泣いた春山さん 2
桜がはらはらと舞う校庭。夕焼けのオレンジ色の光がプラスされて、昼間とは違う雰囲気が漂っていた。グラウンドを分割している野球部の、カキーンという音が響く。それを聞くと、サッカー部員でも、清々しい気分になる。
「真冬っ!外周タイムが一ヶ月前に比べて大幅に縮んでる!持久力が伸びた証拠ね!」
そう言って、ストレッチをしている俺の隣に屈みこんだ。肩までの長さの、黒色ストレート。彼女は白い歯をにっと見せて、笑う。
「コーチに言われた通りに、トレーニングを頑張ったおかげだな」
「でも、まあ、真冬にはまだまだ実践力が足りないけどねー」
掛野愛。サッカー部のマネージャー。彼女はこうやって、いつも俺をからかう。
「うっせーよ」と言うと「レギュラーだからって調子に乗らないでよね」と俺の肩を叩いた。このノリは、中学校から変わっていない。きっと、こういうのを腐れ縁と言うのだろう。中学から現在まで、ずっと同じクラス。そして愛も俺もあの頃からサッカー部に所属していたため、仲良くなるのは当たり前のことだった。
「あ、そーだ。部費、真冬の分まだ貰ってないよ?今年の分、明日までだけど」
「ああ、悪い。教室の机の中に忘れた。ちょっと取って来る」
もう練習も終わりだ。俺は立ち上がって、下駄箱の方へと走る。すると、背中に彼女が大きな言葉をぶつけた。
「私、真冬に期待してるから!次も絶対レギュラーなってね!」
振り向いて「おう」と答える。彼女は相変わらずの笑顔で、手を振っていた。
*・・・・・・・・・・・・・・・・
たんたんと長い階段を駆け上がり、夕焼けの差し込む廊下を過ぎたところ。もうみんな帰ってしまったため、教室の鍵は開いていないかもしれない。まあ、何となく、小さな賭けをして鍵を取りに行かなかったわけだ。
古い扉に手を掛け、横に引く--と、鍵は開いていた。がらがら、と大きな音を立て、大げさに開いた。
「……!」
--人が、いた。
俺の席の、斜め前。茶色の長い髪。夕焼けに照らされて、綺麗だ。
春山さんが、いた。
「あ……ごめん!大きな音立てて!ちょっと忘れ物を……」
不意打ちだった。俺は平然を装うのも忘れて、これまた大きな声で謝った。そして、軽く息を呑んで、席へと向かう。
「ううん、大丈夫だよ」
春山さんが、机に向かったままで言う。
彼女の机には数学のワークが置いてあって、綺麗な文字が書いてある。学校に残って勉強をしているなんて……偉い。本当に、すごく偉い。
机の中の茶色の封筒を回収すると、ゆっくりと立ち上がる。そして、彼女の方へ歩み寄ってみた。
「残って勉強なんて、偉いね」なんて、笑って言ってみる。
……て、なんで春山さんは教室にいるんだ?彼女は俺が部活に行く前に、家に帰ったはずだろ?
そんな事を思い出したが--すぐに消えた。
春山さんが、泣いていたから。
びっくりして、動揺して、焦って、どうしたら良いのか分からなくて、だけど泣き顔も可愛くて……俺は、とにかく、相当じっと彼女を凝視してしまった。
ただ、春山さんは、静かに泣いていた。少し俯いて、手でそれを拭っていた。その指の隙間から見える表情に、ぐ、と何かが熱くなる。
「春山さん……ごめん!どうした!」
ごめん、どうしたっていうのは文法的にも間違っているだろう。だけど、余裕がなかったんだ。
「ううん……何でもないの。ごめんね、優木君」
俺に謝る必要ないだろ、春山さん。そして、何でもないことないだろ、春山さん。
一体、どうしたって言うんだ。何で泣いているんだ。しかも、そんな風に悲しそうに。何でなんだよ。その全てが知りたい。それと、もう何ていうか、何と言ったらいいのか。
春山さんが悲しそうにしているところ、見たくない--
「俺で良かったら、何でも聞くから!春山さんは間違ってないから!」
こんな事言って、ほぼ話したこともない俺に言ってくれるのだろうか。彼女の心の中を、教えてくれるのだろうか。
これは、賭けだ。さっきの鍵の賭けと同じだ。いや、違うけど。教えてほしいから。春山さん……!
「……このワークの問題が分からなくて」
微かに震える声。だけど、にこりと無理して笑う。
--教えてくれなかった。
だって、そんなことで泣いたりしないだろ?そんなことで、こんなに悲しそうに綺麗に泣いたりしないだろ?
だけど、彼女が長い睫毛を濡らすから。大きな瞳を潤ませて、ちらりとこちらを見たから。何も言えないだろ。無理矢理、彼女の心を壊してまで見る権利、俺にはないだろ?
「……そっか!」
俺は言葉を言って、春山さんは「うん」と答えて……それからの事はあまり覚えていない。
ただ、知らない間に家に帰っていて、知らない間に部費も渡していて、知らない間に風呂に入って、知らない間のベッドに転がって。
ただ、ひたすら。ずっと春山さんのことを考えていたんだ。