第1話 プロローグ
薄暗い部屋。ベッドには一人の青年が横たわっていた。その体は手足を縄で縛られ、口には布が押し込まれている。
彼の目は虚空を見つめ、呼吸は浅く不規則だ。
窓から差し込む月明かりだけが、この監禁された世界を照らしていた。
「ただいま、兄さん♪」
扉が静かに開き、少女の声が響いた。長い黒髪が月明かりに青白く浮かび上がる。
少女は優しい笑みを浮かべながら部屋に入ってくる。その手には光る『何か』が握られていた。
「いい子にしていましたか?」
少女はゆっくりと近づき、兄の頬に触れる。冷たい指先が肌をなぞる感触に、兄は微かに震えた。
「ふふっ……そんなに怯えなくていいんですよ。今日はとってもいいことがあったんです。学校で……」
少女は無邪気に話し始めるが、青年の耳には届いていない。彼の意識は既に遠のいていた。
「でね、先生が言うんですよ。『お兄ちゃんを大切にしなさい』って」
少女の表情が一変した。穏やかだった瞳が暗く沈み込み、唇が歪む。
「不思議ですよね。私がずっと守ってるのに」
少女は再度兄の顔に手を伸ばし、今度は強く握りしめた。
「どうして……みんな分かってくれないんだろう」
少女の天使のような微笑み。
しかし、その手にあるナイフの輝きが、静かな狂気を物語っていた。
「ねえ、兄さん。また私の話を聞いてください」
少女の指が刃の表面をなぞる。兄の顔に近づくにつれ、彼女の瞳が異様な輝きを増していく。
「聞いて──くれますよね?」
少女の声が震える。天使のようだった笑顔が崩れ始める。
兄の目はもう焦点が合っていない。それでも彼女は構わず続ける。
「大丈夫ですよ。私は兄さんのためなら何でもできますから。だって私達は……」
ナイフが月明かりを反射し、壁に奇妙な影を作った。
「兄妹なんですから」
少女の囁きとともに、部屋の中に鈍い音が響いた。
そして再び、静寂が訪れた──少女の狂気が包み込む中で。
*
いつからこうなってしまったのか、俺にはわからなかった。
変わり映えしない毎日、変わり映えしない日常。それが突然変わり始めたのはいつのことだろうか?
いつものように学校に行って、友達や恋人と過ごしていたはずなのに、俺の日常は突如として終わりを告げたのだ。
そして今に至るわけだが──正直なところもう限界だ。
精神的にも肉体的にもボロボロになっているのが自負でもわかる。
「……ッ」
縛られたまま動けない身体を必死に動かそうとするも縄が肌に食い込み痛みだけが走る結果となるだけだった。
このままだと、いずれはあの妹に殺されてしまうのではないか?と思うことも一度や二度ではない。
(……こいつ、呑気に寝てやがる)
俺をこんな状況に追い込んでおきながら、幸せそうな顔をして眠っている妹。思わず可愛いなどと漏らしてしまいそうになるほどの寝顔。
ガチャリガチャリと、金属音が耳元で響く。
視界が霞む。呼吸が苦しい。
手足の感覚がない。
ただ、全身を締め付ける圧迫感だけが鮮明だった。
嫌いな音だ。あの鎖が擦れる音を聞くたびに自分の状況を思い知らされてしまうから、嫌いなのだ。
俺は一体何をしているんだろう?
こんなところで何をやっているんだろう?
出来るなら、この鎖で繋がれた手錠や足枷を引きちぎりたい。
だが俺にそんな力があるわけでもない。
そもそも人間の筋肉では不可能なのではないだろうか?
わからないが、俺にもっと力があれば……。
そう──物語に出てくるような“魔力”が俺に宿っていたら……。
(馬鹿か……)
思わず呟いた。現実逃避も甚だしいと嘲笑する。
それでも……もし本当に自分にそんな力が宿っていたらどんなに良いだろうかと思う気持ちもある。
今の俺には考える余裕もない。ただひたすら耐え続けることしかできないと思った矢先、目に入ったのは安眠に入ってる妹の手に持っている果物ナイフ。
目の前でりんごを切って見せつけてきた時に使っていたものだ。
あれさえあれば脱出できるかもしれない……と、微かな希望を抱いた矢先だった……。
(……脱出したところで、何になるんだ)
今の俺に未来なんてない。あるのは絶望だけ。
仮に逃げ出せたとしてもすぐに捕まるだろうし、逆に怒り狂った妹が暴れ回ったりしたらそれこそ大惨事になる可能性だってあるわけで……。
もう家族も恋人もいないのだ。この世界には俺を待っていてくれる人は誰もいないんだ。
何もできずに、ここで朽ちていく運命。
(はは……)
乾いた笑い。誰に向けるでもない独り言。虚しさだけが募っていくばかりだった。
──だったらせめて、己の人生くらいは自分で終わらせよう。
俺はゆっくりと手を動かしていく。鎖で
縛られているせいで動きづらいが、それでもどうにかして腕を伸ばそうと試みる。
「っ……」
ナイフを掴んだ。もう迷いはなかった。
そのまま勢いよく手首に突き刺すと、徐々に流れ出す赤い液体とともに俺の意識が薄れていく。
──ああ、やっと、これで楽になれる。
死への恐怖、笑い合った友人、奪われてしまった大切な人、あまつさえ妹の顔まで……。
様々な感情が交錯しながらもやることはやった。これでもうすぐ楽になれるんだと思えるだけで気持ちが軽くなっていたことも事実だ。
だが……何故だろうか? 不思議と恐怖心は無かった。あるのはただ一つの願望のみ。
それは──。
(魔力……欲しいなぁ)
そんなあり得ない妄想をしながら、俺はそっと瞼を閉じた。
*
暖かい。柔らかい。そして懐かしい匂い。
ぼんやりとした意識の中で最初に感じたのはそれだった。
瞼を開けると、眩しい光が差し込み、思わず顔をしかめる。
「おっ!目を開けたぞ」
若い男の声が聞こえた。俺の知らない声だ。
視線を向けると、見知らぬ男性が嬉しそうに俺の顔を覗き込んでいる。
「見てください、可愛い男の子ですよ」
「うん、これがわたしの……」
隣には女性が座っていて、優しく俺の頬を撫でた。
「ミハイル様とアドルフ様のご子息です。将来はきっと立派な」
二人は幸せそうに笑い合っている。そして、ふと気づいた。
俺の体が小さい。手足が短く、まるで赤ん坊のようだ。
(え……)
混乱する頭で考えを整理しようとする。だが思考よりも先に身体が反応した。
小さな腕を上げると、まるで風船のような小さな手が目の前に現れる。
「見てくださいアドルフ様、指を握っていますよ」
「うむ、すぐに魔力測定を」
俺は思わず耳を疑った
(……魔力?)
この単語を聞いた瞬間、俺の中に残っていた記憶が一気に蘇ってきた。
妹に監禁され、最後は自ら命を絶ったあの日のこと。最期に願ったこと——。
そして今、俺は赤ん坊の姿で二人の男女の間にいる。
要するに……。
(転生来たーー!!!)
俺の心は歓喜に満ち溢れていた。
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