心をゆらして
「サリカと付き合うことになった」
その言葉に実感が伴っていないのに気が付きながら、それでもぼくはそう言った。なぜだか、一番最初にそれを言わなきゃいけない相手のような気がした。
あのデートの翌日、ぼくはいつものように、学校へ向かう電車の中で、終と並んで座っていた。
終の顔を見る。彼女は驚いてた。驚いたまま、固まっていた。ぼくの方を見るでもなく、ただ床を見つめたまま、蛇ににらまれたカエルの様に。
「まだ誰にも言ってない。終が、最初」
それを合図に、僕の方へ顔を向けるけれど、目を見開いたまま、カチコチの表情は崩れない。
ぼくは、なぜだろう、終に笑いかけた。するとまるで硬化の魔法が解けたみたいに、終は背筋を伸ばして、たどたどしく。
「と……友だちに、恋人ができたの、初めてかもしれないよ」
終は顔を反らし、ぼくに表情を見せない。
「びっくりした……よね」
「あのね、……ううん、びっくりはしてない……んだよ」
終の指が、電車のソファに食い込むのが見えた。
「知ってたの、気が付いてた。サリカが、紅世くんのこと……」
なんだって。そりゃ僕の方がびっくりだ。
もしかして、ぼくの知らない場所で相談なんかしていたんだろうか。
まさか十郎太も気が付いてて、知らぬはぼく自身ばかりなり、という状況が発生していたのだろうか。だとしたら、ぼくは少なくとも察しの良さに関する自己評価を『にぶちん』に改めなければならない。
「これで……良かったのかな」
「紅世くん!」
ぼくの言葉を聞くや、終は振り向いて、ぼくの手を握りしめた。
「絶対にダメ、そんなこと、サリカの前で言わないでね」
「どうして」
終は呆れた、という顔をした。
「どうしてって、それは、わかるでしょう」
誤解を招いてしまったみたいだ。ぼくの『どうして』は、彼女の言葉に対するものではなかった。
ぼくは驚いていた。混乱していた。だって。どうしてだよ、終。
どうして、泣いてるんだ。
◆ ◆ ◆ ◆
駅を出てすぐ、ぼくは足を止めてしまった。
「紅世くん、おめでとう。今はまだ分からないかもしれないけど、誰かに好きだって言ってもらえるのは、ほんとに、とても素敵な事なんだよ」
終は笑って、そう言った。
「明日から、別々に登校したほうが、いいと思う。ちょっと寂しいけど」
「なんで」
終の笑顔が、ふっと消え去る。
「分からないかな、わたし、女の子だよ?」
「でも、ぼくは終と登校したい。少なくとも、すごく大事な……友だちだよ」
少し、終に睨まれた気がした。そして、彼女はまた笑いながらこう言った。
「非常識だなあ、信じられないよ」
「終に言われたくないよ、非常識なんて」
それもそうか、と言いながらまた、笑ってみせる終。
なんだか少し安心できて、その勢いで、ぼくは少しだけ息を吸って、心の中身を吐き出そうとした。
「なにも、変えたくないんだ、捨てたくない。誰かと付き合ったからとか、そんな理由で、いままで大事にしてきた付き合いだとか、関係だとか、変えてしまいたくない」
終は小さく首を縦に振る。頷いてくれた。
「そんなことしたら、まるで、あの子の言葉が、気持ちが、悪いものみたいじゃないか。サリカが、悪者になっちゃうじゃないか。だから、サリカが嫌だと言わない限り、ぼくは終と、今まで通り、会って話がしたい」
今度は、頷いてくれない。沈黙が流れる。静寂が、ぼくの思考を目まぐるしく働かせる。そうして、気が付いた。ぼくは大事なことを見落としている。
「ごめん、終の気持ち、考えてなかった。終が気にするなら、やっぱり、ぼくらは距離を置いた方がいいのかもしれない」
終は空を見上げ、ため息をついていた。ぼくは地面を見つめる。後悔が押し寄せてくる。
ぼくは、子供かもしれない。いやまあ、子供なんだけどさ。
大人に、ならなきゃいけないのかもしれない。
「紅世くんは、わがままだね。まるで、わたしみたいだよ」
ぼくは顔を上げられなくなった。終の透き通った声が、悲しみを帯びているのに気が付いた。今だけじゃない。いつだって、彼女の言葉は、ずっとこんな音色だった。
「わたしが一番好きな相手、覚えてる?」
「忘れるわけないよ。この世界、だよね」
ぼくは顔を上げる。終の事は見られない。彼女がそうしたように、空を見上げる。早朝の澄み切った空には、雲一つ浮かんでいない。
「この世界、壊れていってるの。壊れていくのが、どんどん早くなっている。気が付いてると思うよ、紅世くんも。あちこちで、悲鳴が聞こえてる。耳には聞こえない、音にもならない、そんな悲鳴」
声が、かすれ始めていた。
「わたし、紅世くんなら……あなたなら、世界が壊れていくの、少しでも止められるって、そんな気がしてるんだよ」
かすれて、震えて、聞き取れないほどか細い声で、確かに終はそう言った。
「あなたなら、サリカのこと、助けてあげられる気がしてるんだよ」
終の顔を見る。彼女はまた、涙を流していた。
「お願い。サリカを、救ってあげて」