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雨の降る二人

雨の降る東京。

二十階のビルの縁で、私は終わらせるつもりだった。

人間にも、この世界にも、もう何も期待していなかったから。

雨の降る東京。

ネオンの滲む空を背に、少女はビルの縁に立っていた。高さはおよそ二十階。吹き上げる風に髪が揺れるたび、彼女の足元がふらりと揺れた。


彼女は、もうとっくに人間に、この世界に期待をしなくなっていた。

やさしさは偽善にすり替わり、正しさは暴力に形を変える。笑顔の裏には値札が貼られ、涙ですら演出になる。そんな世界のすべてに、彼女は心底うんざりしていた。


「最後くらいは、静かに終わらせてよね」


誰にともなくつぶやく声が、雨音にかき消される。

下を覗く。通りを歩く人々は傘に守られ、誰も彼女の存在に気づかない。


そうして一歩、前に踏み出そうとしたそのとき――


「やめたほうがいいよ」


静かな声が背後から響いた。

驚きに振り返ると、そこには、傘もささず、ずぶ濡れの少年が立っていた。


その声は、驚くほど冷静で、けれど妙に芯が通っていた。

少女は反射的に振り返った。雨の中に立つ少年。年は彼女とそう変わらない。黒いパーカーのフードを深くかぶり、顔の半分は影になっていたが、濡れた前髪の隙間からまっすぐな視線がのぞいている。


「……誰?」

「通りすがり」

「なんで、止めに来たの?」


少女の声は硬く、少し苛立っていた。優しい言葉も、同情も、もう聞き飽きていた。


少年は一歩だけ近づいて、言った。


「止めに来たわけじゃない。選んでほしいだけ」


「選ぶ?」


「飛び降りるか、それとも……僕についてくるか」


少女は笑った。ひどく滑稽な提案に思えた。

「何それ、宗教の勧誘?」

「違うよ。でも、僕の知ってる場所に行けば、少なくとも“ここ”よりは、少しだけ面白い」


「ここよりは?」


「少しだけ、ましな地獄さ」


一瞬、少女の瞳が揺れた。冗談とも本気ともつかないその言葉に、妙に説得力があったからだ。


少年はもう一歩、ビルの縁に近づく。

そして、小さく笑った。


「それとも、もう選ぶ気力もない?」


少女は唇を噛んだ。そして、ゆっくりと踵を引いた。


踵を引いた少女の足が、ようやくコンクリートの屋上をとらえた。ビルの縁からわずかに後ろへ下がる。その瞬間、まるで張りつめていた糸が切れたように、脚の力が抜け、彼女はその場にへたり込んだ。


雨はなおも降り続けていた。


少年は彼女に手を差し出した。細く、冷たい指。けれど、その手には妙に重さがあった。現実に引き戻すような、無言の圧。


少女は、しばらく黙ってそれを見つめていたが、やがてゆっくりとその手を取った。


「……どこに行くの?」


「“こっち側”の世界さ。普通の人間には見えない場所」


「何それ。異世界とか、そういうの?」


「違う。こっちはちゃんと東京。だけど、“裏側”の東京」


少女が首を傾げるより早く、少年は屋上の扉を開いた。ギィ、と軋むような音がして、その先には非常階段……ではなく、見慣れない長い廊下が伸びていた。壁にはびっしりと、知らない文字で書かれた貼り紙。裸電球が、ゆらゆらと不安定に灯っている。


「……ねぇ、これって」


「さっきまでいた東京とは、ちょっとだけ違う。でも確かにここも“現実”」


「私、もう死んだの?」


少年は笑わなかった。

かわりに、こう言った。


「ここから先に行く人は、みんな一度“死にかけた”やつばかりだよ」


廊下を一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。雨の音が、ピタリと止んだ。


「……静かすぎない?」


「こっちの東京は、いくつかの“層”でできてる。音の届く範囲も、光の届く範囲も、それぞれ違う」


「層……?」


少女の眉がひそむ。少年は振り返らず、まっすぐ歩きながら言った。


「表の東京では、誰も気づかない場所。気づかれない人間。消えてしまった物語の断片。それらが寄り集まって、ここはできてる。……ま、わかりやすく言えば、“忘れられた者たちの町”ってとこかな」


廊下の先に小さなエレベーターがあった。古びた金属扉。階数表示の代わりに、“降層中”という赤い文字が点滅している。


「ここから本格的に“裏側”に入る。名前、まだ聞いてなかったよね」


「……名前、いるの?」


「こっちに来たなら、新しい名前が必要だ」


少女は少し考えた。そして、自分の本名を口の中で一度だけ噛みしめるように呟いて、静かに言った。


「じゃあ……“らむ”でいい。どうせ仮の名前でしょ?」


少年は頷いた。

「いい名前だよ。僕は“トール”ようこそ、らむ。ここは『トーキョー・ロストレイヤー』――落ちた者たちの、最後の棲み処」


その瞬間、エレベーターの扉が静かに開いた。

薄暗い光が中から漏れ、らむの心に、小さく火を灯した。


エレベーターの中は、まるで時間が止まったように静かだった。小さな箱の中で、らむは壁にもたれて息をついた。さっきまで命を断とうとしていたとは思えないほど、今は不思議と落ち着いていた。


僕――トールは、らむの隣に立ち、薄暗いランプの灯りの下でじっと前を見ていた。


「……ほんとの名前、訊かないんだ?」


らむが不意に言った。横目で僕を見る。


「訊いてもいいけど、それを名乗るつもりはないでしょ?」


「……まぁね。忘れたわけじゃないけど、置いてきたから」


らむの声は乾いていた。でも、その奥に確かな痛みがあった。

僕も、あのときの自分を思い出す。サトルだった僕が、“トール”になった日のことを。


「ここでは、そういう奴が多い。名前を変えるのは、逃げるためじゃない。生き直すためだ」


らむは黙った。だが、少しだけ目を伏せるその表情は、ほんのわずかに柔らかかった。


やがてエレベーターが止まる。扉が開くと、そこにはまるで別世界のような景色が広がっていた。


地下都市。

コンクリートの天井に、無数のコードと古い街灯がぶら下がっている。錆びた鉄骨の合間に組まれた市場、壊れかけた看板、そして遠くから聞こえてくる雑踏。


「ここが、ロストレイヤーの第一層。“スリープタウン”」


「……生きてる、の?」


「いや、“生き直してる”って言ったほうが正しいかもね。死に損なった奴ら、忘れられた奴ら、見捨てられた奴ら……そういうのが、ここで新しく何かを始めてる」


らむはゆっくりと歩き出す。その後ろ姿を見ながら、僕は少しだけ息を吐いた。


(――間に合った)


まだ、この子は壊れていない。

まだ、やり直せる。


だから僕は、ここに連れてきた。


はじめて書き込みをさせて頂きます。

至らない点が多いと思いますが、地道に改善していければと思います!

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