あくまとおどる
空腹を堪えていたのを否応なく思い出させられた。息が上がっていた。
はあ、はあ、と子気味良く上下する自分の肩を、どこか冷静に見ていた。
終が九王町駅のホームに見つけたのは、彼女をいじめていた宮宇地こみちという女の子だった。どう見ても衝動的に電車から駆け降りてしまった終を見つけるや否や、何故かは知らないけど、こみちは青ざめ、全力疾走で逃げ出した。構わず追いかける終のあとを、ぼくは必死についてまわった。駅から飛び出し。
どれぐらい走ったのか。少なくとも、校庭のトラック1,2周じゃ済まなそうだった。
ぼくらは見知らぬ裏路地にいた。
帰り道、わかるかな。
「こみちちゃん。どうして逃げるの。わたし、べつに、恨んだりとか、してないんだよ?」
「ひっ」
怯え切っている。ショートの髪を後ろで結んだその少女には、終の髪を引っ張り上げていたときの、あの悪魔じみた微笑の面影は、微塵も残っていなかった。突然、こみちは頭を下げ、震えながら、そのまま崩れ落ちるように膝をついた。それから。ぼくはわが目を疑った。こみちは……彼女は土下座していた。
「ごめんなさい」
終はそれを見て身じろぎ、片手を伸ばす。
「ほんとに、ごめ……さい……ごめん……ごめんなさい!」
こみちの謝罪は一方的で乱暴で、どこか自暴自棄だった。真の謝意というより、恐怖に突き動かされたまま口だけ動かしているみたいだ。
それを見て、ぼくは思った。ぼくも謝罪したほうがいいのだろうか。
あのとき学校で彼女を見かけて、衝動的にかなり酷いことをしたのを思い出す。
あれは、やりすぎだったかな。
「とりあえず、落ち着きなよ」
言葉は出たが、謝罪ではなかった。こみちは少なくとも、終をいじめていたのだ。その報いを受けるのは当然なんじゃないか。程度の問題はあるだろうけど、ぼくの方から彼女に謝ろうという気持ちは沸いてこなかった。
「もうしません、ほんとにもう、あなたを恨んだりしません、二度と!」
ぎょっとした。その口調のドスの効いたようなくぐもった低さもあったけれど、何よりも。
終が、あなた、なんて畏まった物言いで呼ばれたのに驚いたのだ。
「好きなの」
こみちはぼそりといった。ぼくは最初、その言葉が認識できなかった。間をおいて意味が分かると、さっきの比ではなく、ぎょっとした。
「終が好きなの! ほんとは……大好きだった! そのはずだったの!」
ぼくは終の顔を見た。彼女も驚いている。驚いてはいるが……口元は、緩んでいた。そしてやがて、目を細め、穏やかな笑みを讃えるのだった。
どうして。
状況の理解が追い付かなかった。
なんで、そんな優しく笑えるんだよ、終。
「うん、うん、分かるよ、知ってるから、もう、大丈夫なんだよ」
そう言いながら静かに歩み寄ると、終はこみちの頭を抱きかかえ、強く抱擁した。
こみちは驚き、やがて両手で終を抱き返して。
両目からぼろぼろと涙をこぼしながら、言った。
「あい……してます」
◆ ◆ ◆ ◆
今度はぼくのほうが、言葉をなくしてしまった。
『あいしてます』
愛。だってさ。
そんな言葉をリアルで聞いたのは、生まれて初めてだ。
しかも、それが向けられた相手は。
こみちを見送った後、怒涛のように過ぎ去った今日の出来事の数々を頭の中で振り返っていると、いつの間にやらとうとう五湖橋にたどり着いて、改札を出たあたりで、久しぶりに終が口を開いた。
「今日は、ごめんね」
「謝らないでよ、終のせいじゃない」
「ううん、わたしがきみを巻き込んでるんだよ」
なにか、含みのある物言いだった。
ぼくは終の顔を見た。視線を下げ、愁いを帯びていた。
ちょっとした決心を固め、ぼくは告げた。
「全部話してほしい。こみちって子と、何があったのか。どうしてあんな沢山の子が、寄ってたかって終をいじめてたのか、全部知りたい」
ぼくは笑みを繕った。頼りがいのある奴に見られたかった。その顔がどんなだったかは、知らないけれど。少なくとも終は、微笑み返してくれた。
「ちゃんと受け止めるから」
しかし。静かに終は首を振った。
「全部は、だめ。言えないんだよ」
即答されてしまった。
「でもありがとう」
声は震えていた。見ると、笑みをうかべた表情はそのままに、彼女は涙を流していた。