で、反対側へと通り抜ける。
怪物は雄叫びを上げた。腹の底まで響くような低い重低音。手ごたえはあった。しかしまだだ。
やつが振り降ろした拳はそのまま勢いを落とし、半分の視界を失い、バランスを崩した自らの身体を支える支柱となった。
少し、回りを見る余裕が生まれた。怪物の正面、アリカの姿を確認する。両手にスタンガンを握り締め、傲然と、怪物を見据えている。まったく、大した女だ。その顔に、恐れなどおくびにも出すことはない。彼女は、俺なんかよりよほど上等な人間のようだ。
怪物は突如、世界の半分を失い、混乱している。俺の位置をまだ、認識できていない。どこから攻撃があったのか、その出処を探っている。頭を左右にひねり、耳を揺らし、鼻を鳴らし、必死に探り回る。
そうだ、それでいい。俺は今、この怪物と対峙し、初めて優位な精神状態に立った。もう、貴様は術中だ。犬ころめ。少々、厳しめのしつけがお前には必要そうだ。手心を加えている余裕はあまりない。きっちりと、全力でかたをつけてやる。
鉄の棒を両の手でしっかと持ち直す。怪物が、こちらを見つける。自分を痛めつけた、元凶を認識する。ゆっくりと俺の方に身体を向けた。やつの右目、閉じられた瞼の上から血が滴っている。赤い血だ。やつは残された瞳で、俺の姿を映し出した。
俺を見ろ。よおく見ていろよ。目を離すんじゃないぞ。怪物は、猛った。その表情には、ありありと怒りの色が浮かんでいる。恋の病にかかったように、貴様は俺に視線をくれていればいい。大きく息を吸い、俺は肺に空気を行き渡らせた。そして、怪物の注意が完全に俺の方へと向いたことを確信し、アリカに向かって叫ぶ。
「アリカ!!スタンガンをぶち込んでやれっ!」
背後、完全な死角から、再び二撃目をお見舞いしてやる。効果が薄い事は、承知の上。しかし、その程度の隙で十分だ。やれる。やってやる。
俺の方を見ていろよ、犬っころ。そしたらまた、気持ちよく昇天させてやるよ。
怪物の全身に、力が漲る。殺気を迸らせ、俺に飛びかかろうと、前傾に身を屈める。怖い。正直、震えている。俺など所詮、何の力もない、ただの大学生だ。それが、こんなところでいったい何をしている。改めて考えてみると、馬鹿馬鹿しい話だ。気が付いたら、こんな異形の怪物と戦っている。
微笑が自然と浮かんだ。なんだ、結構やれるじゃないか、俺。こんな、馬鹿みたいな状況に、きっちり対応出来ているじゃないか。そうだ、自信を持て。気圧されるな。俺は戦えるんだ。
強い光が目に飛び込んでくる。一瞬遅れて、弾けるような炸裂音が耳に届いた。スタンガン・・・・!
怪物の身体が上に引っ張られるように、まっすぐに伸びる。そして、何秒か静止したあと、ぐらつき、前のめりになった。
気を失ったか?俺の方へ倒れ込んでくる。いや、待て、違う。やつの目。無事な片方の目。開いている。俺を、俺の事を、見つめている。こいつ、そのまま俺ごと潰す気か。
怪物の両の腕が大きく横に開かれる。そのままの推力で俺を捉えるつもりだ。
所詮、畜生ではその程度の知恵か。浅はかだったなイヌゴリラ。それじゃ的にしてくださいと言っているようなものだ。お前の、もう一方の目。そっちも閉じておいてもらおう。
棒を上に向ける。怪物の左眼。そこに照準をしぼり、ただ待つだけだった。力なく倒れ込んでくるやつには、それをよけるほどの余力は残されていない。怪物は、目に飛び込んでくる棒の先端を、眺めているしかない。そのまま勢いよく、棒は怪物の目にめり込んでいった。
怪物は初めて、弱気な声を上げる。小動物さながらに、か細く、高い悲鳴のような声を出した。やつの眼を潰した感触を確認し、俺は急いで棒を手放した。そして身をひねり、倒れ込んでくる怪物の巨躯をかわす。
巨体が倒れた衝撃で、砂埃が巻き起こった。下から吹き上げる砂の粒は俺の意思とは無関係に、瞼を落とした。再び、目を開いたとき、またやつが立ち上がっていたら・・・どうしよう。もう、これ以上はない。これでもだめだったら、打つ手はない。不安の影が、心の内を暗くする。だが、目を開き、それがまったくの杞憂であることがわかった。
怪物は両目を大きな掌で覆い、うつぶせにうずくまっている。そこには、先ほどまで殺気を纏い、俺を震え上がらせた怪物はいない。ただ、弱弱しく鳴く、哀れな動物が一匹いるだけだった。




