絶望への架け橋
◇
「……んっ」
暫くして、既に眠りに就いていた仁奈が、薄っすらと目を開けた。ぼんやりとした視線を隣へ向けると、そこにはすやすやと寝息を立てる七海の姿。それを見て、段々と意識がはっきりしてきた。そして、そうなってくると部屋の空気が気になりだした。
(暑い……)
もう九月とはいえ、日によってはまだ蒸し暑い時もある。今夜も若干湿度が高く、快適な環境とは言い難い。まあ七海は普通に寝ているが、その辺は個人差なのだろう。
最初はもう一度寝付こうと試みていた仁奈だったが、やがて諦めたのか、静かに布団から抜け出した。そして部屋の戸に手を掛け、音も立てずに外へ出る。
「……あれ、まおちん?」
部屋の外で、寝ずの番をしている魔緒と出くわす。真っ暗の中で読書でもしていたのか、本から顔を上げて問いかけてくる。
「どうした? 眠れないのか?」
「ちょっと、暑くって……水飲みに、ね」
「そうか。もう九月とはいえ、まだまだ熱帯夜が続くそうだからな。灯り、つけるか?」
「ううん。大丈夫」
「そうか」
魔緒の申し出を断って、仁奈は一人、水を飲みに台所へ行くのだった。
(面倒だな、この状況)
魔緒は、台所へ行く仁奈を見送りながら、心の中で呟いた。今彼らが同じ場所にいるのは、その方が、未知なる脅威に対応しやすいからである。しかしたった今、姉妹の片割れが少し離れてしまった。気にするほどの距離でもないし、別に今夜何かがあると決まっているわけでもない。だからといって、この不安が消えることはなかった。
(こういう時、体が二つあれば、と思ってしまうな)
そんな無茶なことを願ってしまうほどのもどかしさを、彼は感じていたのだ。
(まあ、この家には頑丈な結界を張ったし、多少の気配ならすぐ気づくから問題ないはずだがな)
しかしこれが、後に取り返しのつかない事態を引き起こすことになるとは、まだ誰も思わないのだった。
仁奈は台所で、コップに水道水を注いでいた。だが、彼女の手にあるコップからは、既に水が溢れてしまっている。しかし仁奈は水を止めない。コップの水が溢れて、自分の手を濡らしていることにさえ気づかないほど、自己の世界に入り浸っているのだ。
(……何なんだろう。さっきから、モヤモヤして落ち着かない)
本来表現できないであろうそれを、無理にでも言葉にしてみるなら、周囲の地面に見えない落とし穴が仕掛けられているような感じ。どの方向へ進んでも、必ず罠に引っかかってしまうという、そんな予感。簡潔に言うなら、八方塞。或いは四面楚歌。
(どうして? 別に、何かに行き詰ってるわけでもないのに)
今は別に、誰かに追われているわけでもなければ、解決できない課題が立ち塞がっているわけでもない。八方塞なんて言葉が出てくるような状況ではないはずだ。なのに、今の仁奈にはどうにもその言葉がしっくりきてしまう。
という所まで思考が至ったとき、彼女はやっと手に持つコップが満杯になっていることに気づいた。慌てて止めるが、既に溢れていた水が仁奈の寝巻きの袖口をぐしょぐしょにしてしまっていた。腕から滴る雫を眺めながら、仁奈は再び、思考世界での作業に戻った。
(そういえば、そもそも何でこんなことになってんだっけ?)
一連の出来事を順番に思い出してみる。まず、学校に謎の少女二人組みがやって来て、魔緒を負傷させて。その後、これまた謎の少年が現れて、魔緒と、その傍にいる誰かを狙っていると宣言してきた。故に、用心のためにと、彼が、姉と一緒に泊り込んでいる。これが現在の状況だ。
(でもそれって……)
相手からして見れば、狙っている獲物が一箇所に集まっているということではないのではないか? 無論、狙われているのが、自分たち姉妹のいずれかであればだが。
(だったら今って、一番狙われやすいときなんじゃあ……)
しかも、今は魔緒から離れていて、いざというときに彼から守ってもらいにくくなってしまう。
(ってことは……!)
今襲撃されれば、自分が人質に取られて、それによって魔緒が彼らの言いなりにならざるを得なくなるのではないか? もっと言えば、彼らが狙っているのが仁奈でなく七海であれば、自分せいで姉まで捕らえられてしまうかもしれない。そんな可能性に思い至ったところで、ようやく今の自分が、どれほど危険で、どれほど重要な状態なのか悟った。
(早く、戻らないと……!)
コップを流しに置き、急いで部屋に戻ろうとするが―――
「っ……!」
突如右足に激痛が走り、体勢を崩してしまう。そしてそのまま、正面から床に倒れこんだ。
「痛っ……」
なおも痛み続ける右足へ無意識のうちに手を伸ばすと、指先が生暖かいものに触れた。それが血であると分かったのは、違和感を覚えたその手を眼前に持ってきたからであった。
「な、何で……?」
突然の痛みと出血。右足は感覚がなくなったかのように言うことを聞かず、小刻みに痙攣するのみ。訳が分からず、負傷していない両腕で体を支えて立ち上がることさえままならない状態。思考は完全に停止し、ただでさえ薄暗い中視界はその意味を成さなくなっていく。肺はただ、生存本能のままに、激しい呼吸を繰り返していく。
思った以上に出血が多いのか、それとも出血を意識したせいか、はたまたパニックに陥ったからなのか。仁奈の意識が、徐々に遠退いていった。




