イヌゴリラの森4
ただ、やつの攻撃を躱す。時間を稼ぐ。それだけに専心する。他に余分なことを考える必要はない。今、必要なことをしろ。俺は機械だ。プログラムを忠実にこなす、マシーンだ。
自分に言い聞かせる。何度も何度も何度も。暗示をかける。息を整え。精神を安定させる。焦るな。よく見ろ。
左腕・・・。筋肉が膨れ上がる。来る。
膨張したやつの左腕が、無遠慮に振り下ろされる。間一髪、それを避けた。ほとんど目の先を、巨大なエネルギーの塊が通過していく。俺の身体のすぐ前に、やつの腕は柱のように突き刺さった。
左腕が地面に到達するのとほぼ同時。右拳も俺に向けて飛んでくる。顔目がけ、フックして近づくそれを、間一髪、鼻をかすめるほどに接近した位置で横に逃れる。
拳が眼前を通過する風圧で、一瞬、無意識的に瞼が降りた。刹那、怪物は右腕を引き、同じ角度で拳を打ち込んでくる。
避けきれない・・・!瞬間、理解した。反射的に身をひねったが、間に合わない。せめて、拳の当たる面積を最小限に抑えるべく、動く。
スローモーションのように、景色が流れていた。感覚は鋭敏化され、ゆっくりと右肩の上あたりをやつの拳がかすめていくのを、俺は眺めている。客観的に、まるで他人事のようにそれを見ている。だが、すぐに現実へと引き戻された。
遅れて、痛みと衝撃がやってくる。肩の感覚が消し飛んだ。抉られた、と思った。すさまじいエネルギーの奔流に、俺の身体は制御を失い、後方へと弾き飛ばされる。視界は反転し、宙を漂う。空・・・・・空が見える。強い光線が、空から照り付け、俺の目を刺激する。太陽、この世界にも太陽があるのか。のんきにそんなことを考えている自分がおかしかった。なんだ、まだ余裕あるじゃないか。
数秒後、すぐに地面の冷たい感覚が全身を襲った。何秒か空中を舞い、背中から地面にたたきつけられる。痛みに、呼吸が止まった。
早く立ち上がらなけらば。早く・・・!だが、思うように手足が反応しない。味わったことのない衝撃に、体が硬直している。
左腕をなんとか動かし、やつの拳がかすった右肩を触る。あった。抉られ、無くなったかと思ったが、まだあった。
身を起こすべく、上体にゆっくりと力を入れる。どのくらい吹っ飛ばされた。やつとの距離はどれくらいだ?今、俺は完全に無防備な状態でいる。このままではまずい。痛みを感じている暇はない。思考と身体の乖離に、苛立ちを覚える。早くしろ!動け!早く!
死の感覚がすり寄ってくる。押しとどめていた、冷たい意識が、足元から徐々に這い上がる。動悸が激しくなる。胸の中心から得体のしれない脅威が急速に広まっていく。
ふと、何故か木々の枝葉に目が行く。何か動くものがそこにあった。あれは、鳥だ。身体は小さい。スズメぐらいの大きさだろうか。何匹かいる。蒼い、空と同じような色をしていた。あんな鳥は見たことがなかった。もうじき、飛び立つ・・・。なぜだかそれがわかった。蒼い鳥は、空に溶け、消えてしまった。
俺は小さく、自嘲気味に笑う。おいおい・・ずいぶん気楽じゃないか。どうした?そんな状況か?
自分の中にまったく違う、二つの感情が存在している。一方は怖れ、一方は泰然としている。これはいったいなんだ?
しかし、自問している時間などないのだ。身体を起こす。今はそれだけに集中しろ。徐々にショック状態から身体が回復していく。強制的にシャットダウンされていたすべての器官が活力を取り戻し、なんとか手足の神経を脳が認識する。ゆっくりとだが動く。起きろ!早く!
思い通り、上体を起き上がらせる。やっと身体を起こし、映る視界の先。そこには絶望があった。眼界を塞ぐ黒い壁。怪物が、俺の行動を待っていたかのようにそこにあった。
悠然と、やつは右腕を伸ばす。俺の脚を岩のようにごつごつとした掌で覆い、指を小指から順番に折りまげ、丁寧に掴む。それを、ただ眺めているしかなかった。
体毛に覆われた、やつの黒く太い腕。あれは死へと誘う、地獄の淵より出でた腕。万人に終わりをもたらす、死神の腕だ。
死ぬ。俺は今度こそ、明確に死を意識した。




