甘く優しい微熱
今朝のことを思い出しながら、ぼくは夕暮れの駅前にいた。
冷静にここ数日のことを振り返りながら、サリカや終に感謝していた。
ぼくが巻き込まれたのは、たとえば赤の他人の目から見れば、いわゆるただの色恋沙汰なんだろう。
そういう意味では、ぼくは日常に帰ってくることができたのだ。サリカにデートに誘われたあの日からだろうか。あの、十三京のはずれで目撃した、おぞましい出来事を、ぼくは思い出すことがなくなっていた。
「おまたせ……」
「あ」
サリカの声がした。それだけで、緊張が走った。結局、学校では目が合うたびにぎこちない感じになってしまっていた。二人とも、別に皆に関係をばらしたわけでもないのに、人目を強く気にしていた。
でも。
「やっと、ふたりきり……だネ」
サリカははにかむ。恥ずかしさが駄々洩れになっている気がした。
「髪、すごく、似合ってる」
ウェーブのかかったセミロング。前髪は大きく流して、おでこが見えている。サリカは髪型を変えていた。朝から言おうとしてたその言葉をようやく、ぼくは口にできた。
「うわァ……えと、えと、エト」
両手を天に向けわなわな震わせるサリカ。こっちまで恥ずかしくなってくる。共感性羞恥。
「や、やめて、そのリアクション」
「ごめん、ごめんネ、やめたいのに、やめたいのに!」
「恥ずかしいってば」
「だって、だってだってだっテ」
多分サリカも共感性羞恥。共感性羞恥のハウリングと言ってもいい状況。
「う、うわあぁァっ」
突如叫び声をあげ。サリカは抱き着いてきた。ぼくの体を、ふわりと。制服越しの仄かなぬくもりが包んだ。やわらかい。やわらかい気がした。
「んっ」
サリカはぼくの胸に顔をうずめた。心臓の鼓動を聴かれた。
「すごい。一生このままがイイ」
サリカのその言葉を聴いて、ぼくは己の心拍がさらに上昇するのを感じた。
ぼくはサリカの頭にゆっくりと、手を乗せる。触れるとびくりと、サリカが震えた。まるで電流を流されたみたいに、震えていた。
「すごいね、こんな風になるんだ、人間って」
◆ ◆ ◆ ◆
「ほんとに良かったのかナ、時間かかっちゃうヨ」
九王町へ向かう電車の中で、ぼくらは並んで座っていた。ぼくの家とは正反対だ。ぼくの提案で、今日はサリカを家まで送ることになった。
話したいことがあった。
「今日、いつもみたいに、終と一緒に登校したんだ」
サリカがきょとんとした顔をする。緊張がほぐれてきたみたいだ。
「終は大事な友達なんだ。これからも、彼女と話したいし、一緒に登校したいんだ。ダメかな」
「え」
サリカは目を丸くして、すぐにこう言った。
「ひどいヨ」
両手を握って、胸のあたりまで持ち上げて。
「あたしの事、なんだと思ってるの、ダメだなんて、言うわけない」
「ほんとに?」
「当たり前だヨ、あたしだって、終は大事な友達!」
それを聴いたとき、自分でも驚くほど、ぼくは安堵した。
「えト、ただし……っていうかネ」
サリカはぼくの手を取り、少し間をおいて、きつく握りしめた。痛みを感じるほどだったけれど。
その微かな痛みは、心地よいものだった。
「一日……一回! うんそう、いちにち、いっかい」
間をおいて、息継ぎするように言葉を選ぶサリカ。
「ふたりきりにネ、なりたいんだ。……ダメかな」
俯いて少し身をよじる。それを見て、また気恥ずかしくなる。そんな、恋人同士にとってはまるで当たり前の、小さな願いのために、こんな状態になってしまうんだ。サリカは……可愛かった。
ぼくの中に、少し自信が生まれた。
「一日、一回でいいの?」
少しだけ余裕ぶって、ぼくはからかい半分にそう聴く。
びくっと背筋を伸ばすサリカ。やっぱり可愛い。ぼくの心に、温かい光が差す。
「えト、えト」
ぼくの中に生まれた自信が、また少し背を伸ばす。
「だめ! やっぱり百回! 一日中がイイ!」
「ええっ」
ぐんと背を伸ばして、少し縮こまる。ぼくの中の自信。己への、信頼。
ぼくは彼女を、今よりも、もっと好きになれるだろうか。
そのために努力できるだろうか。
ぼくのリアクションを見て、少し悲し気な顔をしたまま、サリカは黙ってしまう。電車が速度を緩め、止まる。
「着いちゃった」
サリカは表情を変えず呟く。ぼくらは電車を降りる。いつの間にか、ぼくが先を歩き、サリカが後をついてくる形になる。改札の手前までくる。
「それじゃあ、また明日ね」
振り返るぼくの視界に、ふわりとやわらかい風が舞い込む。サリカを感じた。
今までで、一番近くに。
唇が触れた。
サリカは不意打ち気味に、振り返ったぼくの口を、自らの唇でふさいでいた。
ぼくは……ぼくらは。
キスをしていた。
「わっ」
驚いたように声を出して、飛び退くサリカ。自分からやったくせに、彼女の表情は困惑の極みにあった。唇を指で押さえ、にらみつけるようにぼくを見たかと思いきや、ぎこちなく笑みを作り、ぼうっと力が抜けたかと思いきや、また眉を吊り上げ、今度は床をにらみつける。
それを見て。
ぼくの自信は、確信に変わっていく気がした。
サリカは、可愛い。
ひょっとしたら、他の誰よりも、なんて思える日が、来るかもしれない。
それを確かめたくて。
ぼくは人込みのど真ん中で、今度は自分から、再び。
彼女の唇を奪っていた。