13.
どこから聞いていたのかわからない。だが、ここまで来てしまえば、説明しないわけにもいかない。レムは嘆息してから、マレカに説明する。
「記憶の海にダイブするときは手掛かりがないと迷うし、帰って来られなくなる。簡単にはいかない」
「ですが、さっきの人には」
「おおよその辺りをつけられるほどのことだったから、あんなのは例外だ。それに、あんたの場合は、手がかりがなさすぎる」
スキアには、身の丈に合わないほどの大金、薄汚れた服装、慌てた様子、本人の証言。たったそれだけかもしれないが、それだけでダイブすることができた。その理由は記憶喪失になってから時間が経っていなさそうだと判断したからだ。
マレカは違う。
いつ頃から記憶を失ったのか。本人も名前しか覚えていない。服装はスキアと同じレベルかもしれないが、それ以外のことがあまりにも情報と判断するには至らないモノばかりだ。このままダイブすれば、レムの命にさえ関わってしまう。
「それでも」
しつこ過ぎるお願いにレムは辟易した。これはレムがどんなに断っても諦めることは無いだろう。マレカの縋るような目から顔を反らしてレムは茶を一口飲んだ。マレカを外に放り出したところで、後味が悪いことになるしか想像ができない。
レムは大げさに肩をすくめた。
「わかったわかった」
「じゃあ」
ぱっと顔を明るくしたマレカにレムは釘を刺すように言う。
「まずは記憶を見せてもらうだけだ」
「見るだけ?」
「今の状況じゃあ、あんたがどこの誰かが分かるほどの鍵にはなっていない。見当もつかないくらいだ。その場合は、見るだけ。見ることでどんな鍵かを判断することは可能だ。それで良いのか?」
「お願いします」
レムの言葉に目を輝かせたマレカは、そっと目を閉じた。覚悟ができているからか、揺るがない雰囲気を醸し出していた。ここまでの姿を見せられては、レムも引き受けるしかない。
右手の人差し指と中指で、左手の甲から肘にかけてそっと撫でて、文様を浮かび上がらせる。何の感情も持ちえないが、少し熱が腕にいつもよりも強く迸った。気持ちが揺れてしまったからか。いずれにせよ、一日何回もするものじゃない。手早く覗き見するほかない。マレカの頭にそっと触れ、レムは自分の意識をマレカの頭の中にゆっくり移していく。
とぷん。
マレカの記憶の海に少しだけ潜った。レムは自分を守るためにも帰って来られる保証が無いほどの深さには潜らない。
水面からすぐに見つけたのは、ひねるだけで開けられることができるストロング錠がつけられた金庫だった。記憶を閉じ込めるだけであれば、この程度の金庫でも問題ない。
しかし、簡単すぎる。
ちょっと忘れたい時くらいの金庫にしか見えない。それがどうして全てを忘れるほどのことになるのだろうか。
視るだけのはずだが、レムは何故か自分の好奇心に負けてしまった。
左手でそっと金庫を撫でると、触ったはずみのせいかストロング錠がかたんと外れてしまった。湧き出てきたのは悲しい色をした記憶の塊と何匹かの色鮮やかな蝶だった。美しく舞う蝶に思わずレムは見惚れてしまった。これほど美しく、色とりどりの蝶を見たことはなかった。マレカの記憶の中のモノだろうか。
蝶を追うように、記憶の海から戻ってきたところで、レムは瞼を上げた。先ほどまで気丈な顔つきだったはずだが、マレカの目からは大粒の涙が湧き出てきていた。
「お父さん、お母さん……」
涙で歪んだ声はそれ以上何も続くことはなかった。ただ悲しみに暮れ、嗚咽が漏れ出るだけだった。