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夕暮れに映して

 水面に映る陽の光が明らかに赤みを帯びてきた。やってしまった、サリカに対して言うべきことも言えず、なんとなく時間を潰しながら、もう一日が終わりに差し掛かる。ぼくらは船上にいた。静かに湖のほとりのアスファルトを歩いていたら、サリカがこの船を見つけて。楽しそうに、「いつかあんなの乗ってみたい」なんて目を輝かせながら言うもんだから。

 なけなしの小遣いをはたいてしまった。中学生には大ダメージだよ。


「あそこの二人、楽しそうだネ」


 見下ろすと、小さな手漕ぎボートに男女が乗っている。男の方は立ち上がり、小舟はぐらぐら。

 今にも転覆しそうな状態なのに、女の方はけらけらと笑っていた。


「落ちたら大変なのになあ」


「泳ぐのもいいじゃん、気になるじゃん、底のほうに何があるのかサ」


 湖の水ってとんでもなく冷たいよ、なんて言おうとサリカの顔を見て、ぼくは思わずぷっと吹き出す。


「サリカ、はな、鼻」


 サリカは指で自分の鼻をなぞり、くっついたソフトクリームをそのまま舐めた。彼女の手には空っぽになった器代わりのコーンが、いまだ握りしめられている。


「わっ……とと」


 風が吹いて、落っことしそうになったコーンを慌てて掴むサリカ。バランスを崩して、デッキの細い柵にもたれかかる。それを見て、ぼくは咄嗟に彼女の手を取った。

 冷たい。やわらかい。


「ありが……」


 サリカの目がぼくを捉え、すぐに逸れていき、彼女の言葉は途切れた。

 そして。

 サリカは両手で、ぼくの手を握り返した。


「ありがとネ、ほんとに、今日はありがとう、すてきな思い出になった」


 彼女は、たぶん精いっぱいの笑顔を浮かべている。けれど、わずかにどこかが、強張っているのが分かった。少しだけ、逃げ出したい衝動に駆られて。

 ぼくは、やられたよ、とつぶやく。つぶやいてしまった。


「ほんとにデートだったね、完全に、いつのまにか。やられたって思ったよ」


 その言葉に、さらにサリカの笑顔が歪んでいく。彼女の中で何かが爆発しそうなのが分かった。ぼくは目をそらした。


「サリカ、ごめん、ぼくは」


「いんだヨ、言わなくて……言わないで」


 言葉を遮られる。見ると、サリカは自身の口元に人差し指を当てていた。一度は崩れた笑顔を、きちんと取り返して。


「分かってるからサ、期待しちゃいけないんだって」


 両手を後ろで組んで。


「大丈夫だから、ちゃんと、これからも、今まで通りのあたしだからサ」


「サリカ、違うんだ」


 自分の口から出てきた、その言葉に、ぼくは自分で驚いていた。

 そして同時に、何かがつながった気がした。

 そうだ。

 ずっと心の中にかかっていた靄が、静かに晴れていくのを感じる。

 日の光が差して、目の前がはっきり見渡せる。

 そんな気がした。


「ぼくは、もう終にふられてるんだよ」


 少しだけ、痛みが走った気がした。でも、心地のよい痛みだった。


「えっ……」


「サリカが本当にぼくのこと……その……えっと、そういう気持ちがあるのなら」


 痛みは増した。増すたびに、なぜだか、ぼくに力をくれる気がした。


「嬉しいし、本当に、嬉しい。ぼくにはそれを」


 増していった痛みが、気づくとすっと、きれいに消え去っている。

 

「君を、拒む理由なんてないんだ」


 もっとカッコよく言えればよかった。サリカのように、懸命にでも、笑いかけながら、言えればよかった。


「うそ」


 何かが落ちた。見ると、サリカはさっきまで大事そうに握りしめていたソフトクリームのコーンを、あっさりと落としてしまっていた。


「うそじゃ、ないよ」


「でも! 終のことが好きだっテ! はっきり言ってた!」


「それは、……本当」


 サリカの顔が曇る。笑顔は、完全に失われる。


「でも、それが叶わないのも……たぶん、本当なんだ」


 そこまでで、終わりだった。その先の言葉は、出てこない。なにか言わなきゃいけない、探さなきゃいけない、と、焦りばかり募る。沈黙が流れ、サリカの顔はますます困惑していった。


「あたしは……あたしは……どうしたらいいノ」


 ほんの少し、ぼくに後悔が訪れる。思ったままを口にしすぎたかな。だったら、でも、やっぱり。

 ぼくは再び、思ったまま、感じたままを吐き出した。


「好きだから、好きだと言われたから、こうしなきゃいけない、なんて、そんなの多分、なにも決まってないよ。法律も、正しいも、正しくないも、なにもない」


「そんなの、分かんないヨ」


「ぼくは、サリカの気持ちに応えたい。ぼくに、できる範囲で」


 息をのむ声が聞こえた。サリカは肩を震わせている。


「サリカは、どうしたいの」


 嗚咽が聞こえた。両手で顔を抑え、屈みこむサリカ。そのまま、時間が流れた。船が動きを止めているのに気が付くころ、波止場に到着したのを知らせるベルが響く。ぼくはサリカの手を取り、ふたりでゆっくりと下船した。

 そのまま、駅へは向かわずに、ぼくは湖に沿って歩く。時々振り返ると、サリカはぼくのすぐ後ろにいて。目が合うと、驚いて、すぐに視線をそらしてしまう。

 日が落ちて、あたりにオレンジのまばらな光が灯る。

 夜の訪れ。

 それとほとんど全くおなじ、そのタイミングで、サリカは言った。


「付き合いたい」


 再びサリカを見る。

 疲れ果て、少し虚ろな目をしている。


「あたしの、恋人になってほしいヨ」


 ぼくは少し笑い返して。

 何も言わず、そのまま。


 頷いたんだ。

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